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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
ひとりと一匹の地下拠点生活

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第20話 銀色を使う


 品川方面排水ポンプ室B-2。


 汚れたプレートに残った文字を、俺はもう一度見た。


 旧芝浦から遠く離れた地下鉄の保守通路。その奥にある、古い排水ポンプ室。水と錆と機械のための場所。人間が眠るための場所ではない。


 けれど、今の俺にはここしかなかった。


 床は湿っている。天井の太い配管から、水が一定の間隔で落ちている。


 ピチャン。


 少し置いて。


 ピチャン。


 部屋の中央には、古い蟻の死骸が一匹。外殻は乾き、脚は折れ、中身はほとんど抜けている。だが、その残骸の近くに立つだけで、右腕の奥がうずいた。


 喰え。


 そんな声が聞こえた気がした。


 俺は右手を押さえる。


 今までなら、すぐに拒絶していた。黙れ。動くな。喰うな。勝手に俺を変えるな。そうやって、ただ押し込めようとしていた。


 でも、もう旧芝浦の壁際ではない。


 朝倉さんが診てくれるわけでもない。久我が判断してくれるわけでもない。黒川が前に立ってくれるわけでもない。怖がる人間の目も、庇ってくれる声も、ここにはない。


 俺だけだ。


 俺と、この銀色だけ。


 なら、拒絶しているだけでは死ぬ。


 俺は右腕を見た。皮膚の下に、薄い銀色の筋が沈んでいる。気持ち悪い。怖い。今でも、自分の身体の中にこんなものがあると認めたくない。


 でも、ここで生きるなら、使うしかない。


「……いいよ」


 声が思ったより低く出た。


「使ってやる」


 右腕の奥が、ゆっくり反応する。


 嬉しそうに。


 そう感じた瞬間、背筋が冷えた。


「ただし、勝手に動くな」


 俺は右手を握った。


「勝手に喰うな。勝手に俺を変えるな。俺が使う。俺が決める」


 銀色の筋が、指先へ細く滲んだ。


 返事はない。


 従ったのか。ただ待っているだけか。それとも、俺がそう思い込みたいだけか。


 分からない。


 でも、それでいい。


 俺はもう、この銀色から逃げない。


 支配してやる。


 コントロールしてやる。


 そうしなければ、ここでは生き残れない。


 最初にやることは決まっていた。


 入口。


 鉄扉は半分閉まる。だが、完全には閉まらない。下側が歪み、床に擦れて止まる。隙間は指三本分ほど。小型の蟻なら身体は通れないかもしれない。だが、触角は入る。臭いも漏れる。音も漏れる。


 このままでは、拠点とは呼べない。


 俺は工具袋を開いた。


 小さいレンチ。針金。薄い金具。折れたドライバーの先端。古い絶縁テープ。牧野さんがくれた余り物だ。大した道具じゃない。でも、何もないよりはずっといい。


 鉄扉のレールを調べる。砂利と錆の塊が詰まっていた。


 左手でドライバーの先端を差し込み、錆を削る。


 ギリ。


 音が大きい。


 すぐ止まる。耳を澄ます。遠くで水が流れている。さらに遠くで、何かが金属を叩いたような音がした。


 カン。


 蟻か。崩落か。


 まだ分からない。


 続ける。


 ギリ、ギリ。


 右腕なら、たぶん一瞬だ。銀色を硬化させて削ればいい。さっきまでなら、その考え自体を嫌がっていた。でも今は違う。


 使う。


 ただし、俺の命令で。


「削れ」


 右手をレールに当てた。


 指先から銀色が滲む。細い刃ではなく、爪の形。俺は意識して、それ以上広がらないように力を止めた。


 止まれ。


 爪だけでいい。


 右腕の奥が冷える。


 銀色の爪が、錆の塊へ食い込んだ。


 ギリリ。


 左手の道具よりずっと速い。錆が剥がれ、黒い粉が落ちる。便利だ。怖いほど便利だ。


 使うな、と今までの俺が叫ぶ。


 でも、今の俺は歯を食いしばった。


「そこまで」


 銀色がまだ伸びようとする。


「止まれ」


 強く言う。


 指先の銀が一瞬震え、それから爪の形のまま止まった。


 止まった。


 俺は息を吐いた。


 小さな成功だ。たぶん、成功と呼んでいい。


 レールの錆を落とし、鉄扉を押す。


 ギィィ。


 さっきより動く。下側が床を擦りながら、少しずつ閉まる。完全ではない。だが、隙間はさらに細くなった。


「よし」


 次は内側の閂だ。


 錆びて固い。左手だけでは動かない。右腕に命令する。


「押せ。ただし、壊すな」


 銀色が手首から掌へ沈む。人間の手の形は残っている。力だけが、少し増したような感覚。


 俺は閂を押した。


 バキン。


 錆が割れる。


 音が響いた。


 心臓が跳ねる。


 だが、閂は動いた。半分まで。さらに押す。


 ゴトン。


 鉄の棒が落ち、扉が内側から固定される。


 強い力で押されたら終わる。大型の蟻なら一撃だろう。それでも、開けっぱなしよりはずっといい。


 俺は右手を見る。


 銀色はまだ残っている。


 そこまで。


「戻れ」


 命令する。


 銀色が皮膚の下へ沈む。完全ではないが、指先の硬さは消えた。


 できる。


 少しなら。


 俺はその事実に、安堵した。


 同時に、ぞっとした。


 使えると分かった瞬間から、使わない理由が減っていく。


 次は鳴子。


 旧芝浦の見張り扉にあった鳴子を思い出す。缶。針金。金具。揺れれば鳴る仕組み。ここにあるもので作るなら、壊れた制御盤の薄い金属板と、工具箱の中のボルトが使える。


 棚の工具箱を開ける。蓋が錆びついていたが、右手は使わない。左手とドライバーだけでこじる。


 ギィ。


 開いた。


 中身はひどい。錆びたボルト。切れたケーブル。割れた絶縁部品。硬くなったゴム。それでも、細いワイヤーがあった。


 制御盤から薄い金属片を外す。


 カシャン。


 軽い音。


 いい。


 入口の隙間にワイヤーを張り、金属片とボルトを吊るす。扉が揺れれば鳴る。触角が入っても鳴るかもしれない。風でも鳴るだろうが、何もないよりはましだ。


 指で揺らす。


 カシャン。


 音は響きすぎる。もう少し低くしたい。金属片を布で少し巻く。再び揺らす。


 カシャン。


 よし。


 次は水。


 天井の配管から落ちる水は、床へ直接垂れていた。床の水たまりは飲めない。何が混ざっているか分からない。受ける容器がいる。


 荷物から空いた小瓶を出し、透明カバーを配管の下に置く。浅いが、水を受ける皿にはなる。


 ピチャン。


 水が落ちる。


 少なすぎる。


 だが、ゼロよりはいい。


 棚にあった古い缶は油臭い。布で拭き、匂いを嗅ぐ。駄目だ。飲み水には使えない。別の用途に回す。鳴子か、灰入れか、部品入れ。


 水袋から、ほんの少しだけ水を飲む。


 喉がもっと欲しがる。


 無視する。


 次は寝床。


 部屋の中で一番乾いているのは、奥の制御盤横だった。床は冷たいが、水たまりから離れている。背後が壁。入口が見える。奥の点検扉にも近い。逃げ道が開けば、そこから逃げられる。


 古い毛布を広げる。湿っている。冷たい。だが、床に直接寝るよりはましだ。壊れた椅子の脚を外し、毛布の端を少し浮かせる。空気が通れば、多少は乾くかもしれない。


 その間、部屋の隅のモグラはずっとこちらを見ていた。


 灰色の毛。黒い目。鉱石みたいに光る爪。


 普通のモグラではない。


「お前、ここの主?」


 話しかける。


 返事はない。


 モグラは前脚で床を掻いた。


 カリ。


 そこは、奥の点検扉の前だ。


「逃げ道か」


 俺は近づき、点検扉を調べた。小さい。人一人がぎりぎり通れる。下に隙間があり、そこから微かな風が来ている。向こうに空間があるのは間違いない。


 取っ手は錆びていた。引いても動かない。押しても駄目。蝶番が固着している。


 右腕なら切れる。


 そう考えて、今度は首を振らなかった。


 切るかどうかではない。どう使うかだ。


 無理に切れば音が出る。火花も出るかもしれない。大きく使えば、身体への負担も大きい。なら、小さく使う。蝶番の錆だけを削る。力を入れる場所を絞る。


「おい」


 俺は右腕を見る。


「削るだけだ。広がるな。喰うな。切り落とすな」


 銀色が指先に滲む。


 今度は細い針のように。


 俺は息を止め、蝶番の錆へ当てた。


 ギリ。


 金属が削れる。


 音は小さい。


 いける。


 ギリ、ギリ。


 モグラが少し離れた場所で見ている。逃げない。俺の銀色が怖くないのか、それとも別の理由があるのか。分からない。


 蝶番の錆が少し落ちる。


 俺は取っ手を引いた。


 ギィ。


 わずかに、音が変わった。


 開かない。


 でも、動いた。


「よし」


 声が出た。


 本当に少しだけ、嬉しかった。


 その瞬間、入口の鳴子が鳴った。


 カシャン。


 身体が凍る。


 モグラが一瞬で配管の影へ逃げた。


 俺はライトを消したままだった。闇の中で、右目だけが入口の輪郭を拾う。鉄扉。隙間。揺れる金属片。ワイヤー。空気の流れ。


 何かが触れた。


 風か。


 違う。


 床の振動。


 軽い。細い。複数ではない。一つ。


 斥候蟻。


 心臓が跳ねる。


 近い。


 旧芝浦から離れたのに、もう来たのか。俺を追ってきたのか。ただ水の臭いに寄ったのか。分からない。分からないまま、死にたくない。


 俺は臭玉に手を伸ばしかけ、止めた。


 一つしかない。


 ここで使えば終わりだ。


 使わずに死んだら意味がない。だが、斥候一匹で使い切るのもまずい。


 今の俺には、別の選択肢がある。


 右腕。


 俺は唇を舐めた。


 怖い。


 だが、ここで試さなければ、いつ試す。


 入口の隙間から、細い触角が入った。


 ゆらり。


 空気を探るように動く。


 鳴子のワイヤーに触れる。


 カシャン。


 触角が止まった。


 向こう側の蟻も止まる。


 俺は床に伏せ、壊れた鉄板の陰へ身体を入れた。右足が痛む。息が荒い。音を出すな。音を出すな。


 触角がさらに入る。


 隙間から、蟻の頭が覗きかけた。


 小さい。


 それでも十分に大きい。人間の頭ほどある顎。黒く濡れた複眼。細い首。斥候蟻だ。扉の隙間を広げようとしている。


 鉄扉が、ギィ、とわずかに動いた。


 まずい。


 ここを見つけられたら終わりだ。


 俺は右手を床についた。


「聞け」


 声はほとんど息だった。


「刃じゃない。針だ。伸びるのは指先から十センチだけ。狙うのは顎の根元。喰うな。殺して、すぐ戻れ」


 自分で言いながら、馬鹿みたいだと思った。


 でも、言葉にしないと俺の方が飲まれる。


 銀色が指先に集まる。


 冷たい。


 細い針が一本だけ伸びた。


 一本だけ。


 よし。


 右目が勝手に線を引く。


 顎の付け根。柔らかい膜。警戒臭を出す前に潰せる場所。


 分かる。


 分かってしまう。


 俺は息を止め、入口の横から右手を突き出した。


 銀色の針が、隙間から蟻の顎の根元へ刺さる。


 ギチッ。


 蟻が暴れた。


 鉄扉が揺れる。


 カシャンカシャンカシャン。


 鳴子が狂ったように鳴る。


 右腕の奥から衝動が跳ね上がる。


 喰え。


 情報を取れ。殻を覚えろ。脚を覚えろ。匂いを覚えろ。通路を覚えろ。


 今だ。

 喰え。


「喰うな」


 俺は歯を食いしばる。


「殺すだけだ」


 針がさらに広がろうとする。


 駄目だ。


「命令を聞けッ」


 小さく、しかし鋭く吐いた。


 右腕の奥で、何かが止まった。


 一瞬だけ。


 その隙に、俺は手首を捻る。


 ギチン。


 蟻の動きが止まった。


 重みが扉にかかる。死骸が隙間に引っかかり、頭だけが内側へ残った。胴体は外。最悪の詰まり方だ。臭いが漏れる。体液が垂れる。他の蟻が来るかもしれない。


 でも、喰わなかった。


 針は戻った。


 俺は右手を見た。


 指先の銀色が、皮膚の下へ沈んでいく。


 完全に従ったわけではない。


 隙を見せれば、すぐに喰おうとした。今もまだ、蟻の体液へ手を伸ばしたがっている。


 でも、止められた。


 俺が止めた。


「……できるじゃん」


 声が震えていた。


 褒めたのは腕か、自分か、分からない。


 すぐに現実へ戻る。


 蟻の頭を押し戻さなければならない。外に死骸を残すのも危険だが、内側に入れる方がもっとまずい。俺は左手で鉄板を引き寄せ、蟻の頭を押し返す。右腕は使わない。使えば処理は早いが、喰う危険がある。


 ズル。


 少し動く。


 もう一度。


 ズルリ。


 蟻の頭が外へ落ちた。


 すぐに扉を押す。閂をかけ直す。隙間に鉄板を差し込む。ワイヤーが絡まり、鳴子が斜めになる。直す余裕はない。


 床に落ちた体液を古い布で拭く。布は部屋の隅の古い缶に押し込んだ。臭いは残る。完全には消えない。だが、今できるのはここまでだ。


 俺は壁に背を預け、そのまま床へ座り込んだ。


 息が止まらない。


 右腕が冷たい。指先には銀色が残っていない。それなのに、手の内側だけが妙に熱い。


 怖い。


 でも、さっきとは違う怖さだった。


 ただ飲み込まれる恐怖ではない。


 扱えるかもしれないものを、扱い損ねれば自分が壊れる恐怖。


 モグラが配管の影から顔を出した。


 黒い目で、こちらを見る。


「見てたなら手伝えよ」


 声が震えていた。


 モグラは返事をしない。ただ、部屋の奥へ走り、点検扉の前でまた床を掻いた。


 カリ。


 逃げ道。


 そうだ。


 入口だけでは駄目だ。今ので分かった。扉は弱い。斥候蟻一匹で揺れる。次に二匹来たら終わる。大きいのが来たら、考えるまでもない。


 奥の扉を開けないと死ぬ。


 寝床より先だ。


 俺は立ち上がった。


 足は震えている。腕は冷たい。喉は乾いている。眠い。逃げたい。誰かに代わってほしい。


 でも、誰もいない。


 ここには俺しかいない。


 なら、俺がやるしかない。


 俺は点検扉の前にしゃがみ、右手を見た。


 銀色は沈んでいる。


 呼べば出る。


 呼ばなくても出ようとする。


 なら、先に命令する。


「いいか」


 俺は自分の右腕へ向かって言った。


「俺はお前を拒絶しない」


 銀色が、皮膚の下でかすかに動く。


「でも、お前の好きにはさせない」


 右手を握る。


「俺が使う。俺が決める。俺が止める」


 息を吐く。


「俺が、お前をコントロールする」


 遠くのトンネルの向こうで、蟻の足音がした。


 カツ。


 カツ。


 まだ遠い。


 だが、いつか来る。


 なら、その前に開けるしかない。


 俺は銀色を指先に呼び、錆びた蝶番へ当てた。


 ギィ。


 わずかに、音が変わった。


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