第23話 モルの穴
点検坑は、人間が通るには狭すぎた。
肩を斜めにし、片肘を床につき、腹で滑るように進む。天井の配管が背中を擦り、古い埃が首元に落ちた。普通なら引き返す。こんな場所に入る意味はない。蟻から逃げるなら、広い通路の方が走りやすい。
だが、蟻も広い通路を通る。
ここは違う。
働き蟻の胴体では入れない。斥候蟻でも厳しい。人間一人がようやく這って通れる幅。つまり、俺にとっては逃げ道で、蟻にとっては詰まりやすい穴だ。
それだけで価値がある。
先を行くモグラは、まったく苦労していなかった。灰色の身体が、配管の隙間をするりと抜けていく。時々振り返り、黒い目で俺を見る。
「キュッ」
「はいはい、遅いですよってか」
「キュ〜」
「その声、ちょっと腹立つな」
言い返しながらも、少しだけ口元が緩む。
昨日までこいつは無言の変な地下生物だった。今は、鳴く。しかも返事みたいなタイミングで鳴く。人間の言葉を理解しているとは思わない。たぶん、俺の声の強さとか、足音とか、呼吸を読んでいるのだろう。
それでも、一人よりはましだった。
誰かに聞かれている。
それだけで、地下の暗さが少し変わる。
ただ、困ったことが一つある。
「おい、モグラ」
呼ぶと、そいつは振り返った。
「キュ?」
「……いや、モグラって呼ぶのも変だな」
モグラは首を傾げる。
正確にはモグラなのかも分からない。普通のモグラより大きいし、爪は鉱石みたいに光っているし、地下の道を知りすぎている。だが、毎回「おい、変な地下生物」と呼ぶのも長い。
「名前、いるか」
「キュッ」
「いるみたいに鳴くな」
俺は少し考えた。
こういう時に、まともな名前をつけられる人間ではない。そもそも今は命名式をしている場合じゃない。水は足りないし、入口は弱いし、蟻は来るし、俺の右腕は銀色だ。
だが、呼び名がないと不便だ。
「モグラだから……モル」
口に出した瞬間、自分でも雑だと思った。
モグラはじっと俺を見る。
「嫌なら今のうちに鳴け」
「キュキュッ」
「……気に入ったのか?」
「キュッ」
「本当に返事みたいに鳴くな」
モル。そう呼ばれたモグラは、少しだけ胸を張ったように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、その様子が妙に得意げで、俺はため息を吐いた。
「じゃあ、今日からお前はモルだ。勝手に死ぬなよ」
「キュ〜」
「そこで柔らかい声を出すな」
かわいい。
そう思いかけて、すぐに目を逸らした。
違う。名前をつけたからって、情が移ったわけじゃない。こいつがいると道が分かる。危険を察知する。水場も見つける。つまり、戦力だ。地下で生きるための、重要な同行者。
ただ、それだけだ。
たぶん。
モルは俺の言い訳など知らない顔で、点検坑の奥へ向かって走り出した。
「キュイッ」
「はいはい。行くよ、モル」
名前を呼ぶと、モルの尻尾が小さく揺れた。
俺は右手を壁につけ、ゆっくり後を追う。
銀色の液体金属は、皮膚の下で静かに動いている。昨日までのように、押さえつける必要はない。拒むのをやめたからか、動きは滑らかだ。
右目が床の振動を拾う。
モルの爪音。
遠い水滴。
配管の中を流れる細い水。
どこかで軋む鉄。
さらに奥へ続く空洞。
そこへ、取り込んだ蟻の触角の記憶が重なった。
匂いの筋。湿った場所。蟻が嫌う狭さ。古い通路。金属の濃い場所。
見える。
いや、見えているわけではない。暗闇は暗闇のままだ。ライトを点けなければ、目の前の配管も輪郭しか分からない。それなのに、床の下や壁の向こうにあるものの気配が、薄い線になって頭に浮かぶ。
これが、受け入れた後の感覚か。
痛みはない。吐き気もない。冷えもない。
代わりに、情報が整理されて届く。
怖いくらい、自然に。
「……慣れるなよ」
「キュ?」
「こっちの話」
モルは首を傾げ、それからまた先へ進んだ。
点検坑は途中で二股に分かれていた。
右から水音。左から乾いた風。
昨日の俺なら、水音のする方へ真っ先に行った。喉が渇いている。水袋は少ない。飲み水がなければ、拠点も何もない。
しかし、モルは左を向いた。
「キュイッ」
「水じゃない方か?」
「キュッ」
モルが左の壁を掻く。
カリ、カリ。
そこに何かある、という合図に見えた。
俺は右目の感覚を広げる。左の通路は細く上っている。乾いているが、完全な行き止まりではない。奥に小さな空洞。さらに、その先に硬い層。
金属ではない。
石だ。
だが、普通のコンクリートとも違う。
「……何かあるな」
俺は左へ進んだ。
通路はさらに狭くなった。肘と膝で進むしかない。右足首が配管にぶつかり、銀色の線が薄く光る。痛みはない。むしろ、足首の動きが少し補助される。自分の身体の角度が分かる。どこまで曲げれば引っかからないか、先に感覚が教えてくれる。
俺は右手の指先を細い鉤爪に変え、床を軽く引っかいた。銀色の爪はコンクリートの凹みに食い込み、身体を前へ進める支えになる。
モルが振り返った。
「キュキュッ」
「お前の真似だよ。笑うな」
笑っているのかは分からない。
だが、得意げに見えるのが腹立つ。
やがて、通路は小さな空洞へ出た。
人間が一人、膝を抱えて座れるくらいの空間。天井は低い。壁は剥がれ、古いコンクリートの奥に黒灰色の石の層が露出していた。ところどころ、銀色の粒が混じっている。ライトを短く点けると、鈍い反射が走った。
カチ。
光は一瞬だけ。
すぐ消す。
だが、十分だった。
「鉱石……か?」
モルが壁に近づき、前脚で掻いた。
カリ。
黒灰色の欠片が落ちる。
重い音。
カツン。
俺は欠片を拾った。小さい。親指の爪くらいの大きさ。それなのに、妙に重い。表面はざらついている。銀色の粒は、鉄粉のようにも見えるし、別の金属にも見える。
右腕の銀色が、静かに反応した。
蟻を取り込んだ時のような構造情報ではない。
もっと単純だ。
硬さ。
重さ。
芯。
耐える性質。
俺は息を吐いた。
「やっぱり、金属だけじゃない」
銀色の液体金属は、蟻を喰う。金属を取り込む。そして鉱石にも反応する。
なら、強化できる。
今の俺の右腕は、蟻の外殻と金属片を取り込んだばかりだ。針、糸、爪、薄い膜。それだけでも昨日とは違う。ここで鉱石を取り込めば、もっと硬くなるかもしれない。
危険はある。
何を取り込むかで、性質が変わる。
知らない石を無制限に入れるのは馬鹿だ。
でも、少量なら試せる。
そして、試さなければ前に進まない。
「少しだけだ」
俺は欠片を手のひらに乗せ、右手の銀色を薄く広げた。
「表面から読む。硬さだけ拾う。重さに引っ張られるな。形は変えない」
命令ではなく、意図。
そう思った瞬間、銀色が鉱石を包んだ。
昨日までなら、こういう時に痛みが来た。腕が冷え、頭が揺れ、吐き気が上がった。身構えた身体が、反射的にそれを待つ。
何も来ない。
代わりに、重さの情報だけが指先へ入る。
硬い。
脆くはない。
伸びない。
薄く削れば、刃よりも爪に向く。
面で受ければ、盾に向く。
糸には合わない。
針の先端に混ぜれば、折れにくい。
分かる。
俺は銀色を指先に集めた。人差し指と中指の爪先が、わずかに黒灰色を帯びる。鋭い爪。蟻の外殻だけを取り込んだ時より、硬い。
壁の剥き出しになった金属片へ軽く当てる。
カリ。
削れた。
深くはない。だが、刃こぼれもしない。
「いける」
俺は鉱石の欠片を完全に吸収した。
手のひらから消える。
代償はない。
ただ、右手の爪先に少しだけ重さが残った。感覚としての重さ。使い方を間違えると、動きが鈍るかもしれない。だが、意識を向ければ戻せる。
俺は爪を引っ込め、人間の指に戻した。
「戻るのも問題なし」
「キュキュッ」
モルが鳴いた。
完全に得意げだ。
「お前が見つけたって顔するな。いや、見つけたのはお前だけど」
「キュ〜」
「はいはい、すごいすごい」
そう言うと、モルは本当に満足したみたいに壁際へ座った。
単純だ。
少し、かわいい。
いや、だから違う。
俺は壁の鉱石層を確認した。大きく削るには音が出るし、時間もかかる。今は持ち帰れるだけでいい。モルが削った欠片をいくつか布に包む。残りは後だ。
この場所は重要だ。
水場だけではない。
鉱石場。
俺の銀色を強化できる素材がある場所。
拠点の価値が、一段上がった。
同時に、ここを守る理由も増えた。
俺は空洞を出る前に、床へ小さな印をつけた。銀色の爪で、コンクリートに短い線を二本。
目印。
あとで迷わないように。
「次は水だ」
「キュッ」
モルが先に戻る。
二股まで戻り、今度は右へ進む。水音が強くなる。配管の継ぎ目から、水が細く漏れている場所があった。壁を伝って床の浅い窪みに溜まっている。昨日の水受けより量が多い。
「見つけた」
喉が勝手に鳴った。
すぐ飲むな。
俺は水の匂いを確認する。蟻酸の臭いはない。腐敗臭も薄い。金属臭はある。配管由来だろう。右目と触角の記憶を重ねても、近くに大型の蟻道はない。少なくとも今は。
使える。
問題は運搬だ。
小瓶だけでは少ない。ここからポンプ室へ水を通せればいいが、配管を直すには材料が足りない。なら、簡易の水受けを作る。
俺は持ってきた薄い金属片を取り出し、銀色の指先で端を曲げた。今までは切ることばかり考えていたが、金属を取り込んだ後は曲げ方も分かる。力を入れる場所、折れる前の粘り、薄板が水を受ける角度。
カチ。
折れない。
曲がる。
小さな樋の形にした金属片を、配管の下へ差し込む。布を二重に重ねて濾過に使う。小瓶を下に置く。
ぽたり。
ぽたり。
水が入る。
「よし」
たったそれだけで、部屋の未来が少し伸びた気がした。
モルが水に鼻を近づけ、ぺろりと舐める。
「キュ〜」
「飲めるってことでいいな」
俺も少し口に含む。金属臭。泥の味。だが、吐き出すほどではない。少量だけ飲み込む。
胃は拒まない。
水源確保。
これで、今日すぐに死ぬ可能性は少し減った。
その時、遠くで鳴子が鳴った。
カシャン。
ポンプ室の入口側。
俺は顔を上げた。
点検坑の中にいるせいで、直接は見えない。だが右目が振動を拾う。鉄扉の外。軽い脚音。細い。速い。
斥候蟻。
一匹。
俺の部屋の前に来ている。
「来たか」
「キュイッ」
モルが毛を逆立てる。
「戻る」
俺は小瓶を持ち、来た道を急いだ。狭い通路で焦ると音が出る。だが、今は入口を破られる前に戻る必要がある。右手の銀色を鉤爪にして床を掴む。右足首の銀色が踏ん張りを補助する。
痛みはない。
ただ進める。
ポンプ室へ戻ると、入口の鳴子がもう一度鳴った。
カシャン。
鉄扉の隙間の向こうに、細い触角が見えた。斥候蟻が匂いを探っている。昨日取り込んだ古い死骸の臭いは減らしたが、完全には消えていない。俺の匂いもある。水の匂いもある。
ここを見つけたか。
なら、帰すな。
俺は小瓶を床に置き、入口近くの影へ移動した。
斥候蟻は扉の下の隙間に顎をかけた。薄い外殻。速い脚。仲間を呼ぶ前に倒す必要がある。
昨日までなら、怖がっていた。
今も怖い。
だが、身体が先に怯えることはなかった。
俺は右手を上げる。
意図する。
針。
蟻殻の硬さ。
鉱石の芯。
先端だけ黒灰色に硬化。
長さ十五センチ。
狙いは触角の根元ではなく、顎の付け根。
動きを止め、取り込む。
銀色の針が出る。
先端が黒灰色に鈍く光る。
斥候蟻が扉の隙間から頭をねじ込んだ。
俺は腕を突き出した。
ギチ。
針が顎の根元へ入る。
斥候蟻が跳ねた。脚が鉄扉を叩く。
ガン。
鳴子が激しく揺れる。
カシャン、カシャン。
俺は針を抜かない。
「取り込む」
銀色が針の先から広がった。
斥候蟻の情報が入る。
通路。
匂い。
この部屋の位置。
まだ仲間へ知らせていない。
外に二本の蟻道。
水の匂い。
死骸の匂い。
人間の匂い。
銀色への警戒。
銀色への警戒?
俺は眉を寄せた。
斥候蟻は、俺をただの人間として嗅いでいなかった。蟻の外殻と金属と、何か異質な匂い。警戒対象。調査対象。
強くなるほど、隠れにくくなる。
そういうことか。
「それでも、帰せない」
俺は斥候蟻の頭部から触角の根元、顎、前脚の関節を取り込んだ。必要な情報と素材を選ぶ。胴体の腐食しやすい部分はいらない。臭いを出す内臓もいらない。
数秒で、斥候蟻の動きが止まった。
残った外殻を、俺は入口の外へ押し出さない。むしろ中へ引き込む。材料になる。臭いを処理すれば、補強にも罠にも使える。
モルが少し離れた場所から見ていた。
「キュ……」
「引くな」
「キュ〜」
「いや、引いていい。俺もちょっと引いてる」
だが、やる。
俺は斥候蟻の外殻を分解し、吸収できるものは吸収し、使える大きな破片は残した。入口の補強に向く。薄い脚は鳴子にできる。触角の一部は匂いの警戒に使えるかもしれない。
死骸を片付ける時間が、以前とは違う。
怖がって距離を取るのではなく、用途に分ける。
その変化を自分で理解して、少しだけ息が詰まった。
俺は蟻の脚を一本拾い、入口の隙間へ当てた。
硬い。軽い。曲線が扉の隙間に合う。蟻の外殻は、補強材として悪くない。
「扉、強くできるな」
俺は銀色の糸を出し、外殻片と鉄板を結んだ。銅線の性質を混ぜた細い糸。意識を向ければ締まる。離しても、しばらく形を保つ。
鉄扉の内側に、蟻殻と鉄板の重ね補強を作る。
作業は早かった。
早いだけではない。
何をどこに使えばいいかが分かる。
蟻から奪った構造。金属から得た曲げ方。鉱石から得た硬さ。全部が、拠点の形に変わっていく。
俺は扉から一歩下がった。
さっきまでの脆い入口とは違う。
まだ完璧じゃない。働き蟻が本気で突っ込めば壊れるかもしれない。だが、斥候蟻一匹では簡単に入れない。時間を稼げる。
時間。
それが生存だ。
「よし」
声が出た。
モルが足元に来る。
「キュキュッ」
「褒めてんのか?」
「キュッ」
「なら、ありがとよ」
俺は笑いかけて、すぐ表情を戻した。
浮かれるな。
斥候蟻が来たということは、この場所はもう完全には隠れていない。取り込んだ情報では、仲間へ知らせる前に倒せた。だが、蟻道は近い。別の斥候が来る可能性もある。
水場。鉱石。入口補強。斥候蟻の素材。
今日は大きく進んだ。
だが、次の問題も見えた。
この部屋を、ただの避難場所ではなく、防衛できる拠点に変えなければならない。
俺は床にしゃがみ、チョークの欠片で壁に書いた。
水場 右通路
鉱石 左通路
斥候蟻 帰すな
蟻殻 扉補強
金属 糸と罠
字は汚い。
でも、俺だけが読むなら十分だ。
モルが壁の字を見上げる。
「キュ?」
「分からないだろ」
「キュ〜」
「分かったふりするな」
俺は立ち上がり、入口の補強をもう一度確認した。
その時、取り込んだ斥候蟻の触角の記憶が、薄く反応した。
遠い。
かなり遠い。
だが、蟻が複数動いている。
旧芝浦の方角ではない。もっと南。排水路の奥。水の匂いに沿って、何匹かが移動している。今すぐここへ来るわけではない。だが、この周辺は蟻の通り道から完全に外れているわけではなかった。
俺は壁に、もう一行足した。
南側 蟻道あり
それを書いた瞬間、ようやく実感した。
俺は地下の地図を作り始めている。
旧芝浦では、人の決定に押し流されていた。戦えと言われ、怖がられ、隔離され、追い出された。
ここでは違う。
何を取り込むか。
どこを塞ぐか。
どの道を使うか。
どの敵を殺すか。
どこに水を置くか。
全部、俺が決める。
責任も、失敗も、全部俺に来る。
怖い。
でも、誰かの恐怖で外へ出されるよりはましだ。
俺は右手を握った。
銀色は静かに沈んでいる。
もう拒まない。
使う。喰う。取り込む。作る。
生きるために。
「この部屋を、巣にする」
言ってから、少し顔をしかめた。
巣。
蟻みたいな言い方だ。
だが、間違っていない。
生き物は巣を作る。隠れ、食べ、眠り、逃げ、守る場所を作る。人間の家も、地下の拠点も、蟻の巣も、結局は同じだ。
死なないための形。
モルが短く鳴いた。
「キュッ」
「お前も住む気か」
「キュ〜」
「……まあ、いいけど」
俺はため息を吐き、床に転がった蟻殻片を拾った。
今日中に、入口罠を一つ作る。
水をもう一瓶運ぶ。
鉱石を少し削る。
点検坑の左奥を確認する。
寝床を入口から離す。
モルの寝床も作る。
やることは多い。
だが、昨日までとは違う。
手段がある。
右手の中で、銀色が静かに応えた。
俺はその感覚を、今度は怖がらずに受け取った。




