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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
ひとりと一匹の地下拠点生活

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第24話 綻び


 旧芝浦保守区画の朝は、いつもより静かだった。


 静かすぎるほどだった。


 寝床溜まりでは、誰も大きな声を出さない。毛布を畳む音、空き缶を避ける音、子供の小さな咳、遠くで水が落ちる音。それらだけが、薄暗い空間に残っている。


 昨日までなら、誰かが不満を口にした。誰かが見張りの交代を急かした。誰かが水の配分に文句を言った。誰かが、蟻が来るのではないかと怯えた。


 今日は違う。


 不安が消えたわけではない。


 ただ、皆がそれを口に出さないようにしていた。


 大槻修一は、その沈黙を都合よく受け取っていた。寝床溜まりの端で、薄く笑いながら周囲を見回す。汚れた背広の襟を指で直し、まるで会議の場にいるかのように咳払いをした。


「皆さん、落ち着いてきましたねェェ〜」


 その声が、古い配管の間を伸びていく。


「やはり、混乱の原因を一度外へ移したことで、全体の空気が整ったのでしょうねェェ〜。こういう時こそ、冷静な判断が大切ですからァァ〜」


 誰も返事をしない。


 肯定でも、否定でもない。


 ただ、疲れていた。


 大槻はその沈黙を、また勝手に肯定として扱った。


 久我涼平は見張り扉の前にいた。鉄扉の下部、閂、鳴子の紐、床に置かれた鉄板を順番に見ている。問題があるようにも見えるし、ないようにも見える。


 扉は閉まっている。


 閂もかかっている。


 鳴子も吊るされている。


 だから、一見すればいつも通りだった。


 だが、久我はどこか落ち着かなかった。


 昨日、扉を閉めた時の重い音がまだ耳に残っている。ゴトン、という音。あれで一つの問題が終わったはずだった。少なくとも、そう思いたかった。


 しかし、扉の前に立つと、終わったという感覚はなかった。


 何かを外へ出したのではなく、何かを内側に残したような重さがある。


 見張り役の若い男が、槍を握り直した。


「久我さん、交代、これでいいですか」


「ああ。二人一組は崩すな。扉の下は覗き込むな。音がしたら、すぐ黒川を呼べ」


「はい」


 若い男は頷いたが、どこか表情が緩んでいた。


 蟻裂き槍を持っているからだ。


 手に武器があるだけで、人は少しだけ背筋を伸ばす。恐怖が減ったわけではない。ただ、恐怖を隠す姿勢が手に入る。


 黒川蓮司は、それを見逃さなかった。


「握りすぎや」


 壁際から声が飛ぶ。


 若い男がびくりとする。


 黒川は近づき、男の手元を指で叩いた。


「そんな持ち方したら、外した時に腕ごと持っていかれるで。力入れるんは突く瞬間だけや。ずっと力んどったら、蟻より先に自分が固まる」


「でも、弱く持ったら」


「弱く持つんやない。逃げられるように持つんや」


 若い男は分かったような、分からないような顔をした。


 黒川はそれ以上言わず、槍の先を床へ向けさせた。穂先が少し震えている。


 その震えを、誰も笑わない。


 笑える者はいなかった。


 貯水区画の方では、牧野透が配管を見上げていた。


 ジジ。


 かすかな音がする。


 蛍光灯ではない。そもそも、ここに生きた蛍光灯はもうほとんど残っていない。音は配管の奥から来ていた。水が通る音とも違う。空気が噛んでいるような、薄い金属片が震えているような、嫌な音。


 牧野は耳を近づけた。


 ジジ。


 少し長い。


 そのあと、ピチャン、と水が落ちる。


 容器の位置がずれていた。昨日の夜までは真ん中に落ちていたはずの水が、今朝は容器の縁を叩き、半分ほど床へ流れている。


「あれ……」


 牧野は容器を動かした。


 水の落ちる位置が変わっている。


 配管の継ぎ目が広がったのか。床がわずかに傾いたのか。上のどこかで水圧が変わったのか。どれもあり得る。どれが正しいかは分からない。


 工具はある。


 手も動く。


 だが、最初にどこを触るべきかが分からない。


「牧野さん?」


 芹沢真衣が水用の小さな容器を抱えて立っていた。茶色い髪を後ろで雑に結び、眠れていない顔をしている。


「水、今日は少ないんですか」


「いや、量は……たぶん、同じくらいです。ただ落ちる位置が変わっていて」


「位置?」


「容器を増やします。床に流れるのはもったいないので」


 牧野は古いプラスチックケースを引き寄せ、布を敷いた。真衣も手伝う。二人で容器を並べ、水滴を受ける。


 ピチャン。


 ピチャン。


 音だけは規則的だ。


 だが、規則的だから安心とは限らない。


 真衣は床に流れた水を見て、眉を寄せた。


「こういうの、前からありましたっけ」


「ありました」


 牧野は少し遅れて答えた。


「たぶん。ただ、すぐ直していたから、目立たなかっただけで」


「そうですか」


 真衣はそれ以上聞かなかった。


 だが、その沈黙が牧野には重かった。


 水は、人が生きるための一番単純なものだ。飲む。濾す。分ける。汚さない。それだけのはずなのに、少し位置がずれるだけで全体が不安になる。


 旧芝浦は、ぎりぎりの均衡で動いていた。


 誰か一人が大きな失敗をしたから崩れるのではない。


 水滴の位置。

 鳴子の紐。

 扉の隙間。

 見張りの握力。

 子供の質問。

 大人の沈黙。


 小さなものが、少しずつずれる。


 それが怖かった。


 寝床溜まりでは、雨宮千歳が子供たちを壁際に集めていた。井ノ原陽太は膝を抱え、見張り扉の方を見ている。


 千歳はその視線に気づいていたが、すぐには声をかけなかった。


 何を言えばいいか分からなかったからだ。


「陽太くん、お水、少し飲もうか」


 陽太は首を振る。


「いらない」


「少しだけでも」


「いい」


 千歳は容器を持ったまま、隣に座った。


 陽太は扉から目を離さない。


「外、寒い?」


 小さな声だった。


 千歳は胸の奥が詰まるのを感じた。


「……地下は、どこも寒いよ」


「一人だと、もっと寒い?」


 答えられない。


 陽太は千歳を責めているわけではなかった。ただ、思ったことを聞いているだけだ。だからこそ、嘘がつけない。


 周りの大人たちが、聞こえないふりをした。


 大槻だけが近づいてくる。


「陽太くん、大丈夫ですよォォ〜。大人たちがちゃんと考えていますからねェェ〜」


 陽太は大槻を見なかった。


「大人たちが考えたら、誰か一人で外に行くの?」


 空気が止まった。


 千歳の手が震える。


 大槻の笑みが、ほんの少しだけ固まった。


「それはですねェェ〜、皆さんの安全を――」


「僕も、危なかったら外に行くの?」


「陽太くん」


 千歳が思わず名前を呼んだ。


 陽太は俯いた。


「……ごめんなさい」


 子供に謝らせた。


 その事実が、周囲の大人たちの胸に刺さる。


 しかし、誰も言葉にできなかった。


 澪は少し離れた場所で、ノートを開いていた。


 今日の記録を書いている。


 貯水区画、配管音変化。

 水滴の落下位置変化。

 見張り扉下部、再点検必要。

 訓練参加者、槍の保持に過緊張。

 子供、不安発言。

 大人側、説明不能。


 ペン先が止まる。


 説明不能。


 それは医療記録の言葉ではなかった。だが、今の旧芝浦には、その言葉が一番近い。


 澪は顔を上げる。


 久我は扉の前。牧野は水場。黒川は槍の訓練。大槻は寝床溜まりの不安をなだめるふりをしている。芹沢は容器を運び、千歳は子供のそばにいる。


 皆、何かをしている。


 何もしていないわけではない。


 それでも、空気のどこかに穴がある。


 誰もその穴を直接見ようとしなかった。


 昼前、見張り扉の鳴子が一度だけ鳴った。


 カシャン。


 全員が止まる。


 見張り役の男が槍を構えた。もう一人も、慌てて隣に並ぶ。久我が扉へ向かう。黒川は訓練を中断し、槍を手にして近づいた。


 カシャン。


 二度目。


 音は小さい。


 黒川が眉を寄せる。


「待て」


 若い男が槍を握りしめたまま聞く。


「蟻ですか」


「分からん」


「分からない?」


「分からんもんは分からん。音が軽い」


 久我が扉の前で止まる。


 外から足音は聞こえない。


 だが、鳴子は揺れている。


 風か。紐のズレか。小さな虫か。斥候蟻の触角か。判断するには材料が少ない。


 見張り役の男が小声で言った。


「何もいないんじゃ」


「黙れ」


 久我の声が鋭くなる。


 男は口を閉じた。


 数秒。


 何も起きない。


 十秒。


 まだ何も起きない。


 緊張が少しずつ緩む。


 その瞬間、扉の下から細い触角が一瞬だけ差し込まれた。


「下がれ!」


 黒川が叫ぶ。


 見張り役の男が槍を突き出す。早すぎた。先端が床を叩き、金属音が響く。


 ガン。


 触角はすぐ引っ込む。


 次に、斥候蟻の細い脚が扉下の隙間へ入った。黒川が横から槍を差し込む。狙うのは殻ではなく、脚の付け根。


 ギチ。


 脚が折れる感触。


 蟻はすぐに後退した。


 久我が鉄板を蹴り込み、隙間を塞ぐ。牧野が水場から走ってきて、木片を噛ませる。黒川が扉に耳を近づける。


 外の気配は、遠ざかっていった。


 倒したわけではない。


 追い払っただけだ。


 誰もそれを口にしなかった。


 若い男は槍を握ったまま、息を荒げていた。手の甲が白くなるほど力が入っている。


 黒川は低い声で言った。


「今のは失敗や」


 大槻がすぐに反応する。


「しかし、被害は出ていませんよォォ〜。結果としては防げたのですからァァ〜」


「被害が出てから反省したら遅いんや」


 黒川は扉から目を離さない。


「今のが一匹で、こっちの隙間を見るだけやったから助かった。入る気やったら、槍を持った彼、脚持っていかれてたで」


 若い男の顔が青くなる。


 大槻は肩をすくめた。


「恐怖を煽るような言い方は――」


「恐怖は煽るもんちゃう。見るもんや」


 黒川の声が低くなる。


「見んかったら死ぬ」


 寝床溜まりに沈黙が広がった。


 大槻はそれ以上言わなかった。


 久我は扉下の鉄板を見ていた。差し込んだ位置が甘い。木片も噛み合わせが悪い。鳴子の紐は少し擦り切れ、前より下がっている。


 見れば分かる。


 分かるのに、襲撃があるまで直していなかった。


 誰かが直していたのではない。


 直っている状態が、当たり前になっていただけだ。


「牧野」


「はい」


「扉下の補強をやり直す。黒川、見張りの距離をもう一度教えてくれ」


「分かった」


 久我は周囲へ声を飛ばした。


「寝床側は動くな。子供を扉から離せ。水場の容器を増やせ。槍を持つ奴は、勝手に前へ出るな」


 人々が動き始める。


 動きはした。


 だが、どこか鈍い。


 誰が何を持ってくるのか。どの工具を使うのか。どの布を水場に回し、どの板を扉に回すのか。小さな判断がいちいち止まる。


 芹沢が布を持ってきたが、それは水濾し用に分けていた布だった。


 牧野が止める。


「それは水用です。扉には使えません」


「あ、ごめんなさい。じゃあ、こっちは?」


「それは……汚れが強いので寝床側に」


「どれを持ってくればいいですか」


 牧野は答えようとして詰まった。


 全部足りない。


 全部必要だ。


 水にも布がいる。扉にも布がいる。怪我人にも布がいる。鳴子の音を抑えるにも布がいる。


 資源は同じで、問題だけが増えている。


 旧芝浦は、今まで何とか回っていた。


 だが、それは余裕があったからではない。


 ぎりぎりを、ぎりぎりのまま保っていただけだ。


 澪はノートに、斥候蟻の接触を記録した。


 斥候蟻一匹、見張り扉下部より接触。

 負傷者なし。

 撃退確認なし。

 扉下部補強不足。

 鳴子位置低下。

 槍使用者、距離判断を誤る。

 物資配分判断に遅れ。


 書いていて、ペン先が止まる。


 これは、事件ではない。


 まだ、大きな被害ではない。


 だが、綻びだった。


 布の使い道を迷うこと。

 水滴の位置がずれること。

 鳴子の紐が下がること。

 槍を持った人間が、一歩早く出ること。

 子供の問いに、大人が答えられないこと。


 どれも小さい。


 小さいから、無視できる。


 無視できるから、積み上がる。


 澪は最後に、一行だけ書いた。


 旧芝浦、維持機能に低下の兆候。


 その言葉を見て、胸が冷えた。


 まるで患者の容態を書いているようだった。


 夕方、貯水区画の水は予定より少なかった。


 大きな差ではない。


 ほんの少し。


 それでも、水を配る時、真衣の手は止まった。子供の分を減らすわけにはいかない。見張りの分も必要。怪我人にも必要。訓練した者たちも喉が渇いている。


 誰かの器を少し浅くする。


 それだけの判断に、真衣は何度も迷った。


 大槻が遠くから言う。


「公平に、ですよォォ〜。こういう時こそ公平性が大切ですからねェェ〜」


 公平。


 簡単な言葉だ。


 だが、子供と見張りと怪我人と訓練者と老人に、同じ量を配ることが公平なのか。真衣には分からない。


 分からないまま、器を渡す。


 誰も文句は言わない。


 その沈黙が、また重い。


 夜が近づく。


 見張り扉の補強は一応終わった。水場には容器が増えた。槍の持ち方も再確認した。鳴子の紐も結び直した。


 形だけなら、整っている。


 だが、旧芝浦の空気は朝より重かった。


 久我は見張り扉の前に座り、鉄棒を膝に置いていた。黒川が隣に来る。


「一日目でこれや」


「分かってる」


「ほんまに?」


「分かってる」


 久我の声は硬い。


 黒川はしばらく黙り、それから小さく言った。


「壊れる時ってな、大体いきなりちゃうねん。最初は、ちょっと音が変わるだけや」


 久我は答えない。


 遠くで水が落ちる。


 ピチャン。


 鳴子が風でわずかに揺れる。


 カシャン。


 子供が寝返りを打つ。


 布が擦れる。


 どれも小さな音だった。


 小さな音ばかりが、やけに大きく聞こえた。


 旧芝浦はまだ崩れていない。


 誰も死んでいない。

 水もある。

 扉も閉まっている。

 槍もある。

 人も残っている。


 それでも、見えない場所で何かが緩み始めていた。


 配管の継ぎ目のように。

 鳴子の紐のように。

 言えなかった言葉のように。


 カシャン。


 夜の入口で、鳴子がもう一度だけ鳴った。


 今度は誰も、風だとは言わなかった。


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