第15話 俺がいなくても
第二資材置き場は、寝床溜まりと見張り扉の間にある小部屋だった。
旧芝浦保守区画の内側ではある。だが、皆が眠る場所からは外れていて、見張り扉に近い。蟻が来れば真っ先に音が届き、逃げるには奥へ戻るか、見張り扉を抜けて旧芝浦外縁通路へ出るしかない。
工具や配管材を押し込んでいたその部屋は、湿気と錆の臭いが染みついていた。割れた配管の継ぎ手、濡れた段ボール、古い作業服、折れた脚立。床には細かい釘や金属片が残り、壁際には使い道の分からない鉄板が立てかけられている。
人間一人を置く場所ではない。
でも、危険物を置く場所としては、ちょうどいいのだろう。
完全な追放ではない。まだ旧芝浦の中だ。けれど、寝床の輪の中にはもう戻れない。俺は旧芝浦の中に残されたまま、旧芝浦の外側に置かれた。
鍵の音は、思ったより軽かった。
ガチャン。
それだけ。
たったそれだけで、人のいる場所と、俺のいる場所が分かれた。
扉の下の隙間から、非常灯の赤い光が細く入ってくる。俺は壁に背を預け、陽太の布袋を膝に置いた。中には乾いた食料の欠片が二つ、小さなネジ、短い針金、折れた透明カバー。それから、震えた字で書かれた紙切れ。
しなないで。
その文字を見るたび、喉が詰まる。
「無茶言うなよ」
小さく呟いても、返事はない。
代わりに、扉の向こうから黒川蓮司の声が響いた。
「ちゃうちゃう! 槍を持つ手に力入れすぎや! 腕で突くな、腰で押せ! 刺したら止まるな、ひねれ!」
カン、と金属音。
「久我さん、あんた力あるんやから余計に危ないねん。正面からいったら殻に弾かれる。力あるやつほど、関節を狙わな死ぬで」
「分かっている」
「分かってる声ちゃうなあ」
「うるさい」
「うるさくないと死ぬって何回言わすねん」
外側で小さな笑いが起きた。
「黒川ってやつ、口は悪いけど頼りになるな」
「地上で一人で生きてたって、本当なのか?」
「本当だろ。あの槍、見たかよ」
「灰原の腕よりは……まだ分かる」
「おい、聞こえるぞ」
聞こえている。
全部ではない。けれど、十分に。
俺は膝の上の布袋を握った。紙切れが折れそうになって、慌てて力を緩める。
黒川の声はよく通った。地上帰りの男。関西弁。蟻裂き槍。蟻酸焼けの灰を詰めた臭玉。人間のまま蟻に対抗する方法。
旧芝浦の空気は、確かに変わっていた。
さっきまで、皆は俺を見ていた。右腕。右足。銀色の線。危険物。壁際。資材置き場。扉の向こう。
今は違う。
皆は黒川を見ている。槍を見ている。臭玉を見ている。牧野さんが作る武器を見ている。久我が練習する動きを見ている。
希望。
俺じゃない希望。
いいことだ。
本当に、いいことのはずだ。
黒川の槍なら、壁に立てかけておける。臭玉なら、袋にしまえる。壊れたら作り直せばいい。使い切れば終わる。
でも、俺のこれは違う。
右腕の皮膚の下に残る銀色の筋。足首からふくらはぎへ伸びた冷たい線。爪の下に光る銀。寝る時も、起きている時も、怖がられる時も、ずっと俺の身体の中にある。
「ほんま、俺いらないじゃん」
言ってから、少し笑った。
声は資材置き場の壁に吸われて消える。
扉の下の赤い光が揺れた。誰かが前を通る。軽い足音。朝倉さんだ。
鍵が鳴る。
ガチャ。
「灰原さん」
朝倉さんが顔を出した。片手にノート。もう片方に水袋と布。俺は反射で右手を隠す。
「隠さなくていいです」
「隠した方がいいだろ」
「私は見ます」
「知ってる」
彼女は中に入り、扉を完全には閉めなかった。外の音が少し大きくなる。黒川の声。金属を削る音。誰かの咳。子供の小さな泣き声。
それに混じって、名前の分からない男の声がした。
「朝倉さん、まだ診るのか」
「そりゃ診るだろ。怪我してるんだし」
「でも、近づいて大丈夫なのかよ」
「大丈夫かどうかじゃなくて、診ないとまずいんだろ」
「……俺なら無理だ」
朝倉さんの表情は変わらない。
聞こえているはずだ。
それでも、こちらだけを見ている。
「体調は」
「最悪」
「右足は」
「痛い。冷たい。動かしたくない」
「右腕は」
「蟻の臭いがすると疼く」
「胸の冷感は」
「ある。さっきより少し奥にある感じ」
朝倉さんはノートに書く。短い鉛筆の音。カリ、カリ。資材置き場の中で、その音だけがやけに優しく聞こえた。
「外、盛り上がってるね」
「武器の講習です」
「いいことだよ。黒川、すごいな。槍も臭玉も使える。牧野さんなら量産できる。久我も戦える。真衣さん達も逃げる時間を稼げる」
「そうですね」
「じゃあ、いいことだ」
朝倉さんは答えない。
「何で黙るの」
「灰原さんが、いいことだと思っていない顔をしているからです」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいです」
「化け物のくせに?」
「灰原さんです」
即答だった。
やめてくれ。
そうやって即答するな。
信じたくなる。
扉の外で、誰かが小さく言った。
「朝倉さんも大変だよな」
「灰原に肩入れしすぎじゃないか」
「でも、あの人がいなかったら、誰も診ないだろ」
「診る必要あるのか? もう黒川がいるんだぞ」
「おい、言いすぎだって」
朝倉さんの指が一瞬止まった。
それから、何もなかったように鉛筆を動かす。
俺の方が、腹の奥に黒いものが湧いた。俺のために怒ったのか。朝倉さんのために怒ったのか。よく分からない。
どちらにしても、怒れる立場じゃない。
「人間のまま戦えるなら、その方がいい」
俺は言った。
「俺が出なくても、ザコ蟻なら止められる。五匹は止めたんだろ。次は十匹でも、もう少しやれるかもしれない」
「それは、灰原さんが不要という意味ではありません」
「でも、必要って意味でもない」
「違います」
「違わない」
言葉が少し荒くなった。
朝倉さんの表情が変わる。傷ついた顔ではない。止めようとしている顔だ。
俺は視線を逸らした。
「ごめん」
「謝らなくていいです」
「謝らないと、俺がきつい」
言わなくていいことを、また言った。
「俺がいると、みんな俺を見る。黒川がいると、みんな武器を見る」
自分で言って、喉の奥が苦くなる。
「そっちの方が健全だろ」
「健全かどうかは、別です」
「別じゃないよ。人間が人間の武器で蟻を倒す。いいじゃん。俺の右腕よりずっといい」
「灰原さん」
「俺もそっちがよかった」
朝倉さんの手が止まる。
でも、止まらない。
「槍なら折れたら捨てられる。臭玉なら使い切れば終わる。でも俺のこれは終わらない。寝ててもある。怖がられてもある。自分でも気持ち悪くても、ある」
右手を握る。
銀色の筋が、皮膚の下でわずかに動いた気がした。
黒川が来てよかった。
嘘ではない。旧芝浦に武器が増えてよかった。陽太や真衣さんが生き残る可能性が上がってよかった。
ただ、その良いことの中に、俺の居場所がないだけだ。
朝倉さんは水袋を俺の横に置いた。
「私は来ます。毎日」
「久我が許せば?」
「許さなくても来ます」
「問題児だな」
「灰原さんほどではありません」
「俺、問題児扱い?」
「患者です」
「危険物じゃなくて?」
「患者です」
彼女は扉を出る直前、振り返った。
「灰原さん。今は休んでください」
「眠れない」
「分かっています。でも、目を閉じるだけでも」
「右目を閉じても、蟻の足音が残る」
朝倉さんの顔が強張った。
また、言わなくていいことを言った。
「記録する?」
「後で聞きます。今は休んでください」
扉が閉まる。
ガチャン。
また、鍵の音。
それから三日が過ぎた。
黒川が来て三日目には、蟻裂き槍は三本になっていた。一本は久我。一本は黒川。一本は予備。牧野さんが廃材を組み合わせ、黒川が角度を見て、久我が実際に構える。
臭玉も増えた。
酸で焼けたコンクリートの欠片。焦げた布。黒ずんだ金属粉。乾いた蟻の体液。黒川はそれを見て「これなら使える」と言った。
「ほんまは地上の焼け跡の方がええけど、まあ今はこれで我慢やな」
「これ、吸い込んでも大丈夫なのか?」
「大丈夫ちゃう。咳き込む。目ぇ痛い。でも蟻に噛まれるよりはええやろ」
「最悪の二択だな」
「生き残りなんて大体そうや」
そんな声が、扉越しに聞こえた。
第二資材置き場の中で聞く黒川の関西弁は、日に日に旧芝浦に馴染んでいった。最初は珍しそうにしていた人達も、三日目にはもう、その軽口に短く返すようになっている。
俺は資材置き場の扉を調べながら、それを聞いていた。
非常解錠は錆びていたが、針金と小さいレンチで少しずつ動いた。完全に開けられるかは分からない。でも、固着は剥がせた。
誰にも言っていない。
逃げ道は、黙って作るものだ。
五日目の夜、鳴子が鳴った。
カシャン。
俺は反射で立ち上がりかけ、右足の痛みに顔をしかめた。
行くな。
そう思うより先に、扉の向こうで黒川の声が飛ぶ。
「数は四! いや、五や! 小さいの混じっとる! 慌てるな!」
「槍を持て!」
久我の声。
「子供を奥へ!」
雨宮さんの声。
「臭玉、誰か!」
「俺が投げる!」
「おい、近すぎる! 下がれ!」
名前のない声が重なる。恐怖。焦り。けれど、ただ逃げるだけではない。誰かが物を持ち、誰かが子供を下げ、誰かが通路を空ける。
黒川が来る前とは違う。
バコンッ。
臭玉が割れた。
蟻酸焼けの灰の臭いが、扉の隙間から資材置き場へ流れ込んでくる。喉が痛い。目も痛い。右目の奥が、もっと痛い。
蟻の足音が乱れた。
触角が迷う。
前脚が止まる。
黒川の槍が入る。
「今や! 脚の付け根! 殻やない、隙間や!」
ギチッ。
嫌な音。
久我が叫ぶ。牧野さんが支える。誰かが転ぶ。真衣さんが悲鳴を飲み込む。
俺は扉に手を置いた。
力を入れれば開けられる。
出ようと思えば出られる。
でも、出ない。
出るなと言われたからではない。
出なくても、戦闘が進んでいるからだ。
一匹。
二匹。
三匹。
「止まったぞ!」
「押し返せ!」
「黒川、次どこだ!」
「顎や! 根元! 根元言うてるやろ!」
四匹目が倒れた。五匹目は逃げるように足音を遠ざけた。
しばらく、誰も喋らない。
次に聞こえたのは、黒川の荒い息だった。
「……止めた。止めたで。死ぬほど怖いけど、手順守ったら何とかなる」
その直後、誰かが泣きながら笑った。
「本当に止まった……」
「俺らだけで?」
「黒川がいたからだろ」
「でも、灰原は出てないぞ」
「言うなって」
「いや、でも……」
久我の声が低く割り込む。
「黙れ。負傷者を見ろ。扉を戻す。浮かれるな」
黒川も続ける。
「久我さんの言う通りや。今のは勝ちやない。死なんかっただけや」
それでも、旧芝浦の中に小さな熱が残った。
自分達で止めた。
その事実は、消えない。
俺は扉に額をつけた。
冷たい鉄。湿った錆。向こう側の熱。
胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
ああ。
本当に、俺なしでいけるんだ。
少なくとも、少しの間は。
その夜から、第二資材置き場の外で交わされる声が変わった。
「臭玉、あといくつある?」
「槍、もう一本作れないのか」
「黒川、次は俺にも持たせてくれ」
「無理すんな。腕震えてるぞ」
「でも、何もしないよりはましだろ」
「灰原なしでも、少しは戦えるんじゃないか」
「聞こえるぞ」
「……悪い」
聞こえている。
でも、もう怒る気にもなれない。
その通りだからだ。
旧芝浦は少し強くなった。黒川が来て、武器が増えて、臭玉が増えて、久我が指示を出し、牧野さんが作り、真衣さん達が逃げる手順を覚えた。
いいことだ。
いいことのはずだ。
黒川が来て一週間が近づく頃、通路の臭いは変わっていた。
蟻酸焼けの灰の刺激臭が、壁や布に染みついている。牧野さんが作った蟻裂き槍は五本になった。全部がまともに使えるわけではない。それでも、人々はそれを見て少し安心した。
「五本あるなら、前よりずっとましだ」
「臭玉も十個近いんだろ?」
「この前みたいなのなら、また止められる」
「黒川がいれば何とかなる」
「久我さんも慣れてきたしな」
「灰原を寝床に戻す必要、あるのか?」
「しっ」
最後の声は、すぐに消えた。
でも消えきらない。
そういう言葉は、一度出ると残る。
俺は古いライトの部品をいじっていた。陽太が入れてくれた透明カバー。牧野さんがくれた断線しかけの小型ライト。針金。錆びた端子。
直るかは分からない。
でも、手を動かしている方がましだった。
カチ。
小さく火花が飛ぶ。
「お」
ほんの一瞬だけ、ライトが点いた。
すぐ消える。
でも点いた。
俺は少しだけ息を吐いた。
その時、遠くで鳴子が鳴った。
カシャン。
もう、誰も最初の頃のようには叫ばない。
それが少し怖かった。
「またかよ」
「数は?」
「臭玉、持て」
「槍、右側に回せ!」
慣れ。
生き残るには必要なもの。
でも、慣れは時々、死に近い。
俺は扉に耳を寄せた。
足音が来る。
近い足音は少ない。三匹か四匹。黒川達なら止められる数。
でも、その奥に、別の流れがある。
遠い。
まだ遠い。
床の下を薄く流れる、数の分からない気配。
右目の奥が冷える。
蟻の道筋。
黒川の声が響く。
「三匹や! いつも通りやれ!」
いつも通り。
俺は扉に手を置いた。
いつも通りになっている。
蟻が来ることが。
臭玉を投げることが。
槍で関節を狙うことが。
俺がここから出ないことが。
バコンッ。
臭玉が割れる音。
ギチギチギチッ。
蟻の顎の音。
黒川の怒鳴り声。久我の指示。牧野さんの返事。名前のない生存者達の短い叫び。
やがて、一匹が倒れる音がした。
続いて二匹目。
三匹目は逃げた。
「止めたぞ!」
「今日もいけた!」
「やれる……やれるんだ」
誰かがそう言った。
その声には、疲れた喜びがあった。
俺は扉から離れ、床に座り直す。
よかった。
本当に。
そのはずなのに、右目の奥の冷たさは消えない。
遠くの流れが、まだある。
蟻の襲撃は止まっていない。
むしろ、旧芝浦の周りに匂いが残り、血が残り、戦闘の痕跡が増えている。蟻酸焼けの灰。蟻の体液。折れた脚。切られた触角。人間の汗。恐怖。金属音。
黒川の武器は、少数を止める。
でも、来る理由を消すわけじゃない。
扉の向こうで、名前のない女の声がした。
「最近、多くない?」
別の男が答える。
「何が」
「蟻。前より来てる気がする」
「黒川が来たから、そう感じるだけだろ。前は数える余裕もなかったし」
「でも……灰原がああなってからじゃない?」
空気が止まった。
すぐに誰かが言う。
「やめろよ」
「聞こえるぞ」
「でも、みんな思ってるでしょ」
沈黙。
その沈黙が、何より答えだった。
俺は壁に背を預けた。
右目の奥で、遠い蟻の足音がまた重なる。
カツ。
カツ。
まだ遠い。
でも、消えない。
俺は陽太の布袋を引き寄せた。
しなないで。
震えた字が、頭に浮かぶ。
「……難しいな」
呟きは、第二資材置き場の湿った空気に溶けた。
外では、誰かがまた言った。
「もし、あの銀色が蟻を呼んでるなら……どうするんだよ」
誰も答えなかった。
大槻修一の声も、その時はまだ聞こえなかった。
けれど、俺には分かった。
あの男は、必ずこの沈黙を拾う。
拾って、磨いて、刃にする。
その刃が誰へ向くのかなんて、考えるまでもなかった。




