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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
ひとりと一匹の地下拠点生活

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第22話 受け入れる


 目が覚めた時、最初に聞こえたのは水の音だった。


 ピチャン。


 少し間を置いて。


 ピチャン。


 品川方面排水ポンプ室B-2の天井から落ちる水滴が、透明カバーの底を叩いている。旧芝浦の寝床溜まりで聞いていた人の寝息も、誰かの咳も、子供の泣き声もない。ただ、水と錆と暗闇だけがあった。


 俺はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 壁。冷たい床。湿った毛布。入口に吊るした鳴子。部屋の中央に金属板を被せた蟻の死骸。奥の点検扉。足元の工具。右腕の中に沈む銀色。


 それで、思い出す。


 追放された。

 旧芝浦から離れた。

 品川方面まで来た。

 ここで一晩、生き延びた。


「……生きてる」


 声に出してから、少しだけ笑った。


 笑うほどのことかと思う。でも、たぶん笑うほどのことだった。外では、一晩で死んでもおかしくない。俺はまだ死んでいない。それだけで、今日は前に進める。


 身体を起こす。右足首の銀色の線が、皮膚の下で薄く光っていた。昨日までなら、それを見ただけで胃の奥が冷えていた。俺の身体ではないものが増えている。人間から外れていく。そんな感覚に、喉が詰まっていた。


 けれど、今朝は違った。


 怖くないわけじゃない。


 ただ、怖がっている暇がない。


 俺は右手を握る。開く。握る。開く。


 人間の手。


 今はまだ。


 そう確認してから、俺は自分で鼻で笑った。


「今はまだ、って何だよ」


 その言い方自体が、もう逃げ腰だ。


 俺は右腕を見つめた。皮膚の下に銀色の筋がある。消えていない。消える気配もない。こいつは俺の中にいる。右目の奥にも、腕にも、足にも、たぶんもっと深い場所にも。


 なら、いつまで敵扱いする。


 拒んで、痛がって、押し返して、それで何が変わった。


 旧芝浦では、それでも誰かがいた。澪が記録して、牧野が工具を貸して、黒川が槍を振って、久我が扉を閉めた。大槻が何かを言い、誰かが怯え、誰かが泣いた。


 ここにはいない。


 俺一人だ。


 いや。


 部屋の隅で、灰色の塊が動いた。


 モグラが、丸めていた身体を起こす。黒い目で俺を見る。相変わらず何を考えているか分からない顔だ。昨日はずっと無言で床を掻いていた。地下の変異生物。謎の同居人。俺が勝手にそう思っているだけかもしれないが。


 モグラは点検扉の前まで歩いていき、床を掻いた。


 カリ。


「朝から案内か?」


 俺がそう言うと、モグラが小さく口を開いた。


「キュッ」


「うわっ」


 思わず声が出た。


 鳴くのかよ。


 いや、動物なんだから鳴くのは当たり前だ。分かっている。分かっているけど、昨日までずっと無言で床を掻いたり、こっちを見たりしていただけだったから、不意打ちで変な声が出た。


 モグラは驚いた俺を見上げ、首を少し傾ける。


「キュ〜?」


「……いや、何でもない」


 何だその声。


 地下の変異生物みたいな見た目をしているくせに、鳴き声だけ妙に柔らかい。黒い目でじっと見上げてくるのも、少しずるい。


 かわいい。


 そう思いかけて、俺はすぐに顔をしかめた。


 違う。


 かわいいとか言っている場合じゃない。こいつが何なのかも分からないし、噛まれたら変な病気になるかもしれないし、そもそも今は生きるか死ぬかの地下生活二日目だ。


「……鳴くなら先に言えよ」


「キュイッ」


「返事みたいに鳴くな」


 モグラはもう一度、点検扉の奥へ顔を向けた。


 そして短く鳴く。


「キュッ」


 今度は、催促に聞こえた。


 俺は水受けを確認する前に、右腕へ視線を落とした。


 やることは多い。


 水を増やす。点検坑を調べる。逃げ道を確保する。蟻の死骸を処理する。入口を補強する。鳴子を増やす。食料を探す。自分の身体を確認する。


 人間一人の手では足りない。


 昨日までの俺なら、銀色に向かって「勝手に動くな」と言った。


 今もそれは必要だ。


 でも、足りない。


 勝手に動くな、だけでは生き残れない。


 俺は右腕を胸の前に上げた。


「聞け」


 誰に言っているのか、自分でも分からない。


 右腕の銀色に。右目の奥に入り込んだものに。俺の身体の奥で、勝手に生きているような液体金属に。


「お前を拒むのは、もうやめる」


 言葉にした瞬間、喉の奥が少し震えた。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 でも、続ける。


「俺の中にいるなら、俺を生かせ。俺も、お前を使う。蟻でも金属でも、使えるものは全部使う。勝手に暴れるな。俺も、もう押し返さない」


 右腕の皮膚の下で、銀色がゆっくり動いた。


 昨日までのような、ぞわりとした飢えではない。冷えでもない。痛みでもない。何かが噛み合うような、静かな感覚。


 鍵が回る。


 そんな感じだった。


 俺は息を止めて、指先に意識を向ける。


 針。


 そう思う。


 言葉に出すより早く、指先から銀色が細く伸びた。


 十センチ。


 ぴたりと止まる。


 痛くない。


 吐き気もない。


 寒気もない。


「……今までのは」


 俺は指先の銀色を見た。


 針は静かに空気を切っている。暴れない。餌を探さない。俺の意識の先に、ただ形として存在している。


 分かった気がした。


 こいつが勝手に暴れていたんじゃない。


 俺がずっと押し返していた。


 液体金属は、蟻の構造を読んで、俺の身体を動かして、俺を生かそうとしていた。俺はそれを拒み、止め、怖がり、押し返した。だから情報は濁流みたいに流れ込み、身体は冷え、痛みが出た。


 接続が噛み合っていなかった。


 俺が、こいつを異物として扱い続けていたから。


「……呪いだと思ってた」


 呟く。


 銀色の針が、わずかに揺れる。


「でも、道具でもあるのか」


 いや、道具と言うには近すぎる。


 これはもう、俺の身体の内側にある。


 なら、身体の一部として使うしかない。


 俺は蟻の死骸へ向かった。昨日、金属板を被せておいた古い死骸。臭いは薄いが、右目には外殻、脚、顎、触角の残りがはっきり見える。


 昨日までは、右腕がそれを喰いたがるのが怖かった。


 今は違う。


 喰わせる。


 ただし、目的を決めて。


「外殻。顎。触角の根元。脚の関節」


 俺は部位を指で示した。


「情報と素材として取り込む。全部だ。ただし、腐った部分はいらない」


 銀色が右手全体に広がる。


 刃ではない。針でもない。薄い膜のように、右手の表面を覆う。皮膚が銀色に染まるのに、痛みはない。むしろ、手袋をはめたような感覚に近い。


 俺は蟻の外殻に触れた。


 ギチ。


 乾いた殻が割れる。


 銀色の膜が、破片を包む。


 次の瞬間、情報が来た。


 だが、昨日までとは違う。


 濁流ではない。


 線だ。


 外殻の層。

 硬い部分と薄い部分。

 酸に強い膜。

 関節の曲がる角度。

 顎の力の逃げ道。

 触角が拾っていた匂いの残り。


 必要なものだけが、頭の中に並ぶ。


 吐き気はない。


 視界も歪まない。


 俺は息を吐いた。


「そうか」


 銀色が外殻を飲み込む。いや、吸収する。硬い欠片が、液体の中でほどけるように消えていく。右手の表面が一瞬だけ黒っぽくなり、すぐ銀色へ戻った。


 同時に、指先の感覚が変わる。


 硬くできる。


 そう分かる。


 俺は指を曲げ、銀色を爪のように固めた。


 薄い蟻殻の硬さ。


 まだ弱い。だが、ただの刃より粘る。


「使える」


 言い切ってから、自分で少し驚いた。


 今までなら、気持ち悪いと先に思っていた。


 今は、使い道が先に浮かぶ。


 そのことが一番怖い。


 でも、止めない。


 死にたくないから。


 俺は蟻の脚を取り込んだ。


 関節構造が入ってくる。跳ねる力。壁に爪を引っ掛ける角度。滑る床で踏ん張る方法。右足首の銀色が、静かに反応した。


 次に顎。


 噛む力。切る角度。挟んで砕く動き。右手の針が、ただ刺すだけでなく、先端を割るように変形できると分かる。


 最後に触角の根元。


 匂いの痕跡。蟻道の方向。古い群れの流れ。水場の位置。危険な匂い。生きている蟻の近さ。


 頭の中に、薄い地図が浮かぶ。


 ポンプ室の外側。

 斥候蟻が通った細い道。

 水の匂いが強い方向。

 蟻があまり通らない狭い隙間。


 俺は目を開けたまま、暗闇の地図を見る。


「見える」


 声が漏れた。


 右目だけではない。右腕に取り込んだ触角の情報と、右目の振動感覚が重なる。ぼんやりしていた地下の気配が、少しだけ形になった。


 モグラがそばに来て、蟻の死骸が減っているのを見ていた。


「キュ?」


「食ってるわけじゃない」


 俺は言ってから、少し考えた。


「いや、食ってるのか」


「キュ〜」


「そんな目で見るな」


 モグラは黒い目で俺を見上げる。


 引いているのかと思ったが、逃げない。


 むしろ、床を掻いて蟻の外殻片を俺の方へ寄せてきた。


 カリ。


「……手伝ってるのか」


「キュッ」


「だから返事みたいに鳴くな」


 俺は小さく笑い、外殻の残りも取り込んだ。


 古い死骸は、数分でほとんど消えた。残ったのは使えない砂のような粉と、腐って脆くなった部分だけ。それらは布で包み、部屋の端へ寄せる。


 臭いが減った。


 部屋が少しだけ軽くなった気がした。


 次は金属。


 俺は壊れた制御盤へ向かった。中には死んだ配線、錆びた端子、細い銅線、折れたボルトがある。昨日までは工具で切り出すものだった。


 今は素材に見える。


 それが怖い。


 でも、必要だ。


「鉄。銅線。ワイヤー。ボルト」


 俺は右手を制御盤に触れさせた。


「使える分だけ取り込む。腐った錆は捨てる」


 銀色が薄く広がり、金属片を包む。


 カチ。


 カチ。


 小さな音を立てて、ボルトが液体の中に沈む。銅線がほどける。ワイヤーの癖が、右手の中へ入ってくる。


 今度も痛みはない。


 代わりに、感覚が増える。


 細く伸ばせる。

 絡められる。

 硬く結べる。

 電気はもう流れていないが、線として使える。

 鳴子に向く。

 罠に向く。

 扉の補強に向く。


 俺は右手を引き、指先から銀色の細い糸を出した。


 髪の毛より太い。針金より柔らかい。だが、意識すると硬くなる。


「糸か」


 銀色の糸を、入口の鳴子へ伸ばす。


 ワイヤーの代わりに使えるかもしれない。


 いや、今はまだ固定しない。勝手に変化したら困る。まずは短い罠から試す。


 俺は部屋の床に、三十センチほどの銀色の糸を張った。片側を錆びたボルトへ絡め、もう片側を鉄片に固定する。意識を外すと、糸は形を保ったまま静かに残った。


「残るのか」


 なら、使える。


 ただし、どれくらい保つか分からない。俺の意識から離れても維持できる距離、時間、強度。全部試す必要がある。


 でも、進んでいる。


 昨日までは、扉を開けるだけで精一杯だった。


 今は、材料が増えるたびに、選択肢が増えていく。


 モグラがその糸を鼻でつつこうとした。


「触るな」


「キュッ」


 モグラはびくっと下がる。


「危ない。切れるかもしれない」


「キュ〜……」


「しょんぼりするな」


 俺はため息を吐き、糸を解除した。銀色が右手へ戻る。戻す感覚も自然だった。


 なぜ今までできなかったのか。


 答えは、もう分かっている。


 怖がっていたからだ。


 拒絶して、押し返して、でも死にたくなくて、使わざるを得なくて、そのズレが身体を壊していた。


 受け入れた今、銀色は俺の意図を邪魔しない。


 ただし、それは安全になったという意味じゃない。


 俺は銀色を使える。

 銀色も俺を使える。

 俺が判断を間違えれば、取り返しがつかない。


 痛みがなくなった分、止める理由は減った。


 それが怖い。


 俺は自分の右手を見る。人間の皮膚に戻っている。ただ、爪の根元に銀色の細い線が残っていた。以前より自然に見える。まるで最初からそうだったみたいに。


「……慣れるなよ」


 小さく言った。


 でも、慣れなければ死ぬ。


 矛盾ばかりだ。


 水受けを見る。


 透明カバーには、指二本分ほどの水しか溜まっていない。これでは足りない。モグラが案内しようとしている点検坑の奥に、水場があるかもしれない。触角の情報にも、水の匂いがあった。


 行くしかない。


 俺は工具を最小限だけ腰に下げた。ライト。布。小瓶。折れた金属片。臭玉はまだ一つ残っている。最後の保険だ。


 右手には、蟻の外殻と金属の性質が入っている。


 昨日より死ににくい。


 それは確かだ。


「行くぞ」


「キュイッ」


 モグラが点検扉へ走る。


 俺はその後を追う。


 扉の隙間から冷たい風が流れてきた。人間一人が横になれば通れるほどの狭い点検坑。暗く、低く、錆びた配管が走っている。


 俺は一度だけ振り返った。


 入口の鉄扉。水受け。毛布。工具箱。吸収して減った蟻の死骸。床に置いた鳴子。


 まだ拠点と呼ぶにはひどい。


 だが、昨日よりは違う。


 ここには、俺が使えるものがある。


 そして、俺自身も変わった。


「お前を拒まない」


 俺は右腕にもう一度言った。


「だから、生き延びるぞ」


 銀色の筋が、皮膚の下で静かに脈打つ。


 返事はない。


 でも、今はそれで十分だった。


 モグラが点検坑の奥で振り返る。


「キュッ」


「はいはい。今行く」


 俺は腹ばいになって、暗い穴へ入った。


 右目が、床の振動を拾う。右腕が、壁の金属を感じる。取り込んだ触角の記憶が、水の匂いを示す。モグラの爪音が、狭い通路の奥へ続いていく。


 昨日まで、闇はただ怖いだけだった。


 今は違う。


 闇の中に、道がある。


 俺はその道を、初めて自分から進んだ。


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