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追放された蟻殺しの地下拠点生活 〜銀色の液体金属に侵された元保守員は、巨大蟻の世界で死にたくない〜  作者: まり蔵
第1章 銀の顔を持つ男

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第5話 化け物を見る目


 灰原玲司の右腕は、人間の腕に戻っていた。少なくとも、見た目だけは。


 朝倉澪は、彼の手首に指を添えたまま、ゆっくり息を吸った。脈はある。速い。乱れている。けれど、ちゃんと人間の脈だった。皮膚は冷たい。地下で長く暮らす人間の体温低下とは違う。もっと芯から熱を奪われているような冷たさだった。右手の指は震えている。爪の隙間には、銀色の筋が残っていた。拭っても取れない。血でも、泥でも、蟻の体液でもない。皮膚の下から浮き上がっているものだった。


「痛みはありますか」


 澪が訊くと、灰原玲司は壁に背を預けたまま、少しだけ顔をしかめた。


「質問が雑になってきたな」


「答えてください」


「全部痛い」


「特に強い場所は」


「右目。右腕。肩。あと、頭の奥」


「吐き気は」


「ある」


「視界は」


「右が銀色っぽい。たまに、見えなくていいものまで見える」


「見えなくていいもの?」


 玲司は答えなかった。答えたくないのだと分かった。澪はそれ以上、無理に聞かなかった。今の彼は、少しでも強く押せば崩れる。身体だけではない。心の方が、むしろ危うい。


 鉄扉の前では、牧野透が補強作業をしていた。ガン、ガン、ガン、と金属片を打ちつける音が、寝床溜まりに響く。そのたびに、子供達が小さく肩を跳ねさせた。芹沢真衣が子供達の前に座り、口元に指を当てている。雨宮千歳は陽太を抱きしめ、何度も背中を撫でていた。鉄扉の下には、二匹の働き蟻の死骸がある。頭部だけが内側に引っかかり、腹と脚は通路側に残っている。黒い外殻は非常灯の赤を受けて鈍く光り、顎の根元から黒っぽい体液が床へ落ちていた。ビチャ、ビチャ。その音だけで、空気が汚れていく気がした。


 旧芝浦保守区画にいる全員が、疲れ切っている。助かった。今は助かった。けれど、誰も喜んでいない。みんな、灰原玲司を見ている。見ないようにしながら、見ている。澪はその視線に気づいていた。恐怖。感謝。嫌悪。混乱。罪悪感。好奇心。それらが薄い膜のように、玲司の周囲を囲んでいる。蟻の死骸よりも、歪んだ鉄扉よりも、血の匂いよりも、その視線の方が彼を傷つけているように見えた。


「朝倉」


 久我涼平が近づいてきた。手には鉄パイプを持ったままだった。先端が少し潰れている。蟻の外殻を叩いたせいだろう。久我の額には汗が浮かび、呼吸も荒い。それでも声だけは落ち着かせていた。


「灰原の状態は」


「意識はあります。会話もできます。右目と右腕に異常がありますが、命に関わる出血はありません」


「感染の可能性は」


「分かりません」


「分からない、か」


「今の段階で断言できる人はいません」


 澪は久我を見上げた。久我の視線は、玲司の右腕に向いていた。人間の腕に戻ったはずなのに、彼はまだ鉄パイプを下ろさない。


「隔離は必要だと思うか」


 その言葉に、玲司の肩がわずかに動いた。聞こえている。当たり前だ。距離は近い。声も隠していない。澪は一拍置いてから答えた。


「今すぐ隔離する方が危険です」


「理由は」


「移動させれば体調が悪化する可能性があります。右腕の変化も、本人が制御できていない。無理に拘束すれば、逆に暴れるかもしれません」


「暴れたら?」


「そうならないようにするのが先です」


「答えになっていない」


「灰原さんを敵として扱えば、敵になります」


 久我の目が細くなった。玲司もこちらを見た。右目側の前髪に入った白い一房が、赤い光の中で浮いて見える。さっきまで灰色だった髪の一部が、まるで色素を奪われたみたいに白い。右目の周囲には、薄い銀色の筋がまだ残っている。その顔は、人間離れしていた。澪も、それを否定できない。怖くないわけがない。


 あの右腕が刃になった瞬間を、澪は見ていた。皮膚の下から銀色の液体が滲み、骨の形を無視して、肉の形を無視して、腕が武器に変わった。蟻の顎を受け止め、外殻の隙間に潜り込み、内部を裂いた。人間の体に起きていい変化ではない。目の前の青年が、次の瞬間、自分に刃を向ける可能性だってある。


 それでも。澪は、玲司の肩が震えているのを見ていた。蟻に向かう時、彼は勇敢だったわけではない。陽太を助けるために飛び込んだ瞬間も、顔は恐怖で歪んでいた。右腕が変形した時、彼は誰よりも苦しんでいた。蟻を殺した後も、勝利の顔などしていなかった。ただ、自分の腕を見て怯えていた。化け物が、自分のことを化け物だと怖がるだろうか。少なくとも澪には、彼はまだ人間に見えた。


「久我さん」


 澪は声を低くした。


「灰原さんは、陽太君を助けました」


「それは分かっている」


「分かっているなら、今この場で危険物扱いしないでください」


「危険じゃないと言えるのか」


「言えません」


 久我の眉が動いた。澪は逃げなかった。


「危険です。間違いなく。右目も右腕も、私には説明できません。本人も制御できていません。だからこそ、観察と処置が必要です。追い詰めることではありません」


「綺麗事だな」


「綺麗事ではありません。処置の話です」


 久我は黙った。その沈黙の奥に、別の感情があることを澪は感じていた。恐怖だけではない。苛立ち。焦り。そして、澪が玲司の前に立つことへの、言葉にされない何か。澪はそれに気づいていないふりをした。今は、その感情に触れる余裕がない。


「朝倉さん」


 玲司がかすれた声で言った。


「無理に庇わなくていい」


「庇っているわけではありません」


「じゃあ何だよ」


「診ています」


「俺を?」


「はい」


「患者扱いか」


「他に何扱いしてほしいんですか」


 玲司は少しだけ目を伏せた。


「……分からない」


 その声は、ひどく弱かった。澪は胸の奥が痛むのを感じた。分からない。彼は今日、何度もそう言った。何が起きたのか分からない。自分の右目が分からない。右腕が分からない。自分がどうなるのか分からない。分からないものを、人は怖がる。旧芝浦の人々が玲司を怖がることも、澪には分かる。分かってしまう。彼らは弱いから怖がるのではない。生き残るために、未知のものを怖がっている。澪自身だって怖い。けれど、怖いからといって、目の前の人を切り捨てていいわけではない。


 その考えが、胸の奥に沈んでいる。いつからそう思うようになったのか。赤い非常灯。白いシーツ。床に並ぶ負傷者。血の匂い。消毒液の匂い。息の浅い老人。泣き叫ぶ子供。誰かが言った。置いていくしかない。別の誰かが、澪の腕を掴んだ。あなた、看護の人でしょう。何とかして。違う。私はまだ学生です。そう言えなかった。言ったところで、誰も聞いてくれなかった。助けられる人と、助けられない人を分ける。その判断を、澪はあの日、何度も迫られた。そんな判断をする資格など、本当はなかった。けれど、世界が壊れた時、資格証は何の盾にもならなかった。息苦しい、と誰かが言っていた。小さな声だった。


 澪はその記憶を、奥へ押し戻した。今、見るべきなのは灰原玲司だ。


「右目をもう一度見ます」


 澪が言うと、玲司は嫌そうに顔を歪めた。


「また光を当てるのか」


「必要です」


「痛いんだよ」


「分かっています」


「分かってないだろ」


「分かりません。でも、痛いことは分かっています」


 玲司は少しだけ黙った。


「……正直だな」


「嘘をつく余裕がありません」


「それはこっちの台詞だ」


 澪は手回しライトを受け取った。ジジ、と弱い音を立てながら、ライトが白く光る。電池が不安定なのか、明るさが少し揺れていた。澪は光を直接当てすぎないよう角度を調整し、玲司の右目を覗き込んだ。銀色の膜は、まだあった。眼球表面に薄く広がり、虹彩の周りを細い線のように縁取っている。金属のような光沢があるのに、瞬きに合わせて液体のように揺れる。傷を塞いでいるようにも見える。だが、本当に保護しているのか、侵食しているのか分からない。右目の白目部分にも、銀色の細い筋が入っていた。


「痛みますか」


「痛い」


「視力は」


「右だけ、輪郭が変に見える」


「変に?」


「人の体の線が見える。血管とか、骨の位置とか。たぶん錯覚だけど」


 澪の手が止まりかけた。


「私の体も、そう見えますか」


 玲司は目を逸らした。


「……見えた。さっき少し」


「今は」


「見ないようにしてる」


「なぜ」


「気持ち悪いだろ。人をそんなふうに見るの」


 その言葉で、澪は確信した。この人は、まだ灰原玲司だ。もし彼の中に入った銀色のものが、ただの怪物に変えるだけのものなら、彼はそんな言い方をしない。人をどう見てしまうかを怖がったりしない。玲司は自分の変化を恐れている。だから、まだ繋ぎ止められる。そう思いたかった。


「記録します」


 澪は古いノートを開いた。紙は湿気で少し波打っている。鉛筆の芯も短い。けれど、書かなければならない。分からないものを、少しでも分かる形にしなければならない。


 灰原玲司。二十四歳。右目に未知の銀色液体が侵入。接触後、激痛、視界異常、体温低下、右前髪の白色化。右目表面に銀色の膜。右腕が一時的に刃状へ変形。意識あり。会話可能。本人の記憶、人格は保たれている。


 そこまで書いて、澪は手を止めた。人格は保たれている。本当にそう書いていいのか。医学的な根拠はない。観察した時間も短い。未知の変質だ。断定すべきではない。けれど、消さなかった。今の玲司に必要なのは、危険という記録だけではない。まだ本人であるという記録も必要だ。


「何て書いてる」


 玲司が訊いた。


「灰原さんが、まだ灰原さんだという記録です」


「それ、記録になるのか」


「私が書けば記録です」


「強引だな」


「今は強引でいいんです」


 玲司は少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれない。それを見て、澪の胸が少しだけ緩んだ。


 その時、少し離れた場所から、大槻修一の声が聞こえた。


「いやはや、記録ですかァァ〜。立派ですねェェ〜。ですが、記録よりもまず、全員の安全ではありませんかァァ〜ん」


 澪は顔を上げた。大槻は壁際に立っていた。荷物を運べと久我に言われたはずなのに、ほとんど動いていない。汚れたビジネスコートの袖を押さえ、口元に薄い笑みを浮かべている。


「大槻さん。荷物の移動は」


「腰がねェェ〜、少し痛みまして。無理をして動けなくなれば、かえって皆さんの迷惑になりますからァァ〜」


「それなら座っていてください。今は話を広げないでください」


「広げる? 私は心配しているだけですよォォ〜。あれほどの力が、もし人間に向いたらどうなるのか。考えない方が不自然ではありませんかァァ〜ん」


 周囲の人々が、わずかに揺れた。その揺れを、大槻は見逃さない。


「助けてもらったことは事実でしょう。ええ、それは否定しませんよォォ〜。ですが、助けたから安全とは限りません。むしろ、あの力がなければ、あんな倒し方はできなかった。つまり、あの力は蟻を殺せるほど危険ということですからねェェ〜」


 言葉だけを見れば、間違っていない。だから人は揺れる。澪は立ち上がろうとした。だが、その前に玲司が口を開いた。


「大槻さん」


 静かな声だった。大槻は目を細める。


「何でしょう、灰原さん」


「俺が怖いなら、怖いって言えばいい」


 大槻の笑みが少し固まった。玲司は壁に背を預けたまま、続けた。


「正論っぽく言わなくてもいい。俺だって俺が怖い。だから、怖がるなとは言わない」


 寝床溜まりが静かになる。澪も息を止めた。玲司の声は弱い。体も震えている。けれど、その言葉は不思議とまっすぐだった。


「でも、俺を理由にして、自分が安全な場所へ逃げる準備だけするのはやめろ。今それをやると、たぶん全員死ぬ」


 大槻の頬がひくりと動いた。


「ずいぶん失礼な言い方ですねェェ〜。私は皆さんのために」


「うん。そういう言い方が嫌いなんだよ」


 玲司は疲れたように目を閉じた。


「俺も嫌いだけどな。俺みたいなやつ」


 その最後の言葉は、自分に向けたものだった。澪は唇を噛んだ。大槻は何か言おうとしたが、久我が低く言った。


「大槻。今すぐ荷物を運べ」


「……分かりましたよォォ〜」


 大槻は不満げに離れていった。その背中を見ながら、久我は玲司に視線を戻す。


「喋れるなら、少しは大丈夫そうだな」


「喋るだけならな」


「右腕は」


「今は戻ってる。でも、次にどうなるか分からない」


「次があると思うか」


「ないと思いたい」


「俺もだ」


 久我はそう言ったが、表情は険しかった。次はある。ここにいる全員が、たぶん分かっている。蟻は一匹や二匹で終わらない。地下のどこかで道を作り、匂いを辿り、振動を拾う。今倒した二匹が偶然だったのか、それとも旧芝浦保守区画が見つかり始めているのか。答えは出ていない。答えが出る頃には、遅いかもしれない。


 ガン、と牧野が鉄板代わりの棚板を扉に打ちつける音がした。


「久我さん、応急です。時間稼ぎにしかなりません」


「どれくらい持つ」


「蟻が来なければ、しばらく。来たら、分かりません」


「分からないことばかりだな」


 久我の呟きに、誰も答えなかった。


 澪は再び玲司の右腕へ視線を落とす。


「手を握れますか」


 玲司は右手を見た。ゆっくり指を曲げる。震えながらも、握ることはできた。


「感覚は」


「ある。嫌なくらい」


「痺れは」


「ある。あと、何か……残ってる」


「残ってる?」


「腕の中に、刃の形が残ってる感じがする」


 澪はノートに書いた。右腕。変形後、外見上は復元。本人は内部に異物感、刃状感覚の残存を訴える。書きながら、手が震えた。こんな記録を書く日が来るとは思わなかった。看護学生だった頃、実習記録にはもっと普通のことを書いていた。体温、血圧、脈拍、呼吸数、食事量、排泄、疼痛の有無、患者の表情。先生に赤ペンで直されるたびに、自分はまだ何も見えていないのだと思った。人間は、数値だけでは見えない。母がそう言っていた。


 患者に寄り添うことと、患者の代わりに壊れることは違う。その言葉も、今は胸の奥で冷たく響く。澪は玲司に寄り添いたい。でも、彼の代わりに壊れることはできない。彼の右目に入ったものを、代わりに受けることはできない。彼の右腕を、自分の腕に移すこともできない。彼が向けられる恐怖の視線を、全部引き受けることもできない。できることは、少ない。観察する。記録する。痛みを聞く。出血を見る。体温を測る。必要なら止血する。必要なら、止める。そして、彼を人間として呼び続ける。それくらいしかない。


「灰原さん」


「何」


「しばらく、右腕を布で固定します。急に動いた時、周りに当たらないように」


「拘束か」


「固定です」


「同じだろ」


「違います。目的が違います」


 玲司は少しだけ目を細めた。


「俺が暴れたら?」


「その時は、止めます」


「どうやって」


「久我さんを呼びます」


「現実的だな」


「現実的でなければ、ここでは生きられません」


 玲司は黙った。少しして、右腕を差し出した。


「いいよ」


「ありがとうございます」


「礼を言うことか?」


「協力してくれたので」


「協力しないと、俺が一番困るしな」


 澪は布を取り、玲司の右腕を慎重に固定した。強く縛りすぎない。血流を止めない。けれど、急に振り回してもすぐには大きく動かない程度にする。玲司は痛みに顔をしかめたが、声は出さなかった。周囲の視線は、まだある。真衣がこちらを見ていた。目が合うと、すぐに逸らす。彼女の顔には感謝と恐怖が同時に浮かんでいた。陽太も、千歳の腕の中からそっと玲司を見ている。玲司は気づいているはずだ。けれど、彼は陽太の方を見ようとしなかった。怖がられるのが怖いのだ。澪はそう思った。それは、とても人間らしい恐怖だった。


「陽太君」


 澪は静かに声をかけた。陽太がびくりとする。


「灰原さんは、陽太君を助けようとして怪我をしました。今は少し怖いかもしれないけど、近づかなくていいので、ちゃんと休んでください」


 陽太は唇を震わせた。


「灰原のお兄ちゃん、痛いの?」


 玲司の肩が小さく動いた。澪は答える。


「痛いと思います」


「死なない?」


「死なせません」


 言ってから、澪は自分の言葉の重さに気づいた。死なせません。そんなこと、本当は簡単に言ってはいけない。世界が壊れた日、澪は何度もその言葉を飲み込んだ。言えなかった。言った相手を救えなかった時、自分が壊れると分かっていたから。それでも、今は言った。


 玲司がこちらを見る。責める目ではなかった。少しだけ、困ったような目だった。


「朝倉さん」


「はい」


「そういうの、軽く言わない方がいい」


「分かっています」


「分かってて言うのか」


「はい」


「……強いな」


 澪は首を横に振った。


「強くありません」


 強くない。怖い。今も怖い。蟻も怖い。玲司の右腕も怖い。右目の銀色も怖い。旧芝浦の人々の視線も怖い。久我がいつ玲司を切る判断をするのかも怖い。大槻が何を言い出すのかも怖い。それでも、怖いから手を離すのなら、自分はきっとあの日と同じ場所に戻ってしまう。助けられない人がいる。それは知っている。でも、今触れている手を、自分から離す理由にはしたくない。


 澪は玲司の固定を終えた。


「これで少し様子を見ます」


「右手、使えないんだけど」


「今は使わないでください」


「飯は?」


「左手で食べてください」


「不便だな」


「生きていれば、不便くらい我慢できます」


「またそれか」


「はい」


 玲司は小さく息を吐いた。今度は、少しだけ笑ったように見えた。


 その瞬間だった。鉄扉の方から、ギチ、と小さな音がした。全員が一斉に振り向く。死んだ蟻の脚が、痙攣の残りでわずかに動いただけだった。けれど、その一音で、寝床溜まりの空気はまた凍った。


 玲司の右目が銀色に光る。澪はそれを見た。彼の表情が一瞬で変わる。怯えと警戒。痛みと嫌悪。彼の体の中の何かが、蟻の残骸に反応している。


「灰原さん?」


「……大丈夫」


 玲司はそう言った。しかし、声は大丈夫ではなかった。彼の視線は、鉄扉の下に挟まった蟻の死骸へ向いている。右手の布が、わずかに震えた。澪はその震えを見逃さなかった。


「右腕、痛みますか」


「違う」


「違う?」


「腹が、減ったみたいな感じがする」


 澪は息を止めた。玲司自身も、自分の言葉に青ざめていた。蟻の死骸。銀色の右腕。腹が減ったような感覚。それが何を意味するのか、まだ分からない。分かりたくもない。しかし澪は、ノートに書いた。蟻の死骸に対し、右腕および右目が反応。本人、空腹に似た感覚を訴える。


 鉛筆の先が、紙の上で少し折れた。パキ。小さな音だった。けれど澪には、その音が何かの始まりのように聞こえた。


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