第18話 外へ出される
明け方という言葉に、もう意味はほとんど残っていなかった。
地上の空は見えない。太陽もない。旧芝浦保守区画の中で時間を知る方法は、電池の減りか、交代の眠気か、誰かの腹の鳴る音くらいだ。それでも人間は、夜と朝を分けたがる。眠れなかった時間の終わりに名前をつけたがる。
だから、久我は明け方と言った。
そして、その時間が来た。
第二資材置き場の扉の前に、人が集まっている気配がした。足音は少ない。全員が来たわけではない。むしろ、来られなかったのだろう。見たくない。見送る顔をしたくない。そういう沈黙が、扉越しに伝わってくる。
俺は壁際で荷物をまとめていた。
水袋。乾いた食料。古い毛布。小さいレンチ。針金。使いかけの布。牧野さんが直してくれた小型ライト。陽太の布袋。曲がった鉄板の切れ端は重すぎるから置いていけと言われたが、薄い金具だけはもらった。何に使えるかは分からない。でも、何かには使える。
死にたくないなら、使えるものは持つ。
右足はまだ痛い。歩けないほどではないが、走ればすぐ壊れる気がした。右腕は静かだ。静かすぎて怖い。嵐の前みたいに、皮膚の下で息を潜めている。
鍵が鳴った。
ガチャ。
扉が開く。
赤い非常灯の光が、細く資材置き場に差し込んだ。最初に見えたのは久我だった。目の下が黒い。眠っていない顔。手には鉄パイプ。俺を殴るためではなく、外縁通路を確認するためだろう。それでも、その姿はよく似合っていた。
次に牧野さん。工具袋を肩にかけ、俺と目が合うとすぐ逸らした。黒川は壁にもたれ、腕を組んでいる。いつもの軽さはない。朝倉さんはノートを抱え、口を固く結んでいた。
大槻は少し後ろにいた。
顔だけは神妙にしている。だが、目の奥が違う。何かが片づく瞬間を待っている目だった。
「時間だ」
久我が言った。
「うん」
俺は立ち上がった。
荷物が肩に食い込む。毛布を丸めた紐が弱い。歩いている途中でほどけるかもしれない。直す時間はある。でも、ここでの時間はもう俺のものではない気がした。
朝倉さんが一歩前に出る。
「最後に、右足を見せてください」
「最後って言うなよ」
俺が言うと、彼女の顔が少し歪んだ。
「……すみません」
「謝られると、俺が悪いみたいだろ」
「灰原さんは悪くありません」
即答。
いつもの即答。
やめてくれ。
そういう言葉は、外に出る前には重すぎる。
俺は床に座り直し、ズボンの裾を上げた。足首からふくらはぎにかけて、銀色の線が薄く残っている。黒川が小さく舌打ちした。牧野さんは息を呑む。久我は見ないふりをして、結局見た。
朝倉さんは震える指で皮膚の温度を確認する。
「冷たいです」
「知ってる」
「痛みは」
「ある」
「歩けますか」
「歩くしかない」
「質問に答えてください」
「歩ける」
朝倉さんはノートに書いた。
カリ、カリ。
この音を聞くのも、今日で最後かもしれない。
「灰原さん」
「何」
「記録します」
「もうしてるだろ」
「これからもです」
俺は彼女を見た。
「どうやって」
「あなたがここにいたこと。ここから出されたこと。原因だと証明されないまま、追放されたこと。全部、記録します」
大槻が後ろで、わずかに身じろぎした。
「朝倉さん、それは表現が少し」
「あなたの発言も記録します」
大槻は口を閉じた。
ほんの少しだけ、気分がよかった。
それでも、何も変わらない。
俺は立ち上がる。
黒川が近づいてきて、腰の袋から小さな缶を一つ出した。布で巻かれた臭玉だ。蟻酸焼けの灰の刺激臭が、外側からでも分かる。
「一個だけや」
「いいの?」
「よくはない。こっちも足りん。でも、お前が外で蟻に見つかったら、十秒くらいは買える」
「十秒か」
「十秒を笑うな。地上では十秒で生きるか死ぬか決まる」
黒川は俺の荷物に臭玉を押し込んだ。
「投げ方は見とったやろ」
「見てない。聞いてた」
「ほな聞いた通りや。割れたら下がれ。倒そうとすな。時間を買え」
「黒川」
「何や」
「俺がいなくなったら、旧芝浦を頼む」
言ってから、自分でも驚いた。
頼む?
何様だよ、俺。
でも、黒川は笑わなかった。
「俺は万能ちゃうで」
「知ってる」
「槍も臭玉も、小さい群れ用や。調子乗ったら全滅する」
「知ってる」
「ほな、お前からも言えや」
「俺が言って聞く空気じゃないだろ」
黒川は黙った。
それから、苦い顔で言う。
「ほんま、嫌な空気やな」
「関西弁でも誤魔化せない?」
「無理や。これは無理」
黒川は俺の肩を軽く叩こうとして、途中で手を止めた。俺の右肩を見たのだろう。銀色の筋が出るかもしれない。触れていいのか迷ったのだろう。
結局、手は宙に浮いたまま下がった。
それでいい。
それでいいのに、少し痛かった。
牧野さんが前に出た。
「あの、これ」
小さな工具袋だった。中には短い針金、ねじ、薄い金具、古い絶縁テープ、折れたドライバーの先端。
「余り物です。大したものじゃないですけど」
「助かる」
「本当は、もっとちゃんとしたものを」
「十分だよ」
牧野さんは眼鏡を押し上げる。ずれていないのに、何度も。
「灰原さんなら、たぶん使えると思って」
その言葉で胸が痛くなる。
必要とされるのはきつい。
でも、使えると思われるのも、少しだけ嬉しい。
面倒くさいな、人間。
俺は工具袋を受け取った。
「ありがとう」
牧野さんは小さく頭を下げ、すぐ後ろへ下がった。
見張り扉へ向かう通路には、数人の生存者が立っていた。全員、距離を取っている。目が合うと逸らす者。毛布の端を握る者。槍を抱える者。誰かが小声で言った。
「本当に出すんだな」
「仕方ないだろ」
「これで蟻が減るなら……」
「減らなかったらどうすんだよ」
「やめろ。今言うな」
聞こえている。
でも、もう何も返さなかった。
久我が歩き出す。
「行くぞ」
俺は荷物を肩にかけ、後に続いた。
第二資材置き場を出ると、通路の臭いが違った。蟻酸焼けの灰、血、油、湿った布。ここ一週間で旧芝浦は変わった。壁際には蟻裂き槍が立てかけられ、床には臭玉の空き缶がいくつか転がっている。通路の端には、昨日殺された若い男の血がまだ薄く残っていた。水で拭いたのだろう。それでも、跡は消えていない。
俺はそこを見ないようにした。
無理だった。
見張り扉の前には、陽太がいた。
雨宮さんが肩を抱いている。止められたのだろう。けれど、ここまで来たらしい。目が赤い。手には何もない。もう布袋は俺が持っている。
「灰原のお兄ちゃん」
その声だけで、足が止まる。
久我も止まった。
大槻が後ろで小さく息を吐く気配がした。急がせたいのだろう。だが、誰も陽太をどかさなかった。
「行くの?」
同じ質問。
昨日も聞いた。
「うん」
「帰ってくる?」
答えられない。
帰ってくる場所があるのか。
帰ってきていいのか。
その前に、生きているのか。
何も分からない。
「分からない」
正直に言うしかなかった。
陽太の顔が歪む。
「やだ」
「俺も」
また、本音が漏れた。
雨宮さんが顔を伏せる。真衣さんが口元を押さえている。久我は鉄パイプを握りしめていた。
俺は膝を折りかけ、右足の痛みに顔をしかめた。しゃがみきれない。仕方なく、少しだけ身体を低くする。
「陽太」
「うん」
「布袋、持ってく」
「うん」
「使う。たぶん、すごく使う」
「……うん」
「だから、ありがとう」
陽太は泣き出した。
泣かせた。
最低だな。
雨宮さんが陽太を抱きしめる。俺はそれ以上、近づかなかった。近づけなかった。子供に触れる自分の右腕が怖い。
朝倉さんが、俺の横に立った。
「灰原さん」
「うん」
「最後ではありません」
また、重い言葉。
「勝手に決めるなよ」
「決めます」
「強いな」
「強くありません」
「じゃあ、頑固」
「はい」
彼女はノートから一枚、小さな紙を破った。そこに短い文字が書いてある。
「これは?」
「体調の記録です。右足の冷感、左手の傷、食事量、注意すること。自分で確認してください」
「俺、患者かよ」
「患者です」
紙を受け取る。
医療記録。
外に追放される人間に渡すものとして、変なものだった。
でも、たぶん一番彼女らしい。
「ありがとう」
朝倉さんは頷いた。
「生きてください」
「努力する」
「努力では足りません」
「無茶言うな」
「言います」
そのやり取りで、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
久我が見張り扉の前に立つ。牧野さんが補強を外す。ギィ、と鉄が軋む。外縁通路の冷たい空気が、隙間から流れ込んできた。
臭い。
旧芝浦の中より、もっと濃い蟻の臭い。湿ったコンクリート。古い水。酸で焼けた壁。何かが腐った臭い。
右目が痛む。
外の暗さが、ただの暗闇ではないと分かる。曲がった通路。崩れた配管。壁のひび。床に残る蟻の脚跡。昨日の戦闘とは別の、古い通行痕。
ここから先は、人の場所ではない。
俺は喉を鳴らした。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
死にたくない。
心臓がうるさい。右腕が疼く。右足が冷たい。荷物の紐が肩に食い込む。臭玉の缶が腰に当たる。陽太の布袋が胸元で小さく揺れる。
「灰原」
久我が言った。
俺は彼を見る。
久我はしばらく何も言わなかった。言うことが見つからない顔だった。謝るのか。命令するのか。励ますのか。どれも違う。どれを言っても壊れる。
結局、久我は短く言った。
「死ぬな」
俺は少し笑った。
「命令するな」
久我の顔が歪む。
それ以上は何も言わなかった。
俺は見張り扉を越えた。
一歩。
旧芝浦外縁通路の床は冷たかった。湿っている。靴底がわずかに滑る。右足の銀色が、すぐに床の振動を拾おうとする。遠くの水音。配管の軋み。もっと奥の何かの足音。
二歩。
背後の人の気配が遠ざかる。たった二歩なのに、もう空気が違う。旧芝浦の赤い光が背中に当たり、前には黒い通路が口を開けている。
三歩。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、戻りたくなる。
だから見ない。
背後で陽太が泣いている。朝倉さんが何かを飲み込む。黒川が低く「くそ」と言う。牧野さんが工具袋を握る音。真衣さんのすすり泣き。大槻の静かな息。
全部、聞こえる。
扉が動いた。
ギィ。
閉まっていく。
旧芝浦の光が細くなる。
俺はそこで、ようやく少しだけ振り返った。
隙間から、朝倉さんの顔が見えた。陽太の小さな手が見えた。久我の肩が見えた。黒川の目が合った。
黒川は口だけで言った。
死ぬなよ。
声は届かなかった。
俺は小さく頷いた。
ガシャン。
見張り扉が閉じた。
続いて、内側から閂が落ちる音。
ゴトン。
その音で、完全に分かった。
俺はもう、旧芝浦の中にはいない。
暗闇が前にある。
背後には閉じた鉄扉。
右目の奥で、遠い蟻の流れが細く光るように広がった。道筋。匂い。振動。来ている。まだ遠い。けれど、確かに旧芝浦の方へ向かう流れがある。
言えばよかったのか。
扉の向こうに。
群れが来ている、と。
でも、もう扉は閉じた。
今さら叩いても、俺が戻りたいだけだと思われるかもしれない。原因を外に出したばかりなのに、すぐ戻せと言うのかと。そう思われるのが、怖かった。
違う。
それだけじゃない。
俺は、戻るのが怖い。
もう一度あの目で見られるのが怖い。
だから、黙った。
最低だ。
それでも、死にたくない。
俺は小型ライトを取り出し、スイッチを押した。
カチ。
一瞬だけ、弱い光が点く。
すぐ消える。
「……おい」
もう一度押す。
カチ。
今度は細く光った。
頼りない。暗闇を裂くには弱すぎる。だが、足元の水たまりと、崩れた配管の影くらいは見えた。
十分だ。
十分と思うしかない。
俺は荷物を背負い直し、右腕を押さえた。
「死にたくない」
声に出す。
誰も聞いていない。
外縁通路の奥で、何かがカサリと動いた。
蟻か。
鼠か。
落ちた配管か。
分からない。
右目が、勝手に暗闇の輪郭を拾う。俺の中の銀色が、静かに目を覚ます。
俺は一歩踏み出した。
旧芝浦の光は、もう背中の鉄扉の向こうにしかなかった。
前には、蟻の臭いがする闇だけが残っていた。




