第16話 七日目の犠牲
黒川が来て、一週間が経った。
旧芝浦保守区画の通路には、蟻酸焼けの灰の臭いが染みついていた。最初は誰もが咳き込み、目を押さえていた臭玉の刺激臭も、今では「またか」と顔をしかめる程度になっている。慣れたわけではない。慣れたふりを覚えただけだ。
蟻裂き槍は五本になった。
黒川の一本。久我の一本。牧野さんが作った予備が三本。全部がまともに使えるわけではない。刃先が甘いもの、柄が曲がっているもの、返しが深すぎて抜けにくいもの。黒川は一本ずつ見て、文句を言いながらも捨てなかった。
「贅沢言うてる場合ちゃう。ないよりはええ」
そう言って、彼は曲がった槍を壁に立てかけた。
臭玉は十個近くまで増えた。古い金属缶や割れた小瓶、薄い蟻殻の欠片に、蟻酸焼けの灰を詰めたものだ。床に叩きつければ、灰が散り、蟻の触角を一瞬乱す。殺す道具ではない。逃げるための道具。黒川は何度もそう言った。
「倒すんやない。時間を買うんや。時間を買って、足を止めて、関節を裂く。調子に乗ったら死ぬで」
その言葉も、もう何度も聞いた。
第二資材置き場の中にいる俺にも、黒川の声は届く。寝床溜まりと見張り扉の間。旧芝浦の内側なのに、人の輪から外れた小部屋。そこに隔離されてから、扉越しの声が俺の日常になっていた。
朝倉さんは毎日来た。
水と布を持って、俺の右足と右腕を見て、左手の傷を確認し、ノートを開く。俺が食べていないと怒る。眠っていないと怒る。余計なことを言うと、さらに怒る。
「患者ですから」
彼女はいつもそう言う。
危険物ではなく、患者。
その言葉がありがたいのか、きついのか、もう分からない。
俺は資材置き場の床に座り、陽太の布袋から出した透明カバーを古いライトにはめ込もうとしていた。針金で接点を押さえ、錆びた端子を削る。カチ、と触れれば一瞬だけ光る。すぐ消える。でも前よりは長く点くようになった。
壊れたものを直すのはいい。
人間より、分かりやすい。
扉の外で、名前のない男達の声がした。
「臭玉、あといくつだ?」
「七つ。さっき黒川が三つは湿ってるって文句言ってた」
「蟻裂き槍、俺にも持たせてくれよ」
「持つだけならな。前に出るのは久我さんと黒川だ」
「でも、いつまでも二人だけじゃ無理だろ」
「灰原がいた時は、あいつが前に出てたんだけどな」
「言うなよ」
「いや、でもさ」
言葉がそこで切れる。
最近、こういう沈黙が増えた。
灰原がいた時は。
灰原なしでも。
灰原がああなってから。
誰かが言いかける。誰かが止める。けれど、止められた言葉は消えない。湿った壁に染みる臭玉の臭いみたいに、通路の空気へ残る。
蟻の襲撃は止まらなかった。
黒川の槍で小規模な群れは押し返せるようになった。四匹。五匹。多くて七匹。犠牲者はまだ出ていない。怪我は増えたが、死んではいない。
だからこそ、旧芝浦には奇妙な自信が生まれていた。
「前よりましだ」
「俺達だけでもやれる」
「黒川がいれば何とかなる」
「臭玉さえ切らさなければ」
そんな声が、扉越しに聞こえる。
よかったじゃん。
俺は何度もそう思った。
旧芝浦が少し強くなった。人間のまま戦えるようになった。陽太も、真衣さんも、朝倉さんも、久我も、少しは生き残りやすくなった。
いいことだ。
いいことのはずだ。
それなのに、右目の奥の冷たさは日に日に強くなっている。
遠くに、流れがある。
床の下。配管の向こう。外縁通路よりさらに奥。足音とも振動とも違う、群れの気配。小さな点ではなく、面で押し寄せてくるような何か。
まだ旧芝浦へ来ているわけではない。
でも、消えない。
俺はそれを言えずにいた。
言えば、また必要にされる。
必要だから閉じ込められ、危険だから遠ざけられ、戦う時だけ呼ばれる。
それは嫌だった。
最低だな、俺。
そう思いながら、ライトの接点を削った。
カチ。
今度は、二秒光った。
「……お」
小さく息が漏れる。
その時、鳴子が鳴った。
カシャン。
通路の空気が張る。
前なら悲鳴が先だった。今は違う。足音が動く。槍を取る音。臭玉の缶がぶつかる音。子供を奥へ下げる声。
「またかよ」
「数は?」
「黒川、聞こえるか!」
「聞こえとるわ! 慌てんな!」
黒川の声が飛ぶ。
俺は扉に手をついた。右腕の奥がすぐに疼く。蟻の臭い。蟻の足音。蟻の体液の記憶。銀色の筋が、手首の下で小さく動く。
やめろ。
まだ出るな。
黒川の声。
「五……いや、六や! 小さいのが前、後ろに一匹重いの混じっとる!」
六匹。
旧芝浦が止めたことのある数だ。けれど、後ろに重いのがいる。
俺の右目が、扉の向こうの振動を拾う。働き蟻が五。少し遅れて、大きな脚音が一つ。兵隊蟻ほどではない。だが、前のザコよりは硬い。
嫌な組み合わせだ。
「臭玉、前に投げろ!」
「俺が行く!」
「近い! もっと下がれ!」
「下がったら届かないだろ!」
名前のない男の声。
最近、槍を持ちたがっていた男だ。顔ははっきり覚えていない。肩幅が広く、いつも久我の後ろで訓練を見ていた。黒川に「腕だけで突くな」と何度も怒られていた。
その男が、今日は前に出た。
足音で分かる。
黒川が叫ぶ。
「待て! 先に臭玉や! 槍を前に出すな!」
「分かってる!」
「分かってへんから言うとんねん!」
バコンッ。
臭玉が割れた。
蟻酸焼けの灰の臭いが一気に広がる。扉の隙間から入ってきた刺激臭に、俺は思わず目を細めた。蟻の足音が乱れる。触角が迷う。前列の二匹が止まった。
いつもの流れ。
臭玉で足を止める。槍で関節を裂く。久我が顎を押さえる。黒川が指示を出す。牧野さんが支柱と扉を守る。
いつも通り。
それが、まずかった。
「今や!」
男が叫んだ。
黒川の声が重なる。
「まだや! 後ろのやつ見ろ!」
男の足音が前へ出る。
俺は扉を掴んだ。
駄目だ。
そう思った。
でも声が出るより早く、金属音がした。
男の槍が前列の蟻の脚に入る。狙いは悪くない。黒川の教え通り、殻ではなく関節を狙っている。ギチッ、と脚が曲がった。
「入った!」
誰かが叫ぶ。
「引け!」
黒川が怒鳴る。
「ひねったら下がれ! そこに残るな!」
男は聞かなかった。
たぶん、聞こえなかったのではない。入った手応えに、次もいけると思ったのだ。槍を引き抜こうとして、返しが深く刺さりすぎて抜けない。焦って、さらに力を入れる。
その瞬間、後ろの重い一匹が前に出た。
臭玉の灰が薄れる。
触角が動きを取り戻す。
俺の右目が、その角度を見た。
顎が来る。
「下がれッ!」
叫んだのは俺だった。
資材置き場の中から。
扉越しに。
届いたのかどうか、分からない。
男がこちらを向いた気配がした。ほんの一瞬。それが遅れになった。
ギチッ。
重い蟻の顎が、男の胴を挟んだ。
「あ」
短い声。
悲鳴ですらなかった。
次の瞬間、音が潰れた。
ベキン。
人間の身体から聞こえていい音ではなかった。
「うわああああああ!!」
「引け! 引けって!」
「助け――」
声が途切れる。
男の槍が床へ落ちた。
カラン。
黒川が怒鳴る。
「下がれえええッ! 見るな! 下がれ!」
久我の声が重なる。
「臭玉を投げろ! 早く!」
「もう一個! 早くしろ!」
「投げろって!」
誰かが泣きながら臭玉を投げる。
バコンッ。
灰が散る。蟻の足音が乱れる。その隙に久我が鉄パイプを叩き込み、黒川が槍を低く入れる。牧野さんが支柱を押さえ、真衣さんが子供達をさらに奥へ押し込む。
戦闘は続く。
人が一人死んでも、蟻は待たない。
それが、何より残酷だった。
俺は扉に爪を立てていた。
右腕が刃になりかけている。銀色が手首から肘へ走る。扉を切れる。出られる。今すぐ行けば、まだ何匹か殺せる。
でも、身体が動かない。
男はもう死んだ。
助けられない。
その事実が、俺の足を床に縫いつけていた。
外では黒川達が必死に動いている。二匹目、三匹目。久我が顎を押さえ、黒川が脚を裂く。臭玉の残りを使い切る勢いで、灰が通路を満たす。咳。悲鳴。金属音。蟻の顎。
やがて、最後の足音が遠ざかった。
戦闘が終わる。
終わった、はずだった。
誰も喜ばない。
誰も「止めた」と言わない。
沈黙の中で、誰かが吐いた。別の誰かが泣く。真衣さんの声が震えながら子供達に「見ないで」と繰り返す。雨宮さんが泣いている子供を抱え込む。牧野さんが何かを拾おうとして、手を止める。
黒川の声が、低く落ちた。
「……言うたやろ」
誰に言ったのか分からない。
死んだ男にか。
周りにか。
自分にか。
「臭玉は、時間を買う道具や。勝たせてくれる道具ちゃう」
久我が息を荒くしている。
「負傷者は」
誰も答えない。
「負傷者は!」
「一人……」
名前のない女の声。
「一人、死んだ」
死んだ。
その言葉が、旧芝浦の壁にぶつかって戻る。
俺は扉の内側で、右腕を押さえた。銀色の刃は出ていない。だが、皮膚の下でまだ暴れている。蟻を殺せ。喰え。追え。そんな意味のない衝動だけが残っている。
「灰原」
扉の向こうで、黒川が言った。
声がこちらへ向いている。
「さっき、お前、分かっとったんか」
俺は答えなかった。
分かっていた。
後ろの重い一匹が前に出る角度。臭玉の効果が切れる瞬間。男が槍を抜けずに止まる危険。
全部ではない。
でも、少しは分かっていた。
言うのが遅れた。
いや、本当はもっと早く言えたかもしれない。
俺が出れば、違ったかもしれない。
俺は唇を噛む。
何を言っても言い訳になる。
扉の向こうで、名前のない声が震えた。
「灰原、今叫んだよな」
「あいつ、分かってたのか?」
「分かってたなら、何で」
「やめろよ」
「でも、分かってたんだろ?」
ざわめきが広がる。
その中に、別の声が混じる。
「最近、蟻、多すぎるんだよ」
「前はここまで来なかった」
「黒川が来てからじゃない。違うだろ」
「灰原が、ああなってからじゃないか」
空気が冷えた。
俺は息を止める。
「おい」
「言うな」
「でも本当だろ。あの銀色が蟻と関係ないって、誰が言えるんだよ」
「今日だって、灰原だけ先に分かってた」
「それってつまり、蟻と繋がってるってことじゃないのか」
違う。
そう言いたかった。
でも、声が出ない。
俺に入った銀色の液体金属。右目が拾う蟻の流れ。右腕が蟻を喰いたがる感覚。襲撃が増えたように見える現実。
本当に違うのか。
俺がここにいるから、蟻が来ていないと、どうして言える。
「違います」
朝倉さんの声がした。
強い声だった。
「灰原さんが原因だと決めつけるのは危険です。襲撃が増えた理由は他にもあります。扉の破損、蟻の体液の臭い、反撃による警戒、蟻酸焼けの灰の残留。今ここで、灰原さんだけを原因にするのは間違っています」
「でも、分かってたんだろ」
「危険を察知したことと、原因であることは違います」
「じゃあ何であいつだけ分かるんだよ!」
誰かが叫んだ。
その声には、恐怖が混じっていた。
恐怖は理屈より強い。
俺はそれを知っている。
黒川が低く言った。
「待てや」
ざわめきが少し止まる。
「怖いから原因を一個に決めたいだけちゃうんか。灰原を外に出したら安全、なんて保証どこにもないで」
「でも、ここにいたら?」
別の声。
「また来たらどうするんだよ」
「次に死ぬのが子供だったら?」
朝倉さんが息を呑む気配がした。
その言葉は強い。
卑怯なくらい強い。
久我が黙っている。
彼の沈黙が、場をさらに重くする。
俺は扉の内側で、陽太の布袋を握った。
しなないで。
震えた字が頭に浮かぶ。
俺がここにいるせいで、陽太が死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
銀色の冷たさではない。もっと深い、人間の怖さだった。
その時だった。
ぬるりと、大槻修一の声が通路に滑り込んだ。
「皆さん」
空気が嫌な形に整う。
大槻は待っていたのだろう。
誰かが死に、誰かが泣き、誰かが原因を探し始める、この瞬間を。
「少し、考える必要があるのではありませんかァァ〜」
朝倉さんがすぐに言う。
「大槻さん、今は」
「今だからですよォォ〜」
大槻の声は震えていない。
むしろ、滑らかだった。
「黒川さんの武器は有効です。ええ、有効ですともォォ〜。今日も蟻を退けました。しかし、それでも一人死んだ。なぜですかァァ〜ん?」
「やめろ」
久我の声。
だが、大槻は止まらない。
「いつからですか? 蟻が、これほど頻繁に来るようになったのは。灰原さんの右目に、あの銀色の液体が入ってからではありませんかァァ〜?」
通路が静まり返る。
俺の右目が熱くなる。
いや、冷たい。
分からない。
「蟻は灰原さんを追っている。そう考える方が自然ではありませんかァァ〜ん?」
「証拠がありません!」
朝倉さんが叫ぶ。
「証拠を待っている間に、また誰か死んだらどうするんですかァァ〜」
大槻の声が、少しだけ太くなる。
「次が陽太くんでも、同じことを言えるんですかァァ〜?」
その一言で、場が沈んだ。
陽太の名前。
最悪だ。
俺は扉の内側で目を閉じる。
やめろ。
その名前を使うな。
でも、誰もすぐには反論できない。朝倉さんも。黒川も。久我も。
子供の死は、誰にとっても強すぎる。
大槻の声が、さらに低くなる。
「私は、灰原さんを責めているわけではありませんよォォ〜。本人の意思ではないのかもしれない。苦しんでいるのかもしれない。それは分かります。しかし、原因をここに置き続けることは、全員を危険に晒すことではありませんかァァ〜?」
原因。
その言葉が、扉越しに俺の胸へ刺さる。
俺は原因なのか。
違う、と言いたい。
でも、本当に違うのか。
右腕は蟻を喰いたがる。右目は群れの流れを拾う。銀色の液体は俺の身体に広がっている。蟻の襲撃は、確かに増えているように見える。
否定する証拠が、俺にもない。
扉の向こうで久我が言った。
「今日は、ここまでだ」
声が低い。
押し殺している。
「遺体を……片付ける。負傷者を診る。話は、その後だ」
「久我さん」
大槻が柔らかく言う。
「後回しにすれば、恐怖は消えるんですかァァ〜?」
「黙れ」
今度の久我の声には、怒りがあった。
大槻は黙った。
だが、勝ったような沈黙だった。
扉の外で人が動き始める。泣き声。吐く音。金属を引きずる音。死んだ男の身体を運ぶ気配。朝倉さんが処置を始める声。黒川が誰かに「見るな」と低く言う声。
俺は動けなかった。
第二資材置き場の中で、ただ座っていた。
右腕の銀色は、まだ疼いている。
蟻を殺したいのか。
死体を喰いたいのか。
俺にはもう分からない。
陽太の布袋を握る。
しなないで。
その文字が、今はひどく遠かった。
扉の外では、誰かが泣きながら言った。
「もう、誰か死ぬのは嫌だ……」
別の誰かが、答えた。
「なら、原因を何とかしないと」
原因。
また、その言葉。
俺は壁に頭を預けた。
冷たい。
遠くで、まだ蟻の足音がする気がした。
カツ。
カツ。
今度は近いのか遠いのか、分からない。
分かりたくなかった。




