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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第6話 蟻を喰う右腕


 腹が減ったみたいな感じがする。


 口にした直後、俺は自分の言葉を後悔した。寝床溜まりの空気が、一段冷えたのが分かったからだ。誰かが息を呑む音がした。誰かが一歩、後ろへ下がる音もした。カサ、と毛布が擦れる。ギシ、と古い床板が鳴る。今までなら聞き流していた小さな音が、右目の奥に妙にはっきり引っかかった。


 俺は蟻の死骸を見ている。鉄扉の下に挟まった二匹の働き蟻。黒い外殻。裂けた顎。床へ落ち続ける体液。ビチャ、ビチャ、と湿った音を立てている。酸っぱい臭いと土の臭いと、何か生臭いものが混ざった臭いが、喉の奥に張りついていた。気持ち悪い。なのに、右腕が疼く。


 布で固定された右腕の内側で、皮膚の下を何かが這った。ぞわり、と骨の表面を撫でられたような感覚が肘から指先へ走る。右手の爪の隙間に残っていた銀色の筋が、赤い非常灯の下でぬらりと光った。


「灰原さん」


 朝倉澪の声が近い。俺は反射的に右腕を押さえた。左手で右手首を掴む。止めろ。動くな。俺の腕だろ。勝手に反応するな。そう念じるほど、右腕の奥の疼きは強くなった。


「今の、どういう意味ですか」


「聞くな」


「聞きます」


「俺にも分からない」


 声が掠れた。右腕の奥が熱い。いや、冷たい。熱いのに冷たい。説明できない感覚が、皮膚の下で膨らんでいく。胃の中が空っぽになったような感覚とは違う。腹じゃない。喉でもない。右腕が空腹を訴えている。そんな馬鹿なことがあるか。腕が腹を減らすわけがない。でも、そうとしか言えなかった。


「右腕を見せてください」


「嫌だ」


「固定を緩めます」


「やめろ」


「強く縛ったままだと、状態が分かりません」


「分かったら止められるのかよ」


 澪は一瞬だけ黙った。その沈黙で、答えは分かった。止められない。分かったところで、どうにもならない。けれど分からなければ、もっとどうにもならない。澪はきっと、そういう顔をしていた。


 俺は目を伏せた。


「……少しだけだ」


「はい」


 澪の指が布に触れる。周囲の人間が、さらに距離を取ったのが分かった。見なくても分かる。足音。息。体の向き。右目の奥に、寝床溜まりの人間達の位置が薄く浮かぶ。人間の輪郭が見えるわけじゃない。けれど、床の振動と音で、そこに誰が立っているのかが分かる気がする。気持ち悪い。こんなもの、いらない。


 布が緩む。その瞬間、右手が跳ねた。


「っ!」


 俺は左手で押さえ込もうとした。だが、右手の指が床へ向かって伸びる。自分の意思で動かしていない。指先が硬くなり、爪の間から銀色の液体が滲んだ。澪が息を呑む。


「朝倉、下がれ!」


 久我涼平の声が飛んだ。澪は下がらなかった。馬鹿か。今の俺に近づくな。俺は歯を食いしばって右腕を押さえた。左手の爪が皮膚に食い込む。痛みがある。まだ俺の腕だ。まだ肉がある。まだ血が通っている。そう思いたかった。けれど、右手の皮膚の下で銀色が蠢く。


 ズルリ、と指先から細い銀色の筋が伸びた。それは糸とも液体ともつかないものだった。床に落ちる寸前で止まり、蟻の死骸の方へゆっくり向きを変える。鼻先を動かす獣みたいに、空気の中で震えた。


「なん、だよ……これ……」


 俺の声が震えた。銀色の筋は、蟻の体液が落ちている床へ向かう。ビチャ、と黒い体液の中に、銀色の先端が触れた。その瞬間、右目の奥で火花が散った。


「あ、ぐっ!」


 頭の中へ、何かが流れ込んだ。臭い。振動。硬さ。温度。節。顎。脚。触角。外殻の層。体液の流れ。関節を動かす細い組織。噛むための筋。歩くための重心。触角で拾う空気の揺れ。仲間へ残す匂い。危険を知らせる痕。意味が分からない。なのに分かる。


 蟻の顎の根元は、正面から見れば硬い。だが横から入れば、薄い膜がある。脚の第二関節は踏み込む時にわずかに開く。外殻の縁には水分が少ない。触角の付け根は繊細で、そこを傷つければ反応が鈍る。いらない。そんなこと知りたくない。


「やめろ……!」


 俺は右腕を引いた。引けない。銀色の筋が床に張りついている。蟻の体液から何かを吸い上げるように、細く脈打っていた。右手の甲に銀色の線が浮かび、手首から肘へ、皮膚の下を這い上がる。


「灰原さん、意識をこちらに」


 澪の声がした。


「右腕を見ないでください。私の声を聞いてください」


「見ないで済むかよ……!」


「息をしてください」


「してる!」


「吸って、吐いてください。今、止まっています」


 言われて、自分が息を止めていたことに気づいた。ひゅ、と喉が鳴る。空気が入る。胸が痛い。右目の奥の熱が少しだけ薄くなる。久我が鉄パイプを構えているのが見えた。いや、見たというより分かった。右側の視界の端に、彼の立ち位置が銀色の輪郭みたいに浮かんでいる。牧野透は扉の近くで工具を握ったまま固まっている。芹沢真衣は子供達の前に立っているが、顔が真っ青だった。雨宮千歳は陽太を抱き締めている。


 陽太の小さな呼吸が聞こえる。泣くのを我慢している呼吸。やめろ。そんな音まで拾うな。


「灰原さん、右腕は動かせますか」


「動いてるだろ……勝手に」


「自分の意思で止められますか」


「止めてる!」


「では、銀色の筋を引き戻してください」


「命令すんな、簡単に……!」


 簡単じゃない。指先から伸びたものは俺の一部みたいで、俺の一部じゃない。力を込めても戻らない。逆に、力を込めるほど蟻の体液へ深く潜ろうとする。右目の中で、また情報が弾けた。


 働き蟻。巣材運搬。顎の圧。脚の踏み込み。地下水の臭い。人間の汗。血。熱。敵。殺す位置。


「ぐ、ああ……!」


 胃がひっくり返った。俺は横を向いて吐いた。ほとんど何も出ない。胃液だけが喉を焼く。床に膝をつき、左手で体を支えた。右手はまだ蟻の体液に繋がっている。ビチャ、と床に黒い液が落ちる。ドクン、と右目の奥が鳴る。ギチ、と死んだ蟻の脚が、最後の痙攣みたいにわずかに動いた。


 寝床溜まりの奥で悲鳴が上がった。


「ひっ……!」


「動いた!」


「まだ生きてるのか!?」


「違います、痙攣です!」


 澪が叫ぶ。だが誰も落ち着かない。俺も落ち着けなかった。蟻は死んでいる。分かる。なぜ分かる。体液の流れが止まっている。脚の反応が途切れている。顎を動かす力がない。脳のような中枢が、もう命令を出していない。死んでいる。なのに、俺の右腕はその死骸から情報を吸っている。喰っている。


 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、背筋が凍った。


「違う……」


 俺は呟いた。


「違う、俺じゃない」


 誰に言っているのか分からない。周囲にか。澪にか。自分にか。右腕にか。銀色の液体にか。銀色の筋が、蟻の外殻の欠片へ伸びた。床に落ちていた黒い破片に触れる。表面を舐めるように広がり、薄く包み込む。次の瞬間、破片がカリ、と小さな音を立てて割れた。


 銀色がその断面に染み込む。俺の右手の甲に、硬い感覚が走った。外殻。薄い層。硬い層。衝撃を逃がす曲面。節の隙間。右手の皮膚が一瞬だけ黒く硬くなったように見えた。すぐに戻ったが、俺には分かった。今、何かが写された。食われた蟻の構造が、俺の腕の中に残った。


「灰原さん、手の色が」


「言うな」


「でも」


「言うな!」


 強く言いすぎた。澪の肩が小さく跳ねた。違う。怒鳴りたいわけじゃない。澪に当たりたいわけじゃない。ただ、言葉にされたら本当になる気がした。俺の腕が蟻に近づいている。そんなこと、誰かの口から聞きたくなかった。


 久我が一歩近づいた。


「灰原、そのまま離れろ」


「離れたいんだよ」


「なら離れろ」


「できないって言ってるだろ!」


 声が割れた。久我の顔が険しくなる。


「朝倉、下がれ。灰原が制御できないなら、こちらで止める」


「止めるって、どうするつもりですか」


「右腕を切り離す」


 寝床溜まりが凍った。俺も一瞬、呼吸を忘れた。右腕を切る。その言葉は、妙に現実的だった。こんな腕なら、切った方がいいのかもしれない。蟻を喰う腕。勝手に刃になる腕。周囲を怖がらせる腕。俺自身ですら怖い腕。でも、俺の腕だ。どれだけ変わっても、まだ俺の体だ。


「やめてください」


 澪の声が硬くなった。


「今それをすれば、大量出血だけでは済みません。何が起きるか分かりません」


「このまま蟻を喰わせる方が分かるのか」


「分かりません。だから切るなと言っています」


「朝倉」


「医学的にも、現実的にも、今の切断は最悪です」


「医学的に説明できる状態か、これは」


「説明できないから、乱暴な処置を避けるんです」


 澪の声は震えていた。でも、引かなかった。俺は歯を食いしばる。何やってるんだ、この人は。怖いなら下がれ。正しいなら逃げろ。俺を人間扱いし続けるな。それが苦しい。


 銀色の筋が、蟻の触角の欠片に伸びる。触れる。瞬間、右目の視界が変わった。空気が見える。いや、違う。空気の流れが分かる。人間の体温で揺れる空気。蟻の死骸から立ち上る臭い。鉄扉の隙間から入る冷たい風。奥の子供達の汗の匂い。澪の手に残る消毒液の薄い臭い。久我の服に染みついた油と鉄の臭い。


 情報が多すぎる。頭の中を針で掻き回される。


「う、あ……!」


 銀色の筋がさらに太くなる。このままだと、もっと深く繋がる。蟻を喰う。もっと喰う。右腕の中の何かが、そう望んでいる。俺は左手で右腕を掴み、床に押しつけた。銀色の筋がビンと張る。痛い。手首から指先まで、神経が引き伸ばされるような痛みが走る。


「戻れ……戻れ、戻れ、戻れ!」


 命令ではなく、ほとんど懇願だった。戻れ。俺の中に戻れ。それ以上、蟻に触るな。人の前で喰うな。俺をこれ以上、別のものにするな。銀色の筋が震えた。右目が熱くなる。


 殺せ。喰え。覚えろ。


 言葉ではない。だが、意味だけが流れ込む。覚えろ。次に殺すために。次に死なないために。蟻を知れ。蟻を喰え。蟻を殺せ。


「知りたくないんだよ……!」


 俺は叫び、右腕を力任せに引いた。ブチン、と何かが切れた音がした。銀色の筋が床から剥がれ、右手へ戻る。蟻の体液が跳ね、黒い飛沫が頬にかかった。右腕の皮膚の下で、銀色が暴れる。激痛が肘から肩へ突き抜けた。


「あああああっ!」


 床に倒れた。右腕を抱え込む。痛い。痛い。痛い。焼けた金属を骨の中に流し込まれているようだった。けれど、銀色の筋は戻った。指先から伸びていたものは消え、右手は人間の手の形をしている。ただ、爪の隙間の銀色は前より濃くなっていた。手の甲に、黒い外殻のような薄い模様が一瞬浮かび、すぐに消えた。見間違いであってほしい。


 澪が俺の前に膝をつく。


「灰原さん、意識は」


「ある」


「名前は」


「灰原玲司」


「今いる場所は」


「旧芝浦の寝床溜まり」


「右腕の感覚は」


「最悪」


「痛みは」


「最悪」


「吐き気は」


「最悪」


「それ以外の言葉は」


「……うるさい」


 澪が小さく息を吐いた。安心したように見えた。俺はそれを見て、なぜか少しだけ悔しくなった。まだ会話できる。まだ自分の名前を言える。まだ場所が分かる。それだけで安心される状態になったらしい。


 久我は鉄パイプを下ろしていなかった。大槻修一が、壁際から震えた声を出した。


「見ましたかァァ〜……皆さん、今のを見ましたよねェェ〜」


 誰も答えない。大槻はそれでも続けた。


「蟻を喰っていましたよォォ〜。いや、吸っていたと言うべきですかねェェ〜。どちらにしても、人間のすることではありませんよねェェ〜」


 俺は床に座り込んだまま、大槻を見た。右目が勝手に彼の輪郭を捉える。心臓の位置。喉の動き。脂汗。震える膝。逃げ道を探す視線。分かる。この人は怖がっている。でも、それだけじゃない。怖がりながら、嬉しそうだ。自分の言葉が正しかった証拠を見つけて、嬉しそうにしている。


「黙れよ」


 声が出た。低い声だった。大槻の口が止まる。俺は自分でも驚いた。怒りより先に、疲れがあった。もう説明するのも面倒だった。


「俺が一番分かってる」


「灰原さん?」


 澪が俺を見る。俺は右腕を見た。自分の手。さっき蟻の体液を吸った手。蟻の構造を覚えた手。


「人間のすることじゃないくらい、俺が一番分かってる」


 寝床溜まりの奥で、陽太が小さく泣いているのが聞こえた。きつい。それが一番きつい。俺は陽太の方を見られなかった。助けたかったのに。守ったはずなのに。泣かせている。


「でも、俺がやりたくてやったわけじゃない」


 言い訳にしか聞こえない。自分でもそう思った。でも、それだけは言いたかった。


「俺は蟻なんか食いたくない。こんな腕もいらない。こんな目もいらない。死にたくなかっただけだ。陽太を見捨てられなかっただけだ」


 そこまで言って、喉が詰まった。言うべきじゃなかったかもしれない。陽太の名前を出したことで、奥の方から小さな嗚咽が漏れた。雨宮千歳が陽太を抱きしめ直す音がする。芹沢真衣が口元を押さえている。牧野は視線を床に落としていた。久我は何も言わない。澪だけが俺の前にいた。


「灰原さん」


 彼女は静かに言った。


「それも記録します」


「何を」


「灰原さんが、やりたくてやったわけではないことを」


「そんなの記録して何になる」


「後で、誰かが忘れた時に読み返せます」


 俺は笑いそうになった。笑えなかった。そんなもの、誰が読むんだ。化け物は蟻を喰いました。でも本人は嫌がっていました。それで何が変わる。何も変わらないだろ。けれど澪は本気だった。古いノートを開き、折れかけた鉛筆で書いている。蟻の体液が床に落ちる音が響く中で、彼女は俺を記録している。生きている人間として。患者として。灰原玲司として。そのことが、どうしようもなく苦しかった。


 俺は壁にもたれた。頭が重い。右目が熱い。右腕は痛みの奥で妙に静かになっている。さっきより感覚が増えていた。床の振動。鉄扉の歪み。蟻の死骸の硬さ。通路の奥の空気の流れ。知ってしまった。蟻の殺し方を、少しだけ。蟻の見つけ方を、少しだけ。蟻の体の使い方を、少しだけ。


 魅力的だと思う自分がいた。これがあれば、次はもっと上手く殺せる。これがあれば、死ぬ確率が少し下がる。これがあれば、地下で生き延びられる。その考えが、一番気持ち悪かった。


 久我が口を開く。


「灰原。今の力は、次の蟻にも使えるのか」


 実用的な質問だった。必要な質問でもあった。だが、今の俺には刃物みたいに刺さった。


「分からない」


「分からないばかりだな」


「じゃあ聞くな」


「ここには子供もいる。分からないままでは困る」


「俺だって困ってる」


 久我の顔が歪む。苛立ち。恐怖。責任。全部混ざった顔だ。俺はその顔を見て、理解してしまった。もう近い。この人は俺を置いておけないと思っている。大槻に言われたからだけじゃない。自分の責任として、旧芝浦を守るために、俺を切る方向へ傾いている。仕方ない。そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。仕方ない、で済ませたくないのに。たぶん、そうなる。


 大槻がまた口を開く。


「久我さん、これはもう、慎重に判断する段階ではないと思いますよォォ〜。今は蟻を喰っただけで済みましたが、次に何を喰うか分かりませんからねェェ〜」


 空気が揺れた。その言葉は、やはり効いた。人を喰うかもしれない。誰も言わなかった言葉を、大槻が形にした。俺は右手を握った。震えていた。反論したい。人を喰うわけないだろと言いたい。でも、言えなかった。俺自身が、自分の右腕を信じられない。


 澪が立ち上がった。


「それ以上、不安を煽らないでください」


「不安を煽る? 違いますよォォ〜。事実を確認しているだけです」


「事実は、灰原さんが蟻を倒して旧芝浦を守ったことです」


「そして蟻を喰ったことです」


 澪の指が震えた。俺はそれを見た。澪だって怖い。怖いのに、俺の側に立っている。やめろ。そう思った。俺の側に立つと、この人まで孤立する。大槻の目が、それを狙っているように見えた。澪が俺を庇えば庇うほど、澪もまた「危険なものに近い人間」として扱われる。それは嫌だった。


 俺はゆっくり息を吐いた。


「朝倉さん」


「はい」


「もういい」


「よくありません」


「いいって」


「よくありません」


 即答だった。俺は少しだけ笑ってしまった。困った人だ。本当に。


「俺、少し寝る」


「寝る前に体温を」


「後でいい」


「よくありません」


「そればっかりだな」


「必要なので」


 澪はまた俺の手首に触れた。周囲の人間が息を呑む。澪は引かない。俺はその手を見た。人間の手だ。温かい手。俺の右手は冷たい。その差が、やけにはっきり分かった。


「体温、かなり低いです」


「地下だからな」


「そういう冷え方ではありません」


「じゃあ何だよ」


「分かりません」


「ほらな」


「だから記録します」


 澪はそう言って、ノートに書いた。右腕が蟻体液、外殻片、触角片に反応。銀色の筋状物が伸長。本人の意思に反して接触。接触後、強い頭痛、吐き気、情報過多の訴え。本人、蟻の身体構造を理解したような発言。行為への嫌悪、拒絶あり。人格反応は保持。


 鉛筆が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。


 人格反応は保持。


 そんな言葉で、俺はまだ人間の側に繋ぎ止められているらしい。鉄扉の下で、蟻の体液がまた落ちた。ビチャ。今度は右腕が反応しなかった。いや、正確には、奥で小さく疼いただけだった。喰いたがっている。まだ喰いたがっている。でも、さっきほど強くはない。満たされたのか。そう思って、吐き気が戻った。蟻を少し喰って、満たされた。最悪だ。


「……俺は」


 声が勝手に漏れた。澪が顔を上げる。


「俺は、人間なのか」


 言ってから、馬鹿な質問だと思った。誰に聞いてるんだ。澪に答えられるわけがない。久我にも、大槻にも、陽太にも、誰にも答えられない。俺自身にも分からない。でも、澪は少しも迷わずに言った。


「灰原さんは、灰原さんです」


 前にも聞いた言葉だった。それ以上でも以下でもない。人間です、とは言わない。大丈夫です、とも言わない。ただ、灰原さんは灰原さんです。なぜか、その曖昧な言葉が一番苦しかった。


 俺は目を閉じた。右目の奥で、蟻の外殻の継ぎ目がまだ光っている。次に蟻が来たら、そこを狙えばいい。知っている。知ってしまった。だから、次はもっと殺せる。その事実が、俺を少しだけ生かす。そして、少しだけ人間から遠ざける。


 遠くで、古い配管が鳴った。カン。誰も動かない。寝床溜まりにいる全員が、その小さな音に怯えていた。俺も同じだった。ただ、俺だけはその音の向こうに、壁の内側を流れる水の振動まで感じていた。蟻の足音ではない。それが分かった。分かってしまった。


 俺は膝を抱えたまま、右手を握った。爪の隙間の銀色が、薄く脈打つ。俺の腹は減っていない。でも、右腕の奥の何かは、まだ次を待っていた。


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