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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第19話 俺ごと遠くへ


 見張り扉の向こうで、旧芝浦の音が消えた。


 完全に消えたわけではない。鉄の向こうには人がいる。陽太が泣いているかもしれない。朝倉さんがノートを握っているかもしれない。久我が扉の前に立ったまま動けずにいるかもしれない。黒川が舌打ちしているかもしれない。


 でも、それはもう俺のいる場所の音ではなかった。


 背後には閉じた鉄扉。


 前には旧芝浦外縁通路。


 湿った闇。蟻の臭い。壊れた配管。赤い非常灯も届かない、地下の外側。


 俺は小型ライトを握りしめた。


 カチ。


 細い光が足元だけを照らす。床は濡れていた。ところどころに黒ずんだ染みがある。蟻の体液か、古い油か、人間の血か。分からない。分からない方がいいものもある。


 右目の奥が、勝手に暗闇を拾おうとする。


 壁のひび。床の傾き。足跡。蟻の脚が擦った跡。古い水の流れ。普通の目では見えないはずの輪郭が、薄い銀色の線みたいに浮かぶ。


 便利だ。


 最悪だ。


「……落ち着け」


 自分に言う。


 声は通路に吸われた。


 まず、戻らない。


 それを決める必要があった。扉を叩けば、開けてくれるかもしれない。いや、たぶん開けない。開けたとしても、戻った俺を見る目は前より悪くなる。追放されたのに戻ってきた危険物。原因かもしれないもの。蟻を呼ぶもの。


 戻るな。


 死にたくないなら、前に進め。


 俺は荷物を背負い直した。水袋。食料。毛布。工具袋。黒川にもらった臭玉が一つ。重さは大したことないはずなのに、肩へずしりとのしかかる。


 旧芝浦のすぐ近くに隠れるだけなら、たぶん楽だった。


 外縁通路には、まだ使えそうな小部屋もある。配管裏の隙間もある。水の気配もあった。探せば、今夜だけ身を隠す場所くらいは見つかるかもしれない。


 でも、それでは駄目だ。


 もし、俺の中の銀色が蟻を呼んでいるなら。


 もし、あいつらが俺を追ってくるなら。


 ここに隠れたところで、蟻は旧芝浦のすぐ近くまで来る。


 見張り扉の向こうには、人がいる。俺を追い出した人間達がいる。俺を庇ってくれた人もいる。俺を怖がった人もいる。子供もいる。


 俺が追放された意味がなくなる。


「……遠くに行かないと」


 声に出すと、喉がひどく乾いた。


 怖い。


 遠くへ行くほど、戻れなくなる。水も食料も足りない。足も痛い。蟻に見つかったら終わりだ。


 それでも、旧芝浦の近くにはいられない。


 俺が原因かもしれないなら。


 俺は、俺ごと蟻を遠ざけるしかない。


 父さんの声が頭の奥で蘇る。


 逃げ道を先に見ろ。


 俺は通路の壁を見た。保守員用の古い案内板が斜めにぶら下がっている。文字は半分剥げていた。


 連絡坑。

 地下鉄保守通路。

 品川方面。


 品川。


 地上がまともだった頃なら、そう遠い距離ではない。けれど今は違う。地下の闇を、蟻の通り道を、崩れた保守通路を抜けていく。距離の問題ではない。生きて辿り着けるかどうかだ。


 俺は案内板の矢印を見た。


 品川方面。


 旧芝浦から離れるには、そちらへ行くしかない。


 ライトを消す。


 カチ。


 闇が濃くなる。


 右目が、ぼんやりと通路を拾った。振動と臭いと温度差が混ざった地図のようなもの。気持ち悪い。吐き気がする。だが、ライトをつけっぱなしにするよりは安全だ。


 俺は品川方面へ歩き始めた。


 一歩。


 足元の水が、ぴちゃりと鳴る。


 すぐ止まる。音が大きすぎる。耳を澄ます。水音が配管の奥へ逃げ、反響して戻る。蟻の足音はない。


 二歩目。


 踵からではなく、足の外側からゆっくり置く。父さんに教わった歩き方ではない。蟻を喰った右目が拾った、別の生き物の歩き方に近い。気持ち悪い。でも音は減った。


「人間の歩き方まで忘れそうだな」


 笑おうとした。


 笑えなかった。


 通路は途中から狭くなった。天井から垂れたケーブルが肩に触れ、右腕が反応しかける。銀色の筋が手首へ走った。


「ただのケーブルだ」


 小声で説明する。


 自分の身体に説明しないといけないのが、かなり嫌だった。


 少し先で、床が崩れていた。


 穴。


 下から水音がする。落ちたらすぐ死ぬほどではないかもしれないが、今の右足で落ちれば動けなくなる。俺はしゃがみ、ライトを一瞬だけつけた。


 カチ。


 鉄筋がむき出しになり、コンクリートが割れている。蟻が掘った穴ではない。古い崩落だ。だが、縁に新しい擦り跡があった。斥候蟻か、小型の働き蟻が通っている。


 まだ近くにいるか。


 俺は息を止める。


 何も聞こえない。


 違う。遠くにいる。


 右目の奥に、細い振動が入る。床の下。穴の向こう。別の通路。数は一つ。小さい。こっちへは来ていない。


 迂回しよう。


 穴の右側には、壁に沿って細い足場が残っていた。幅は靴一つ半。濡れている。落ちたら水路。右足はまだ痛い。普通に歩けば滑る。


「ふざけんなよ……」


 でも戻れない。


 荷物を投げることも考えた。音が出る。臭玉が割れたら終わる。水袋も破れるかもしれない。


 背負ったまま行くしかない。


 左手を壁につく。右手は使いたくない。もし滑ったら、右腕が勝手に刃になるかもしれない。壁を切れば支えにならない。


 一歩。


 右足に体重を乗せすぎない。


 二歩。


 水音が下で反響する。背中の荷物が揺れる。肩紐が首元へ食い込んだ。


 三歩目で、足場が崩れた。


 ベコンッ。


 右足が沈む。


「っ!」


 声を噛み殺す。


 右腕が反応した。銀色が手首から伸び、壁へ細い爪のように刺さる。俺の意思より早い。壁に引っかかり、身体が落ちるのを止める。


 痛い。


 肩が外れそうになる。右腕の中を氷水が走る。銀色の筋が壁のひびへ入り込み、勝手に硬化した。俺は左手で配管を掴み、身体を引き上げる。


 ズルリ。


 靴底が濡れた縁を擦る。


 何とか、向こう側へ転がり込んだ。


「はぁ……はぁ……」


 息が荒い。


 右腕を見る。指先から銀色の細い棘が出ていた。すぐに皮膚の中へ戻っていく。壁には刺さった跡。銀色の欠片は残っていない。


 助かった。


 助かったのに、気持ち悪い。


「勝手に動くなよ」


 小さく言う。


 返事はない。


 俺はしばらく座ったまま、呼吸を整えた。足場の向こうから、遠い振動が届く。さっきの小型蟻が動いた。崩れた音を聞いたのかもしれない。


 まずい。


 俺は立ち上がり、先を急いだ。


 連絡坑は古い地下鉄の保守通路へつながっていた。


 空気が変わる。


 横に長い空間。線路だった場所。枕木は腐り、レールは錆びている。壁には剥がれた案内表示。非常灯は死んでいる。ところどころ天井が落ち、古い広告の破片みたいなものが水に浸かっていた。


 地下鉄のトンネル。


 ここを通れば、地上に出ずに遠くまで行ける。


 もちろん、蟻も通れる。


 むしろ、人間よりずっと楽に。


 俺は線路の上へ降りた。足元の砂利が小さく鳴る。すぐ止まる。耳を澄ます。遠くで水が流れている。もっと遠くで、金属が鳴った。


 カン。


 自然音ではない。


 蟻か。

 崩落か。

 まだ分からない。


 右目が奥を見ようとする。距離がある。品川方面へ続くトンネルの先に、複数の振動がある。大きくはない。動きも遅い。こちらへ真っ直ぐ向かってはいない。


 なら、進める。


 俺は壁沿いに歩いた。


 線路の中央は危ない。逃げ場がない。壁沿いなら、配管や点検口がある。隠れられるかもしれない。父さんならそう言ったはずだ。


 どのくらい歩いたのか、分からない。


 時間の感覚が薄れる。ライトは必要な時だけ。ほとんどは右目の異常な感覚に頼った。頼りたくないのに、頼るしかない。足は痛み、喉は乾き、荷物の紐が肩に食い込む。


 途中で水を飲んだ。


 水袋を少しだけ傾ける。もっと飲みたい。でも我慢する。次にいつ水を確保できるか分からない。


 食料は食べなかった。


 食べると身体の奥の銀色が喜ぶ気がして、嫌だった。


 品川方面を示す古い保守表示を二つ越えたところで、右目の奥が冷えた。


 後ろ。


 俺は振り返る。


 遠くのトンネル。何も見えない。だが、振動がある。小さい点が三つ。距離はある。けれど、進行方向がこちらに似ている。


 追ってきているのか。


 俺を?


 それとも、ただ同じトンネルを通っているだけか。


 分からない。


 分からないのが怖い。


 俺は歩く速度を上げた。右足が痛む。膝が笑う。肩が熱い。右腕だけが冷たい。


「来るなよ……」


 声が漏れる。


 来るなら俺の方へ来い。


 旧芝浦へ行くな。


 そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。


 何を格好つけている。


 来たら死ぬかもしれない。俺は死にたくない。旧芝浦を守るために死ぬ覚悟なんてない。


 でも、旧芝浦へ戻られるのは嫌だった。


 それだけは、嘘じゃない。


 俺はトンネルの分岐へ入った。作業員用の細い通路。壁に古い表示がある。


 排水設備。

 保守ポンプ区画。

 品川連絡坑。


 ポンプ。


 水があるかもしれない。


 そして、身を隠す場所も。


 俺は迷わずそちらへ進んだ。


 通路は下っていた。水の臭いが濃くなる。古い排水の臭い。腐った布。錆。だが、蟻の臭いは少し薄い。水が流れて、匂いを消しているのかもしれない。


 それなら使える。


 水の近くは危険だが、匂いを流せる。痕跡を消せる。蟻を旧芝浦から遠ざけるなら、こういう場所の方がいい。


 進むほど、機械の残骸が増えた。壁沿いの配管が太くなり、床には点検用の蓋が並ぶ。何枚かは開いている。中は暗い。落ちたら戻れない穴もある。


 やがて、鉄扉が見えた。


 半分開いている。


 扉の横には、汚れたプレート。


 品川方面排水ポンプ室B-2。


 俺は息を止めた。


 ここか。


 扉の前にしゃがみ、床を見る。蟻の足跡はある。だが古い。人間の靴跡はほとんどない。少なくとも最近は誰も来ていない。扉の内側から、水が細く流れ出している。完全な乾燥ではないが、水源にはなるかもしれない。


 問題は中だ。


 俺はライトを一瞬つけた。


 カチ。


 鉄扉の隙間から、室内がぼんやり照らされる。広い。旧いポンプが二基。片方は崩れ、もう片方は斜めに沈んでいる。床には水たまり。天井から太い配管。奥に制御盤。壁際に棚。工具箱らしきもの。壊れた椅子。


 そして、部屋の中央に、蟻の死骸があった。


 一匹。


 かなり古い。外殻は乾き、脚は折れている。誰かが殺したのか、ここで力尽きたのか分からない。だが、右腕がすぐに反応した。


 喰え。


「黙れ」


 俺は低く言う。


 死骸の周りに新しい足跡はない。ここは今、蟻の巣ではない。少なくとも常駐はしていない。古い死骸が残っているということは、他の蟻が回収していない。水が臭いを流しているのか。それとも、この部屋が蟻にとって嫌な場所なのか。


 どちらにせよ、隠れ場所としては悪くない。


 俺は扉をさらに押した。


 ギィ。


 音が響く。


 すぐ止まる。耳を澄ます。反応はない。後ろの振動も、まだ遠い。


 入る。


 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 広い。


 人がいるための広さではない。機械のための空間。水のための空間。冷たいコンクリートと錆びた鉄のための空間。


 でも、壁がある。


 扉がある。


 奥がある。


 俺はまず入口を確認した。扉は閉まる。歪んでいるが、押せば動く。内側に古い閂がある。ただし錆びて固い。直せる。たぶん。針金とレンチがある。


 次に水。


 床の水たまりはそのままでは飲めない。だが、壁の配管から細く滴っている水は、濁りが少ない。布で濾せば使えるかもしれない。今すぐ飲むのは危ない。けれど、ないよりずっとましだ。


 棚。


 工具箱は錆びている。中身はあとで見る。制御盤は死んでいる。だが、銅線が取れるかもしれない。古い布、金具、割れたガラス、細いパイプ。全部、使える可能性がある。


 俺は部屋の中央で立ち止まった。


 ここで、生きるのか。


 一人で。


 旧芝浦から離れた。地下鉄のトンネルを使って、品川方面まで来た。もし蟻が俺を追っているなら、少なくとも旧芝浦の扉からは遠ざけた。


 それで十分かは分からない。


 でも、今の俺にできることは、それくらいだった。


 俺は荷物を壁際の乾いた場所へ置いた。


 まず入口。

 次に水。

 次に寝る場所。

 それから逃げ道。


 逃げ道。


 部屋の奥を見る。


 ポンプの裏に、点検用の小さな扉があった。人一人がぎりぎり通れるくらい。錆びている。開くかは分からない。だが、もし開けば別の通路へ出られるかもしれない。


 いい。


 ここは、ただの袋小路ではないかもしれない。


 少しだけ、呼吸が楽になった。


 その時、部屋の隅で何かが動いた。


 カサ。


 俺は反射で右腕を構える。


 銀色が手首へ走る。


 だが、出てきたのは蟻ではなかった。


 小さな影。


 灰色がかった毛。黒い小さな目。前脚が妙に大きく、爪が鉱石みたいに鈍く光っている。


 モグラ。


 いや、普通のモグラではない。


 そいつは古い配管の影から顔を出し、俺をじっと見た。逃げない。俺の右腕を見る。銀色の筋を見る。鼻をひくひく動かす。


「……お前も、ここまで逃げてきたのか」


 声をかけてしまった。


 モグラは返事をしない。


 ただ、床を小さく掻いた。


 カリ。


 その爪が、コンクリートの表面を削る。小さいのに、妙に強い。


 役に立ちそうだな。


 そう思った瞬間、自己嫌悪した。


 何でも使えるかどうかで見るなよ。


 でも、生き残るには必要だ。


 モグラは俺を少し見た後、蟻の古い死骸へ近づいた。匂いを嗅ぐ。すぐ顔を背ける。嫌そうに前脚で床を掻き、部屋の奥の点検扉の方へ走った。


 そこで一度だけ振り返る。


 来い、と言っているようにも見えた。


「いや、待て」


 俺は荷物を置いたまま、ゆっくり後を追う。右足が痛む。モグラは点検扉の下の隙間に鼻を入れ、爪で床を掻いた。


 その隙間から、風が来ている。


 微かな空気の流れ。


 つまり、向こうに空間がある。


 逃げ道だ。


 俺は息を呑んだ。


「……まじか」


 モグラは小さく鼻を鳴らし、また俺を見た。


 黒い目。


 何を考えているのか分からない。


 でも、逃げない。


 俺はポンプ室の入口へ戻り、鉄扉を見た。


 ここを拠点にする。


 今は仮でもいい。


 水を確保する。入口を補強する。寝床を作る。逃げ道を開ける。蟻の死骸は処理する。臭いを消す。鳴子を作る。罠を作る。


 やることがある。


 やることがあると、少しだけ怖さが薄くなる。


 死にたくない。


 なら、作るしかない。


 俺は右腕を見た。


 銀色の筋が、静かに沈んでいる。


「お前も働けよ」


 自分の腕に向かって言う。


 返事はない。


 でも、右手の指先がわずかに硬くなった。


 遠くのトンネルの向こうで、蟻の足音がした。


 カツ。


 カツ。


 まだ遠い。


 でも、確かにいる。


 俺はポンプ室の扉へ戻り、内側からゆっくり閉めた。


 ギィ。


 錆びた扉が軋む。


 完全には閉まらない。隙間がある。あとで直す。


 荷物を壁際へ寄せ、古い毛布を乾いた床に広げた。


 冷たい。湿っている。ひどい寝床だ。


 でも、俺だけの場所だった。


 追放された先で、最初に見つけた場所。


 品川方面排水ポンプ室B-2。


 ここから、生きるしかない。


 俺は床に座り、初めて背中の力を少し抜いた。


 遠くの蟻の足音は、まだ消えない。


 けれど今だけは、旧芝浦から遠い闇の向こうにあった。

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