第21話 逃げ道を先に作れ
錆びた蝶番に、銀色の指先を当てる。
ギィ。
金属が鳴った。
音は小さい。だが、この部屋では十分に大きく聞こえる。俺はすぐに手を止め、入口の鳴子を見る。揺れていない。鉄扉の向こうにも反応はない。
続ける。
逃げ道を先に作れ。
父さんの声が、頭の奥で何度も繰り返されていた。入口を閉じる。水を確保する。寝床を作る。それも大事だ。でも、逃げ道がなければ全部まとめて墓になる。
この排水ポンプ室は、見つけた時には希望に見えた。
壁がある。扉がある。水がある。奥がある。
だが、斥候蟻一匹でその希望は薄くなった。入口の扉は弱い。鳴子は鳴るだけ。閂も一撃で折れるかもしれない。もし二匹、三匹と来たら。もし大きいのが来たら。
逃げ場がなければ終わりだ。
俺は点検扉の前にしゃがみ、右手を見る。
銀色の筋は、皮膚の下で静かに沈んでいた。
「針でいい」
小声で命令する。
「切るな。広がるな。錆だけ削れ」
右手の人差し指から、細い銀の針が出る。長さは五センチほど。そこで止める。まだ伸びようとする感覚がある。俺は息を詰め、もう一度言った。
「止まれ」
銀色の針が震え、それ以上は伸びなかった。
よし。
俺は針の先を蝶番の隙間へ入れ、固まった錆を削った。
ギリ、ギリ。
金属粉が落ちる。
左手のドライバーでは何度も引っかかった場所が、薄く剥がれていく。俺はその断面を見ないようにして、手元だけに集中した。
喜ぶな。
怖がるな。
今は作業だけ見ろ。
力を入れすぎれば蝶番ごと壊れる。壊すのは簡単だ。開かなくなる可能性も高い。だから少しずつ。音を抑え、力を抑え、銀色を抑える。
制御。
その言葉が頭に浮かぶ。
俺は今、ただ生き残るために工具を使っているわけじゃない。銀色の液体金属を、俺の命令で使う練習をしている。
怖い。
気持ち悪い。
でも、使う。
使われる側には回らない。
蝶番の錆が剥がれ、奥に黒い隙間が見えた。俺は針を引っ込める。
「戻れ」
銀色が一瞬だけ遅れる。
「戻れ」
二度目で、皮膚の下へ沈んだ。
完全に従順ではない。命令を聞いているというより、こちらの隙を見ている。そんな感覚がある。たぶん、気のせいじゃない。
俺は取っ手を掴み、ゆっくり引いた。
ギィィ。
扉が少し動く。
「……開いた」
声が漏れた。
まだ人が通れるほどではない。隙間は腕一本分。だが、確かに動いた。俺はもう一度蝶番を削り、取っ手を引く。今度は肩が痛む。右足も踏ん張りに耐えきれず、膝が揺れた。
でも、扉は開いた。
人一人が横になれば通れるくらいの隙間。
奥から、冷たい風が流れてくる。
俺はその場に座り込みそうになり、片膝だけで堪えた。
まだ安全になったわけじゃない。奥に何があるか分からない。蟻が通れないほど狭いとは言い切れない。別の危険があるかもしれない。
それでも、扉一枚の奥に出口がある。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
部屋の隅で、モグラがこちらを見ている。灰色の毛。黒い目。鉱石みたいな爪。そいつは、さも当然のように点検扉の前まで来ると、隙間に鼻を入れた。
「お前、知ってたのか」
モグラは返事をしない。
そのまま隙間へ滑り込み、奥へ消えた。
「おい」
俺は慌ててライトを向ける。すぐ光を消す。外に漏れるのが怖い。
数秒後、モグラは戻ってきた。
口に何かを咥えている。
小さな金属片。いや、ネジか。錆びてはいるが、まだ使える。
俺の前に落とす。
カラン。
「……くれるの?」
モグラは俺を見た。
分からない。
だが、拾ったネジは使えそうだった。俺はそれを手に取り、少し笑った。
「お前、俺よりこの部屋に詳しいな」
モグラは床を掻いた。
カリ。
返事のつもりなのか、ただ爪が鳴っただけなのか。
どちらでもいい。
今は、少しありがたかった。
次に、蟻の死骸を処理する。
やりたくない作業ほど、後回しにすると危険になる。古い死骸は部屋の中央にある。臭いは薄いが、ゼロではない。右腕はずっとそれを気にしている。餌を見る獣みたいに。
俺は死骸の前に立った。
乾いた外殻。折れた脚。崩れた腹部。触角は片方だけ残っている。古い。だが、右目には構造が見える。関節。殻の層。顎の根元。使える部分。触らない方がいい部分。
喰うな。
使う。
俺は右腕に命令する。
「吸うな。喰うな。切るだけだ」
銀色が指先に集まる。
今度は刃ではなく、薄いヘラのようにする。外殻を剥がすため。触角や脚を切り分けるため。大きく広げる必要はない。
銀色が少し膨らむ。
「薄く」
俺は言った。
「薄く、平たく。十センチまで」
銀色が指先で形を変える。
右手の先に、小さな銀のヘラができた。
気持ち悪い。
でも、できた。
俺は蟻の死骸の脚へ当てる。
ギチ。
乾いた関節が外れる。
左手だけなら、もっと時間がかかったはずだ。力任せに折れば音も出た。今は違う。構造が見えて、刃が入り、最小限の音で外れる。
俺は自分の右手を見たくなかった。
見たら、何かを認めてしまいそうだった。
「楽を覚えるなよ」
自分に言ったのか、腕に言ったのか。
どちらでも同じだった。
右腕の奥から、衝動が来る。
喰え。
情報。殻。匂い。道。敵。材料。
「まだだ」
俺は歯を食いしばる。
「今は、解体だけ」
脚を一本外す。次に触角。折れた外殻の欠片。使えそうな硬い部分は入口補強に回せるかもしれない。薄い殻は鳴子や罠にできる。触角は、正直触りたくない。だが、蟻が匂いや振動を拾う器官なら、何か分かるかもしれない。
触れた瞬間、右目の奥が冷えた。
暗い通路。
酸の臭い。
仲間の脚音。
警戒。
水。
死骸。
忌避。
情報が流れ込みかける。
「止まれ」
俺は触角から手を離した。
吐き気がした。
膝をつきそうになる。
古い死骸でも、まだ残っているのか。記憶なのか、匂いなのか、身体の構造から読み取っているのか分からない。だが、使い方を間違えると頭が壊れる。
少しずつだ。
全部拾うな。
俺は触角を布で包み、工具箱の隅に置いた。使うかは後で考える。今はこれ以上触らない。
外殻の大きな欠片は入口の隙間へ運ぶ。重い。右足が痛む。右腕を使えば楽だ。だが、さっきから使いすぎている。寒気が背骨に上がってきていた。
使うには、代償がある。
忘れるな。
俺は左手と肩で外殻を押し、入口まで引きずった。
ズズ。
音がする。
止まる。
耳を澄ます。
鳴子は鳴らない。外の足音も遠い。
外殻を扉の内側へ立てかけ、隙間を塞ぐ。鉄板と外殻。布。ワイヤー。見た目はひどい。だが、さっきよりはましだ。
次に、死骸の残りを部屋の奥へ運ぶ。
本当は外へ捨てたい。だが外に出れば危険だし、外に置けば蟻を呼ぶかもしれない。水たまりの近くも駄目。臭いが流れて広がる。
最終的には、点検坑の奥に埋めるか、乾燥した穴へ封じる必要がある。
今日は無理だ。
布をかぶせ、古い金属板を上に置く。臭いを完全には消せない。だが、むき出しよりはいい。
やることが多すぎる。
入口。鳴子。水。寝床。逃げ道。死骸処理。臭い消し。罠。食料。自分の傷。
旧芝浦では、誰かが何かをやっていた。
水を配る人。子供を見る人。怪我を見る人。工具を扱う人。見張る人。泣く人。怒る人。責任を取るふりをする人。
ここでは全部、俺がやる。
「笑える」
笑えない声で言った。
水受けを見る。
透明カバーに、ほんの少しだけ水が溜まっている。指先で触れる。冷たい。濁りは少ない。布で濾す。匂いを嗅ぐ。金属臭はある。腐敗臭はない。
飲むか迷う。
喉は乾いている。
だが、腹を壊したら終わりだ。外で腹を壊すことは、蟻に噛まれる前に死ぬという意味に近い。
少しだけ口に含む。飲み込まず、舌で確認する。苦い。だが、油の味はしない。俺は吐き出し、まだ飲まないことにした。
水袋をほんの少しだけ飲む。
残りは少ない。
明日には、この滴る水を使うしかない。
明日。
そこまで生きる前提で考えている自分に、少し驚いた。
俺は毛布のある場所へ戻り、壁にもたれた。座った瞬間、全身が重くなる。右足がじんじん痛む。右腕は冷たい。胸の奥も冷えている。
銀色を使いすぎた。
たぶん。
指先を曲げる。動く。痛みはあるが、動く。皮膚の下に残る銀色の筋は、さっきより少し濃い気がした。
「増えた?」
問いかける。
もちろん返事はない。
俺は右手を握り、開く。
開く。握る。開く。握る。
人間の手だ。
今はまだ。
そう確認してから、目を閉じかけた。
カリ。
モグラの爪の音。
目を開けると、モグラが近くまで来ていた。距離は一メートルほど。近い。逃げない。俺の右腕を見ているのか、毛布を見ているのか、分からない。
「寝る場所は分けろよ」
言うと、モグラは前脚で床を掻いた。
カリ。
そのあと、部屋の隅に移動して丸くなった。
分かっているのか。
偶然か。
どちらにしても、妙に人間くさい距離の取り方だった。
俺はもう一度目を閉じた。
すぐには眠れない。
入口の鳴子。外の足音。点検坑の風。水の音。全部が気になる。右目を閉じても、振動の地図は薄く残る。頭の奥で、遠い蟻の流れが動いている。
カツ。
カツ。
まだ遠い。
でも、消えない。
俺は目を開け、暗闇の中で右腕を見た。
銀色は怖い。
俺を変える。俺の意思を越える。蟻を喰いたがる。情報を流し込む。頼れば、次も頼りたくなる。そういう匂いがする。
それでも、ただ拒絶していた頃よりはましだ。
俺は命令した。
少しだけ、従わせた。
入口を直した。逃げ道を開けた。斥候蟻を殺した。死骸を解体した。
生きるために使った。
それが正しいのかは分からない。
でも、生きている。
「明日も使うぞ」
俺は右腕に言った。
「でも、俺の命令でだ」
銀色は返事をしない。
ただ、皮膚の下で静かに沈んでいた。
ピチャン。
水が落ちる。
カリ。
モグラが寝返りを打つ。
カシャン。
入口の鳴子が、風で小さく鳴った。
俺は息を止め、耳を澄ます。
何も来ない。
まだ。
俺はゆっくり息を吐いた。
排水ポンプ室の最初の夜は、まだ終わらない。
それでも、ここはもうただの廃墟ではなかった。
入口がある。
水がある。
寝床がある。
逃げ道がある。
鳴子がある。
そして、俺の命令を少しだけ聞く銀色がある。
拠点と呼ぶには、あまりにもひどい。
けれど、死なないための形にはなり始めていた。
俺は壁にもたれたまま、目を閉じる。
眠るというより、落ちるように意識が沈んだ。
最後に聞こえたのは、遠い蟻の足音ではなく、水の音だった。
ピチャン。
ピチャン。
その音だけを、信じることにした。




