第25話 喰わせる目的
入口の鳴子が鳴った。
カシャン。
俺は壁に書いた地図から顔を上げる。
排水ポンプ室B-2の空気が、ほんの少しだけ硬くなった。水滴の音、配管の軋み、モルの爪が床を掻く音。その全部の中に、外から来た別の振動が混じっている。
軽い。
速い。
斥候蟻。
一匹ではない。
「二匹か」
「キュイッ」
モルが短く鳴き、入口の方へ身体を向けた。毛は逆立っていない。危険ではあるが、即死の距離ではない。そういう反応に見える。
俺は工具箱の蓋を閉め、ゆっくり立ち上がった。
逃げる必要はない。
迎える。
昨日までの俺なら、まず扉から離れた。隠れる場所を探し、臭玉を握り、銀色の右腕を使うかどうか迷った。使えば自分が変わる。使わなければ死ぬ。その二択で息が詰まっていた。
今は違う。
使う。
取り込む。
目的を決める。
俺は壁のメモを見る。
南側 蟻道あり。
先に罠。
斥候蟻 帰すな。
蟻殻 扉補強。
金属 糸と罠。
「ちょうどいい」
小さく言った。
声に出すと、少しだけ腹が据わる。
扉の前には、昨日作った簡易補強がある。鉄板、蟻殻、古い配管カバー。それを銀色の糸で内側から結び、隙間を小さくしてある。働き蟻が本気で突っ込めば壊れるかもしれない。だが斥候蟻なら、頭をねじ込むまでに一瞬止まる。
その一瞬を使う。
俺は床に並べておいた蟻の脚殻を拾った。細く、軽く、節がある。これを短く切り、内側に銀糸を通す。罠というには粗末だが、脚に絡めば十分だ。
右手を上げる。
意図する。
薄い刃。
切るのは蟻殻の節だけ。
糸は細く。
銅線の粘りを混ぜる。
鉱石の硬さは先端だけ。
銀色の液体金属が、指先で静かに形を変えた。
もう痛くない。
吐き気もない。
ただ、手を開くように、形ができる。
銀色の刃が蟻殻を切る。
カリ。
短い節が三つできる。そこへ銀糸を通し、床のボルトへ結ぶ。もう片方は扉横の鉄片へ。見た目はただのゴミだ。だが、扉の隙間から蟻が脚を入れれば、節が引っかかり、銀糸が締まる。
止めるための罠。
殺すためではない。
止めて、取り込むための罠。
カシャン。
鳴子が二度目を鳴らした。
近い。
鉄扉の向こうで触角が擦れる音がした。カサ、カサ。匂いを探っている。斥候蟻は賢い。いきなり飛び込まない。まず隙間を調べる。空気の流れ、水の匂い、死骸の痕跡、人間の臭い。
そして、銀色の匂い。
昨日取り込んだ斥候蟻の記憶が、右目の奥で反応した。
警戒。
調査。
仲間へ戻る道。
水場。
硬い異物。
喰えない人間。
「喰えない人間、か」
嫌な分類だ。
でも、嫌がっている暇はない。
俺は入口の影へ身を寄せる。モルは部屋の隅の布の上ではなく、工具箱の裏へ移動した。自分で危険な位置を避けている。賢い。賢すぎて、時々怖い。
「そこで見てろ」
「キュッ」
「飛び出すなよ」
「キュ〜」
「今の返事、信用できないな」
その瞬間、扉の下の隙間に細い脚が入った。
一本。
次に触角。
斥候蟻が頭を押し込もうとする。
床の罠に脚が触れた。
ギチ。
銀糸が締まる。
斥候蟻の脚が止まった。
すぐに暴れる。鉄扉が揺れ、鳴子が激しく鳴った。
カシャン、カシャン。
もう一匹が外側で動く。隙間の向こうに別の触角。二匹目はまだ入ってこない。一匹目の反応を見ている。
「学ぶな」
俺は右手を構えた。
針。
先端は鉱石で硬化。
根元は柔らかく。
狙いは顎の付け根。
殺す。
取り込む。
銀色の針が伸びた。
十五センチ。
扉の隙間から暴れる斥候蟻の顎へ、真っ直ぐ入れる。
ギチ。
刺さる。
斥候蟻の身体が跳ねた。脚が床を叩く。罠が一つ切れかける。俺は針を抜かず、銀色を広げた。
「まず触角。次に顎。前脚。外殻の薄い部分」
部位を指定する。
喰わせる量ではなく、喰わせる目的。
触角からは情報。
顎からは切断構造。
前脚からは踏み込みと壁面移動。
外殻からは軽い補強材。
胴体はいらない。
臭いが強い。腐りやすい。水場に悪い。
銀色は俺の意図に沿って動いた。斥候蟻の頭部を包み、必要な部分だけをほどくように取り込んでいく。
情報が入る。
今度も濁流ではない。
線になって並ぶ。
南側の蟻道。
水の匂いに沿った巡回。
この部屋の前に残る古い蟻の痕跡。
銀色への警戒。
二匹目の位置。
戻れば、群れに知らせる。
「戻さない」
俺は針を横へ割った。
顎の根元を内側から壊す。斥候蟻の動きが止まった。
すぐに二匹目が下がる。
逃げる気だ。
「モル!」
「キュイッ!」
モルが工具箱の裏から飛び出した。
いや、飛び出すなと言っただろ。
だが、モルは扉へ向かったわけではない。床を叩いた。
コン。
右目が振動を拾う。
二匹目の足の位置。扉の外側、左寄り。逃げるために身体を反転させている。触角を上げ、通路の匂いを確認している。
今なら届く。
俺は右手の針をいったん戻し、糸に変えた。
細い銀糸。
銅線の粘り。
蟻脚の節構造。
先端に小さな鉤。
扉の隙間から外へ滑らせる。
二匹目の前脚へ絡む。
引く。
ギチ。
抵抗。
斥候蟻が外で暴れる。鉄扉に脚が当たる。
ガン。
入口の補強が軋む。
モルが毛を逆立てた。
「キュイイッ!」
「分かってる!」
長引かせるな。
俺は銀糸を硬化させ、一気に引いた。二匹目の脚が扉の隙間へ引き寄せられる。頭までは入らない。なら、脚を取る。
銀糸を刃へ変えた。
バキン。
前脚の関節が折れる。
斥候蟻が跳ね、身体の向きを崩した。その隙に針を伸ばす。扉下の隙間から、顎の根元へ。
ギチ。
刺さる。
二匹目の動きも止まった。
俺は息を吐いた。
勝った。
いや、違う。
処理が終わるまで勝ちじゃない。
二匹の斥候蟻を中途半端に外へ残せば、匂いが広がる。別の蟻が来る。だから、できるだけ素材として回収する。不要な部分は遠ざける。入口周りを掃除する。
作業に入る。
まず一匹目の頭部と前脚を完全に取り込む。外殻の大きな破片は残す。薄い脚殻は罠用。触角の根元は情報用。顎は切断構造の強化。
二匹目は脚を多めに取り込む。
こいつは逃げようとした。逃げる時の踏み込み、方向転換、壁際で身体を小さくする動き。その構造が欲しい。
銀色が蟻の脚を包む。
関節の角度。
爪の引っ掛かり。
重心移動。
狭い隙間から抜ける時の身体の使い方。
それが自分の足首と手首へ重なる。
すぐに試す。
俺は壁際に手をつき、右足を少し上げた。銀色が足首から指先へ薄く走る。蟻の爪の構造を真似た小さな突起が、靴底の縁に一瞬だけ生えた。
コンクリートの壁に足が引っかかる。
「……壁、いけるな」
完全に登れるわけではない。
だが、踏ん張れる。
濡れた床でも滑りにくくなる。点検坑での移動も速くなる。逃げ道を広げる時にも使える。
次は顎。
右手の針の先端を二股に割る。斥候蟻の顎構造を混ぜると、ただ刺すだけではなく、刺した先で挟める。ワイヤーを切る。関節を噛む。扉の錆を挟んで剥がす。
次は外殻。
薄い盾。
俺は右前腕に銀色を広げ、蟻殻の層を重ねるように硬化させた。完全な盾ではない。手首から肘までを覆う軽い板。正面から働き蟻の顎を受ければ砕けるだろう。だが、斥候蟻の脚や破片くらいなら逸らせる。
いい。
これでできることが増える。
「キュ〜……」
モルが少し離れた場所から俺を見ていた。
「また引いてるのか」
「キュ」
「まあ、俺も今の自分にはちょっと引いてる」
人間が蟻を解体して吸収し、足に爪を作り、腕に外殻の盾を生やしている。
普通に考えれば化け物だ。
旧芝浦の人間が見たら、たぶんまた同じ目をする。
でも、ここにはモルしかいない。
モルは一度だけ鼻を鳴らし、床に落ちていた蟻の脚殻を前脚で俺の方へ押した。
カリ。
「……手伝うんだな」
「キュッ」
「変なやつ」
俺は脚殻を受け取り、罠用に分けた。
部屋の入口は、さっきの戦闘で少し歪んでいる。補強を直す必要がある。だが、今は素材がある。蟻殻を重ね、鉄板を内側へずらし、銀糸で固定する。
銀糸は昨日より強くなった。
二匹分の斥候蟻の脚構造を取り込んだせいか、糸そのものに節を作れる。一定の間隔で硬い点を作り、引っかかりやすくする。罠に向く。
俺は扉の内側、床から十センチほどの高さに一本。
さらに、その奥にもう一本。
斜めに交差させて、三本目。
斥候蟻が入ろうとすれば絡む。働き蟻には細すぎるかもしれないが、足を止める一瞬は稼げる。
そして、一瞬あれば俺が刺せる。
「入口罠、一号」
「キュ?」
「名前だよ。お前の穴と同じだ」
「キュ〜」
「不満そうに鳴くな」
モルは床を掻いた。
こいつはたぶん、名前の良し悪しは分かっていない。ただ俺の言い方に反応しているだけだ。
それでいい。
完全に言葉が通じたら、それはそれで怖い。
俺は扉周りの蟻の体液を布で拭った。臭いを消しきるのは無理だ。だが、床に残すよりはまし。布はあとで乾いた場所に隔離する。水場へは絶対に近づけない。
水は命。
臭いは敵を呼ぶ。
素材は使う。
不要なものは捨てる。
俺は壁の地図の横に、新しい欄を書いた。
喰わせる目的。
その下に、部位ごとの用途を書く。
触角 地図、匂い。
脚 移動、罠。
顎 切断、拘束。
外殻 盾、扉。
体液 最小限。
胴体 基本捨てる。
書き終えて、少し考える。
俺は蟻を倒しているのではない。
蟻を資源に変えている。
そう考えた瞬間、背筋が少しだけ冷えた。
冷えは代償ではない。
ただの感情だ。
人間として、まだ残っている部分の反応。
「……そこは、残ってるんだな」
俺は小さく呟いた。
「キュ?」
「何でもない」
モルが首を傾げる。
俺は右腕を見る。
銀色は静かに沈んでいる。暴れない。俺の意図を待っている。昨日受け入れてから、使用時の痛みや吐き気は消えた。銀色は呪いではなく、道具になった。
だが、道具にした瞬間から、俺はこれなしでは生きられなくなっている。
それも分かる。
もう、普通の工具だけで戦う気には戻れない。斥候蟻二匹を前にしても、俺は臭玉を使わなかった。逃げなかった。銀色で殺し、取り込んだ。
その方が合理的だから。
合理的。
嫌な言葉だ。
大槻が好きそうな言葉でもある。
俺は顔をしかめ、壁のメモから目を離した。
入口の外は静かだ。
二匹とも戻していない。情報は群れに渡っていないはずだ。だが、二匹が戻らなければ、それはそれで不自然かもしれない。斥候が消えた場所として、いずれ調べに来る可能性がある。
時間は増えたが、無限ではない。
俺は地図の南側に印を加えた。
斥候二匹撃破。
次、増える可能性。
これで、ただの拠点ではなくなった。
敵を殺した場所だ。
なら、防衛線を作る。
部屋の中だけでは駄目だ。入口の外、点検坑、水場への途中。いくつかの場所で足止めする必要がある。
俺は蟻糸罠に使えそうな外殻をまとめ、金属片を分け、工具箱の中身を整理した。
モルは布の寝床に一度入り、すぐ出てきた。
「キュッ」
「何だよ」
モルは点検扉の方を見る。
水場か。
いや、違う。
床を叩く。
コン。
右目が振動を拾う。
下。
モル穴一号。
そこから、かすかに空気が流れている。昨日より少し強い。斥候蟻との戦闘で入口側の空気が動き、下の空洞との圧が変わったのかもしれない。
つまり、下の穴はただの空洞ではない。
どこかへ抜けている。
広げれば、俺の二本目の逃げ道になる。
俺はすぐに壁へ書き足した。
モル穴一号 優先度上げる。
「次はそこか」
「キュキュッ」
「嬉しそうだな」
モルが尻尾を小さく揺らす。
俺は工具箱から鉱石の欠片を取り出した。昨日モルが見つけたもの。硬化に使える。爪に混ぜれば、コンクリートを少しずつ削れる。
蟻の脚で移動を強化した。
顎で切断を強化した。
外殻で防御を得た。
金属で糸を得た。
鉱石で爪を硬くできる。
なら、穴を広げられる。
拠点を広げられる。
俺は鉱石を右手に包ませた。
銀色が静かに取り込む。
爪先が黒灰色に硬化する。
痛みはない。
代償もない。
あるのは、選択だけだ。
俺はモル穴一号へ向かう準備を始めた。
入口罠を作った。
斥候蟻を素材にした。
次は逃げ道を広げる。
生きるための手順が、ひとつずつ壁に増えていく。
俺は地図の前で、最後にもう一行だけ書いた。
喰うなら、目的を決めろ。
それを見てから、右手を握る。
銀色は、俺の中で静かに応えた。




