第17話 蟻を呼ぶもの
死体を運ぶ音が、扉の向こうで続いていた。
ずる、ずる、と床を擦る音。途中で誰かが吐き、別の誰かが「見るな」と低く言う。真衣さんの声が震えて、雨宮さんが子供達を奥へ連れていく。陽太の声は聞こえない。聞こえないことが、逆に怖かった。
第二資材置き場の中で、俺は膝を抱えて座っていた。
右腕の銀色は、もう表面からは消えている。けれど皮膚の下に残っているのが分かる。血管ではない冷たい筋。右目の奥に、さっきの顎の動きがまだ残っていた。槍を持った若い男が前へ出る。返しが蟻の関節に引っかかる。黒川が叫ぶ。臭玉の灰が薄れる。後ろの重い蟻が前へ出る。顎が閉じる。
ベキン。
人間の身体から聞こえていい音ではなかった。
助けられたのか。
もっと早く叫べば。
扉を壊して出れば。
右腕を使えば。
考えるだけ無駄だ。死んだ人間は戻らない。そんなことは分かっている。分かっているのに、頭の中で同じ場面が繰り返される。
俺がここにいなければ、そもそも蟻は来なかったのかもしれない。
その考えが、一度入り込むと消えなかった。
違う。
そう言いたい。
でも、何を根拠に。
銀色の液体金属が俺の右目に落ちてから、蟻の襲撃は増えたように見える。右腕は蟻を喰いたがる。俺は蟻の足音を聞き分ける。遠い群れの流れまで、頭の奥に入ってくる。
蟻と関係ないと言い切れるのか。
言い切れない。
扉の外で、人が集まり始めた。
死体を片付け終えたのだろう。誰も大きな声を出さない。沈黙とすすり泣きと、蟻酸焼けの灰の臭いだけが通路に残っている。
その沈黙を、最初に切ったのは大槻修一だった。
「皆さん、今のままでよろしいんですかァァ〜」
ぬるい声。
待っていた声。
俺は思わず顔を上げた。
「一人、亡くなりました。黒川さんの武器があってもです。蟻裂き槍があっても、臭玉があっても、蟻は来る。では、考えなければならないでしょう。なぜ来るのかを」
「今言うことか」
久我の声が低く響いた。
「今だからですよォォ〜。また誰か死んでからでは遅いんです」
「黙れと言ったはずだ」
「黙っていれば安全になるんですかァァ〜ん?」
大槻の声は、いつもよりゆっくりだった。怒鳴らない。責め立てない。ただ、恐怖の真ん中へ言葉を置く。そうすれば、勝手に周りが拾うと分かっている。
「考えてください。いつから蟻の襲撃は頻繁になりましたか。いつから旧芝浦の扉が、これほど何度も狙われるようになりましたか。灰原さんの右目に、あの銀色の液体が入ってからではありませんかァァ〜?」
ざわ、と通路が揺れた。
「やめろよ」
「でも、確かに……」
「前はここまで来なかった」
「黒川が来てから増えたわけじゃないよな」
「灰原が、ああなってから……」
「聞こえるぞ」
聞こえている。
全部。
聞きたくないのに、聞こえる。
朝倉さんの声が割り込んだ。
「証拠がありません」
強い声だった。
「襲撃が増えた理由は他にもあります。扉の破損、蟻の体液、反撃による警戒、臭玉の灰、戦闘の痕跡。灰原さんだけを原因にするのは危険です」
「では、原因ではない証拠はあるんですかァァ〜ん?」
大槻がすぐ返す。
「それは」
「ないでしょう。灰原さん自身も分かっていない。右腕が蟻を喰う。右目が蟻の動きを読む。今日も、あの方だけが先に危険を察知した。これを無関係と言い切る方が、不自然ではありませんかァァ〜?」
「危険を察知したことと、呼び寄せていることは違います」
「違うと信じたいだけでは?」
朝倉さんが息を呑む気配がした。
俺は扉に手を伸ばしかけて、やめた。
何をするつもりだ。
出ていって、違うと叫ぶのか。
俺は原因じゃないと。
誰も死なせたくなかったと。
そんなの、言われなくても分かっている人は分かっている。分からない人には、何を言っても届かない。
黒川の声がした。
「待てや」
低い。いつもの軽さがない。
「灰原を外に出したら安全になるって、誰が保証すんねん」
「可能性の問題ですよォォ〜」
「可能性で人を放り出すんか」
「人を、ではありません。危険因子を一時的に外へ移す、という話です」
「言い方変えんなや」
黒川の声に怒りが混じった。
「追い出すってことやろ」
通路が静まり返る。
大槻はすぐには答えなかった。沈黙を作ってから、柔らかく言う。
「感情的な言い方をすれば、そう聞こえるかもしれませんねェェ〜。ですが、全員の安全を考えれば、必要な措置です」
「全員、全員って便利な言葉やな」
「実際、全員の問題ですから」
「灰原はその全員に入ってへんのか」
少しだけ、空気が変わった。
黒川。
お前、そこでそれを言うのか。
俺は膝の上で拳を握る。
大槻の声が、わずかに湿る。
「もちろん、灰原さんのことも考えていますよォォ〜。本人だって苦しいでしょう。ここにいて、皆に怖がられて、また襲撃が起きるたびに疑われる。それなら、一度距離を置いた方が、灰原さんにとっても良いのではありませんかァァ〜?」
「気色悪い言い方すんな」
黒川が吐き捨てた。
「本人のため、みたいに言うな」
「では、どうすればいいんですか? 黒川さん。あなたの槍と臭玉で、次も必ず守れるんですかァァ〜?」
黒川が黙った。
そこを突かれると弱い。
彼は誰よりも武器の限界を知っている。
しばらくして、黒川は低く言った。
「必ず、とは言えん」
ざわめきが広がる。
「ほら」
「やっぱり無理なんだ」
「じゃあどうすんだよ」
「灰原が原因かもしれないなら……」
「外に出せば、少しは収まるかも」
「試す価値はあるだろ」
朝倉さんが叫ぶ。
「人の命を、試す、という言葉で扱わないでください!」
声が震えていた。
怒りか、悲しみか。
たぶん両方だ。
「灰原さんは物ではありません。原因かどうか分からないものを、怖いから外へ出す。それは判断ではありません。責任の放棄です」
「責任」
大槻が、待っていたようにその言葉を拾う。
「責任をおっしゃるなら、朝倉さん。あなたが責任を取るんですかァァ〜?」
来た。
大槻の得意な言葉。
「次に誰か死んだら? 次に子供が襲われたら? 陽太くんが、雨宮さんが、芹沢さんが死んだら? その時も、灰原さんをここに置くべきだったと、責任を持って言えるんですかァァ〜?」
「それは」
「言えないでしょう」
大槻の声が、通路に染み込む。
「誰も責任など取れない。だからこそ、危険を減らすしかないんです。分かりますよねェェ〜、久我さん」
久我の名が出た瞬間、空気がさらに重くなった。
久我は黙っている。
ずっと。
死体が運ばれた時も、朝倉さんが反論した時も、黒川が噛みついた時も、久我は黙っていた。沈黙の奥で、何かが削れているのが分かる。
久我は子供を死なせたくない。
それだけは、俺にも分かる。
だからこそ、大槻の言葉は久我に刺さる。
「久我さん」
槍を握ったまま震えていた中年の男が言った。
「決めてくれよ」
別の声。
「このままじゃ眠れない」
「また来たらどうするんだ」
「黒川の武器でも死んだんだぞ」
「原因があるなら、外に出すべきだ」
「でも、灰原には助けられた」
「助けられても怖いんだよ!」
最後の声は、泣いていた。
奥にいた女の声だった。顔は見えない。けれど、その声には感謝と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「怖いんだよ……。助けてくれたのは分かってる。でも、あの銀色を見ると、また蟻が来る気がして……」
その声で、通路の空気が決まった気がした。
正論ではない。
証拠でもない。
怖い。
それだけで、人は動く。
「灰原さん」
朝倉さんが、扉越しに俺を呼んだ。
俺は答えられなかった。
何を言えばいい。
違うと言え。
俺は蟻を呼んでいないと言え。
ここにいさせてくれと言え。
言えるか。
自分でも分からないのに。
俺の中の銀色が、蟻を呼んでいないと、どうして言える。
もし俺がここにいるせいで、また誰かが死んだら。
陽太が死んだら。
朝倉さんが死んだら。
息が詰まる。
「灰原」
今度は久我の声だった。
扉の前まで来ている。
「聞こえているか」
「聞こえてる」
声が掠れた。
「お前は、どう思う」
ひどい質問だ。
俺に聞くのか。
俺が出たくないと言えば、皆の恐怖を無視した化け物になる。
俺が出ると言えば、自分を原因だと認めることになる。
どちらでも、負けだ。
俺はゆっくり息を吸った。
蟻酸焼けの灰の臭い。血の臭い。湿った鉄。人間の汗。恐怖。
「分からない」
正直に言った。
通路が静まる。
「俺が原因じゃないって、言い切れない」
朝倉さんが息を呑む。
「灰原さん、それは違います」
「違うって言いたいよ」
喉が痛い。
「でも、俺にも分からない。右目は蟻の足音を拾う。右腕は蟻を喰いたがる。俺の中の銀色が、蟻と何か関係してるのはたぶん本当だ」
「だからといって」
「だからって、俺が呼んでるとは限らない。それも分かってる」
言葉を切る。
次が一番きつかった。
「でも、もし俺がいるせいで、また誰か死ぬなら」
陽太の布袋を握る。
しなないで。
震えた字。
「俺は、それを否定しきれない」
通路の空気が沈んだ。
朝倉さんの声が震える。
「灰原さんが、自分で自分を原因にする必要はありません」
「自分でじゃないよ」
俺は笑った。
笑えたかどうかは分からない。
「皆がそう思ってる」
「全員ではありません」
「でも、十分だろ」
沈黙。
大槻が満足そうに息を吐く気配がした。
久我が扉の向こうで低く言う。
「お前は、外に出たいのか」
「出たくない」
即答だった。
自分でも驚くくらい早かった。
通路がまた静まる。
「死にたくないから」
俺は続けた。
「外は怖い。蟻がいる。水もない。どこが安全かも分からない。できれば出たくない」
言った。
言ってしまった。
格好つけられなかった。
「でも」
声が震えそうになる。
「ここにいるのも、もうきつい」
扉の向こうで、誰かが息を呑んだ。
「戦う時だけ必要で、普段は怖がられる。俺が原因かもしれないって目で見られる。俺も、それを否定しきれない。だったら……」
言葉が詰まる。
だったら何だ。
追い出してくれとでも言うのか。
違う。
俺は出たくない。
でも、ここにもいられない。
そのどちらにも立てないまま、俺は黙った。
久我も黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて、黒川が言った。
「久我さん。これは、今決めたらあかん」
「……分かってる」
「分かってへん。皆、死んだ直後で頭回ってへん。怖いから答え欲しがってるだけや」
「分かってる!」
久我の怒声が通路を揺らした。
誰も喋らなくなる。
久我の息が荒い。
「分かってるんだよ……。助けられたことも、証拠がないことも、今決めるべきじゃないことも」
声が落ちる。
「それでも、次を防がなきゃならない」
その言葉で、俺は分かってしまった。
久我はもう、決める側に戻っている。
正しいかではない。
後悔しないかでもない。
次に誰かが死んだ時、自分が何もしなかったと言われない選択を探している。
リーダーだから。
そういう場所に立たされているから。
「灰原」
久我が言った。
「今夜は、このまま第二資材置き場にいろ。朝倉の診察は続ける。水と食料も渡す」
大槻が口を開きかける。
久我が先に言った。
「明け方、外縁通路を確認する」
心臓が、嫌な音を立てた。
「安全とは言えなくても、通れる状態なら」
久我の声が少しだけ揺れた。
「灰原を、旧芝浦の外へ出す」
朝倉さんが叫んだ。
「久我さん!」
黒川も声を上げる。
「待てや!」
「決定だ」
久我は言った。
その声は固かった。
折れないように固めた声だった。
「最低限の水、食料、工具、ライト、毛布は渡す。見張り扉の外へ出した後、すぐ閉める」
「それ、追放やろ」
黒川が言う。
久我は答えない。
答えないことが、答えだった。
通路のあちこちから声が漏れる。
「本当に出すのか……」
「でも、仕方ないだろ」
「これで襲撃が減るなら」
「減らなかったら?」
「その時考えるしかない」
「朝倉さん、泣いてる……?」
「見るな」
俺は扉の内側で座ったままだった。
不思議なくらい、身体が動かなかった。
出たくない。
そう言ったばかりだ。
なのに決まった。
俺の意思ではない。
皆の恐怖と、大槻の言葉と、久我の責任と、死んだ男の音で決まった。
これが追放か。
思ったより静かだ。
もっと怒鳴られるのかと思っていた。石でも投げられるのかと思っていた。化け物と叫ばれるのかと思っていた。
実際は違った。
皆、目を逸らしながら俺を外へ出す。
その方が、たぶん痛い。
扉の向こうで、朝倉さんが言った。
「私は、反対です」
「朝倉」
「記録します。これは安全措置ではありません。恐怖による追放です」
久我は何も言わない。
「灰原さんは、原因だと証明されていません」
大槻が柔らかく言う。
「記録は自由ですよォォ〜。ただ、記録している間にも、蟻は来ますからねェェ〜」
「大槻さん」
朝倉さんの声が冷えた。
「あなたの言葉も、全部記録します」
大槻が黙った。
ほんの少しだけ、気分がよかった。
それだけだった。
久我の足音が遠ざかる。黒川が低く何かを吐き捨てる。牧野さんが「工具を……用意します」と震えた声で言う。真衣さんが泣いている。雨宮さんが子供達を奥へ連れていく。
そして、扉の向こうに小さな足音が近づいた。
「灰原のお兄ちゃん」
陽太だった。
雨宮さんが止めようとする声。久我が短く制止する声。けれど、陽太は扉の前まで来た。
「行くの?」
俺は答えられなかった。
しばらくして、やっと言う。
「たぶん」
「やだ」
その声だけで、胸が痛い。
「俺も」
本音が漏れた。
陽太が泣き出す気配がした。
俺は布袋を握る。
「でも、これ持ってる」
「……うん」
「だから、努力はする」
「死なない?」
言えない。
言えるわけがない。
でも、黙ることもできなかった。
「死にたくはない」
それが精一杯だった。
陽太は泣いた。
俺は扉越しに、その声を聞いていた。
明け方、外へ出される。
旧芝浦外縁通路へ。
人の輪から、完全に。
右目の奥で、遠い蟻の足音がまた重なる。
カツ。
カツ。
今度は、少し近い気がした。
それを誰にも言わなかった。
言えば、何かが変わるかもしれない。
でも、もう遅い。
たぶん、何もかもが遅い。




