第4話 銀の右腕
もう一匹、来る。
そう言った自分の声が、やけに遠く聞こえた。寝床溜まりの空気は、さっきまでとは違う種類の恐怖で固まっていた。一匹目の働き蟻は、鉄扉の下に頭を半分突っ込んだまま動かなくなっている。黒い体液が床に広がり、ビチャ、ビチャ、と歪んだ扉の隙間から落ちる水と混ざっていた。酸っぱい臭いが濃い。喉の奥が焼ける。俺の右腕は、まだ銀色の刃のままだった。
「戻れ……」
もう一度、言った。戻らない。指も、手のひらも、手首の形もない。肘から先が、捻じれた金属の刃みたいに尖っている。蟻の体液を浴びたせいで、銀色の表面に黒っぽい液が筋になって垂れていた。右腕の中で、肉と骨が別のものに押しのけられているような感覚があった。痛みはある。けれど、ただ痛いだけじゃない。熱い。冷たい。痺れる。重い。自分の腕なのに、自分の意思が少し遅れて届く。人間の体じゃない。そう思った瞬間、吐き気がまた込み上げた。
「灰原」
久我涼平の声がした。低く、硬い声。
「もう一匹というのは、本当か」
「本当かどうかなんて、俺が聞きたい」
「ふざけている場合じゃない」
「ふざけてない」
俺は鉄扉の向こうを見た。右目の視界が、勝手に震えを拾っている。暗い通路。濡れた床。潰れた鳴子。死んだ働き蟻の体。その向こうから、重い脚が近づいてくる。ギチ。ギチ。ギチ。一匹目より遅い。でも、重い。床の震え方が違う。
「さっきより大きいかもしれない」
口にした瞬間、寝床溜まりの奥で誰かが呻いた。
「やめてくれ……」
「もう無理だろ」
「扉、もたないよ……」
小声が広がる。大声で泣く者はいない。ここにいる人間は、泣き声が死に繋がることを知っている。だから恐怖は、喉の奥に詰まった息になって、全員の胸の中で膨らんでいく。
朝倉澪が俺の横に来た。
「灰原さん、右腕は動かせますか」
「動く」
「自分の意思で?」
俺は答えられなかった。右腕を少し持ち上げる。銀色の刃が、俺の意思より半拍遅れて上がった。重い。だが、金属棒よりずっと鋭く、ずっと危険だった。刃先が空気を切るだけで、ヒュ、と細い音がした。
「半分くらいは、俺の腕だと思う」
「残り半分は?」
「聞くな」
澪は唇を噛んだ。久我が言う。
「牧野、扉をどうにかしろ。死骸を押し返せるか」
牧野透は真っ青な顔で首を振った。
「無理です。頭が引っかかってます。外側から押されてますし、この状態で無理に引いたら、下部が全部めくれます」
「なら塞げ」
「塞ぐ材料が足りません。板も割れました。鉄板があれば……いや、固定が」
「結論を言え」
「次に押されたら、たぶん開きます」
沈黙。誰も牧野を責めなかった。責める意味がないからだ。鉄扉は最初から完全な防壁じゃない。古い保守区画の扉だ。地上の秩序があった頃なら、鍵がかかれば十分だった。巨大な蟻を止めるための扉じゃない。俺の右目が、また熱くなった。ギチ。ギチ。近い。
「来るぞ」
俺が言った直後、鉄扉の向こうで重い音がした。ガン。死んだ働き蟻の体が、外側から押された。鉄扉が軋む。ギギギ、と蝶番が悲鳴を上げた。芹沢真衣が子供達の前に立っている。雨宮千歳は陽太を抱え、奥へ下がらせようとしていた。陽太は泣き腫らした目で、まだ俺を見ている。見るな。頼むから、今の俺を見るな。
「子供をもっと奥へ!」
澪が叫ぶ。
「真衣さん、貯水区画の裏へ。怪我人も一緒に!」
「は、はい!」
真衣は震えながらも頷き、子供達を誘導する。大槻修一の声が、その背後から聞こえた。
「奥へ行っても、逃げ道はありませんよォォ〜。ああ、これは困りましたねェェ〜。やはり原因は早めに取り除くべきだったんじゃないですかァァ〜ん」
「大槻、黙れ!」
久我が怒鳴った。大槻はびくりと肩を震わせたが、口元には妙な笑みが残っていた。嫌な男だ。こんな時でも、自分の正しさを確認する材料を探している。だが、今はそれどころじゃない。ガン、と二度目の衝撃。ベコン、と鉄扉の下部が内側へめくれた。死んだ働き蟻の頭部が押し込まれ、裂けた顎が床を削る。黒い体液が跳ね、床に散った。その奥から、別の触角が見えた。長い。太い。一匹目より、頭の幅がある。
牧野が後ずさる。
「まずい、まずいです、これ……!」
「全員下がれ!」
久我が鉄パイプを構えた。俺も前へ出ようとした。足が震えていた。当たり前だ。死にたくない。腕が刃になったからって、心まで強くなるわけじゃない。むしろ逆だ。今は自分の体すら信じられない。さっき蟻を倒したのだって、俺が強かったわけじゃない。右腕が勝手に動いた。右目が勝手に見た。俺はただ、痛がっていただけだ。それなのに、また前に出るのか。馬鹿じゃないのか。逃げろ。奥へ逃げろ。
そう思った瞬間、視界の端で陽太が見えた。千歳に抱えられながら、陽太はまだこちらを見ていた。目に涙を溜め、口元を押さえられて、でも俺から目を逸らせないでいる。さっき、あの子は俺を怖がった。それでも、灰原のお兄ちゃんと呼んだ。最悪だ。そういうのを見せられると、逃げづらくなる。
「くそ……」
俺は右腕を前に出した。銀色の刃が、赤い非常灯を鈍く弾く。
「久我。俺が前に立つ」
「できるのか」
「できなかったら死ぬだけだ」
「笑えない冗談だな」
「俺も笑ってない」
久我は一瞬、何か言いたそうにした。だが、言わなかった。
「牧野、扉が開いたら右側の壁際に逃げろ。朝倉、負傷者が出たら奥へ。芹沢、子供を見ろ。雨宮、陽太を離すな」
「分かりました」
「はい」
「は、はい」
指示が飛ぶ。俺はその中心にいながら、ひどく場違いな気分だった。これまで俺は、前に立つ側の人間じゃなかった。地図を見て、水音を聞いて、危なそうなら引き返す。誰かを導くことはあっても、敵の前に立つことはない。それが今は、銀色の右腕一本で蟻の前に立とうとしている。意味が分からない。
ギチ。ギチ。扉の向こうで、顎が動く。次の瞬間、二匹目の働き蟻が、死骸ごと鉄扉を押し込んだ。ガァン。鉄扉が大きく歪んだ。下部がめくれ、蝶番が一つ弾ける。バキン。金属片が飛び、壁に当たってカン、と鳴った。黒い頭が、扉の隙間からねじ込まれる。一匹目より大きい。外殻が厚い。顎も太い。複眼の奥に赤い光が映り、触角が人間の匂いを探して震えている。濡れた脚が一本、内側へ入り込んだ。ギチリ、と床が軋んだ。
「押し返せ!」
久我が鉄パイプを叩き込む。ガン。効かない。働き蟻は頭を振り、久我の鉄パイプを顎で弾いた。ギン。久我の手から鉄パイプが跳ね、床を転がる。カラン、カラン。
「久我さん!」
澪の声。久我はすぐに後ろへ跳んだ。顎が彼の足元を掠める。床が削れ、白い粉が飛んだ。俺は動いた。いや、右腕が動いた。銀色の刃が前へ出る。蟻の顎を狙う。さっきと同じように根元へ滑り込ませようとする。だが、二匹目は頭を引いた。速い。
「っ!」
刃が空を切る。働き蟻の触角が俺の右腕に触れた。その瞬間、右目の奥で火花が散った。情報が入ってくる。顎の角度。脚の踏み込み。外殻の厚み。関節の位置。臭い。熱。振動。殺す場所。やめろ。一度に入れるな。
「ぐ、あ……!」
頭が割れそうになった。その隙に、蟻の顎が横から来た。俺は避けようとした。足がもつれた。銀色の右腕が勝手に床へ刺さり、体を引っ張った。俺の肩が嫌な音を立てる。
「いっ……!」
顎が目の前を通過した。風圧で頬が切れた。遅れて熱い痛みが走る。死ぬところだった。本当に、今のは死ぬところだった。
「灰原!」
澪が叫ぶ。
「来るな!」
俺は怒鳴った。澪が足を止める。来られても困る。助けられない。俺一人で手一杯だ。いや、手一杯どころじゃない。俺の手はもう手じゃない。働き蟻がさらに体を押し込む。扉の隙間が広がる。このまま入られたら終わる。
「牧野!」
俺は叫んだ。
「こいつの脚、どこを止めればいい!」
「え、ええっ!?」
「分かるだろ、見ろ!」
「無茶言わないでください!」
「俺の方が無茶してる!」
牧野は一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに蟻を見た。怯えながらも、目が動く。鉄扉の歪み、蟻の姿勢、脚の位置、床の段差。
「あ、あの右前脚です! こっちから見て左! そこが扉の縁に引っかかってます! あれを折るか滑らせれば、頭が落ちます!」
「折るって簡単に言うな!」
「聞いたの灰原さんじゃないですか!」
確かに。俺は舌打ちした。右目が蟻の前脚を捉える。太い。人間の腕どころじゃない。関節は硬い外殻に覆われている。だが、曲がる場所がある。節と節の間。そこだけ、わずかに柔らかい。右腕の銀色が震えた。行ける、と言っている気がした。気持ち悪い。でも、行くしかない。
「久我、頭をそっちに向けろ!」
「命令するな!」
「じゃあお願いだ!」
「最初からそう言え!」
久我は床に落ちた鉄パイプを拾い、蟻の複眼の前で壁を叩いた。ガン、ガン。働き蟻の触角がそちらへ向く。顎が開く。久我が後ろへ下がる。その一瞬、俺は低く飛び込んだ。
右腕を振る。いや、振ったんじゃない。銀色の刃が、自分で伸びた。肘から先がさらに細く、鋭く変形し、蟻の前脚の関節へ向かう。ズブ、と入った。外殻の隙間に、銀色の刃が潜り込む。働き蟻が暴れた。ギチギチギチッ。脚が跳ね上がり、俺の体が横へ弾かれる。肩から壁に叩きつけられた。
「が、はっ……!」
息が抜ける。それでも右腕は抜けない。銀色の刃は、蟻の関節の奥で広がっている。俺の意思とは関係なく、内部を探るように動いている。嫌な感触が腕から上がってくる。硬いもの。柔らかいもの。糸みたいな繊維。体液。節を動かす何か。理解したくない。でも、分かってしまう。ここを断てば、脚は動かない。
「やめろ……俺に分からせるな……!」
銀色の刃が内側で捻じれた。ブチン。働き蟻の前脚が力を失い、床に崩れた。巨体のバランスが崩れる。頭が下がる。
「今です!」
牧野が叫んだ。久我が鉄パイプを蟻の顎の間へ突っ込む。完全には止められない。だが、顎の開閉が一瞬鈍る。俺の右目が、顎の根元を見つけた。さっきと同じ場所。ただし、二匹目の方が硬い。正面からじゃ無理だ。角度を変えろ。誰の考えだ。俺か。右目か。銀色の何かか。もう分からない。
「うあああっ!」
俺は叫びながら、右腕を引き抜いた。蟻の体液が噴き出す。ビチャ、と床に黒い液が散る。そのまま、俺は蟻の頭の横へ回り込んだ。足が滑る。体液で床がぬるい。転びそうになる。だが、銀色の右腕が床を引っかき、体勢を無理やり支えた。爪ではない刃が、コンクリートに傷を残す。ギャリ。耳障りな音。
働き蟻の顎がこちらへ向く。遅い。ほんの少しだけ、遅い。俺は右腕を突き出した。銀色の刃が、顎の付け根へ入る。硬い。止まる。
「っ、く……!」
刺さらない。外殻が厚い。刃先が弾かれそうになる。その時、右目の奥が強く脈打った。ドクン。視界が銀色に染まる。蟻の外殻の下に、細い線が見えた。線。違う。継ぎ目だ。そこだけ、繋がっていない。銀色の刃が形を変えた。薄くなる。紙みたいに薄く、針みたいに細く、外殻の継ぎ目へ滑り込む。俺の骨が削られるような痛みが走った。
「あああああっ!」
叫ぶ。刃が入る。奥まで。働き蟻が最後の力で暴れた。脚が床を叩く。ガン。ガン。ガン。鉄扉がさらに歪み、天井の配管が揺れる。カン、カン、と吊るした空き缶が鳴った。子供達が奥で息を殺す。澪が俺の名前を呼んでいる。久我が何か叫んでいる。大槻が震えた声で祈るように何かを呟いている。全部、遠い。頭の中では、あの声だけが近かった。
殺せ。殺せ。殺せ。
「黙れって……言ってるだろ!」
俺は右腕を捻った。ブチン。何かが断たれた。働き蟻の顎が力を失う。頭部がぐらりと傾き、鉄扉の隙間に挟まったまま動きを止めた。脚の痙攣が少し残り、ギチ、ギチ、と床を掻いたが、それも次第に弱くなる。最後に、腹の方で重い音がした。ドサッ。外の通路に、蟻の体が崩れた音だった。
静かになった。いや、本当は静かではない。俺の息がうるさい。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
右腕から、蟻の体液が滴る。ビチャ。ビチャ。銀色の刃は、まだ戻らない。俺は鉄扉の前に立ち尽くした。全身が震えていた。膝が笑っている。肩が痛い。右目が熱い。右腕の中で、何かが満足したように静かになっていくのが分かった。満足? 何に。蟻を殺したことに? ふざけるな。俺はそんなことで満足しない。俺は死にたくなかっただけだ。陽太を見捨てられなかっただけだ。俺は、こんな腕が欲しかったわけじゃない。
「灰原さん」
澪が近づいてきた。俺は反射的に右腕を引いた。銀色の刃が、彼女へ向かないように。
「来るな」
自分でも驚くくらい低い声だった。澪が止まる。
「でも、怪我が」
「来るなって言ってる」
「灰原さん」
「これが勝手に動くんだよ!」
声が荒くなった。寝床溜まりの全員がびくりとした。俺は歯を食いしばる。駄目だ。脅すな。怖がらせるな。でも、怖いのは俺も同じだ。
「俺にも分からない。近づいたら、何するか分からない」
澪は何か言おうとした。だが、その前に久我が低く言った。
「朝倉、今は離れろ」
「久我さん」
「灰原の言う通りだ。本人が制御できないなら、近づくな」
正しい。悔しいくらい、正しい。澪は唇を噛み、俺から一歩下がった。その一歩が、思ったより痛かった。俺が下がれと言ったのに。自分で近づくなと言ったのに。離れられると痛い。勝手すぎる。
右腕の刃が、ようやく震え始めた。銀色の表面が液体みたいに揺れ、少しずつ縮んでいく。刃先が丸まり、手首の形が戻り、指らしきものが浮かぶ。
「う、ぐ……」
戻るのも痛い。骨を無理やり元の場所へ押し込まれているみたいだった。皮膚の下を銀色の液体が這い、筋肉の隙間へ沈んでいく。やがて、そこには俺の右手が戻っていた。震えている。爪の隙間に、銀色の筋が残っていた。人間の手に見える。でも、さっきの刃がこの中にいる。俺は右手を握ろうとした。指が動いた。それだけで、少し泣きそうになった。
「戻った……」
誰かが小さく言った。ほっとした声ではなかった。確認するような声だった。あれは本当に戻ったのか、と。寝床溜まりの奥で、子供達が固まっている。真衣は陽太の肩を抱いている。千歳は口元を押さえ、こちらを見ていた。牧野は座り込んだまま、俺の右手から目を離せない。大槻は壁際で、脂っぽい額に汗を浮かべている。久我は鉄パイプを握ったままだった。澪だけが、俺を見ていた。怖がっていないわけじゃない。彼女の指も震えている。それでも、目を逸らさない。
「灰原さん」
澪が静かに言った。
「まず、座ってください。右腕を見ます」
「見てどうする」
「記録します。処置します。何か分かるかもしれません」
「何も分からなかったら?」
「それでも、放っておく理由にはなりません」
その言葉に、俺は返せなかった。座ろうとした時、足が滑った。蟻の体液だ。ビチャリ、と靴底が鳴る。俺は膝をつきかけ、左手を床についた。右手は床につけなかった。怖かった。右手が床に触れたら、また何かに変わる気がした。
その時、寝床溜まりの奥から、小さな声が聞こえた。
「……化け物」
誰が言ったのか分からなかった。子供ではない。大人の声だった。男か女かも分からないくらい、小さく、かすれていた。でも、聞こえた。俺には聞こえた。右目のせいかもしれない。それとも、そんな言葉だけは昔からよく聞こえるようにできているのかもしれない。
澪が振り向く。
「今のは誰ですか」
誰も答えない。寝床溜まりにいる人間達が、互いに視線を逸らす。俺は笑おうとした。笑えなかった。
「いいよ」
声が出た。
「間違ってない」
「灰原さん」
「間違ってないだろ」
俺は右手を見た。さっきまで刃だった手。蟻を裂いた手。陽太を助けた手。その全部が同じ手だった。
「俺だって、そう思う」
澪が何か言おうとした。その前に、右目の奥が小さく痛んだ。ズキン。痛みの奥で、見知らぬ映像が一瞬だけ走る。白い地下空間。銀色の壁。大量の蟻。誰かの叫び。刃を持つ腕。血ではない銀色の雨。すぐに消えた。俺は息を呑む。今のは何だ。俺の記憶じゃない。俺はそんな場所を知らない。でも、右目の奥に残った感触は、夢よりも生々しかった。
久我が鉄扉の方へ視線を戻す。
「外は」
俺は目を閉じた。聞きたくもない振動を探る。遠くの通路。湿った床。死んだ蟻の重み。それ以上の脚音は、今はない。
「今は、来てない」
「今は、か」
「ああ」
久我は短く息を吐いた。
「牧野、扉を塞げるだけ塞げ。芹沢、雨宮、子供達を奥に置いたままにしろ。朝倉は負傷者を見ろ。大槻、動けるなら荷物を運べ」
「わ、私は腰が少々……」
「運べ」
久我の声に、大槻は不満そうに口を閉じた。人々が少しずつ動き始める。それでも、俺の周りには空間ができていた。誰も近づかない。澪以外は。
澪はゆっくりと俺の前にしゃがんだ。
「右腕、出してください」
「また変わるかもしれない」
「その時は離れます」
「間に合わなかったら?」
「その時は、灰原さんが止めてください」
「無茶言うな」
「さっき蟻を止めた人に言っています」
俺は思わず顔をしかめた。
「俺が止めたんじゃない」
「でも、陽太君を助けようとしたのは灰原さんです」
その言葉は、胸に刺さった。痛みとは違う。けれど、痛かった。俺は黙って右腕を差し出した。澪の指が、俺の手首に触れる。その瞬間、周囲の誰かが小さく息を呑んだ。澪は手を引かなかった。震えているのに。怖いはずなのに。引かなかった。
「脈、あります」
「人間みたいだな」
「人間です」
「さっきのを見た後で、よく言えるな」
「見た後だから言っています」
澪の声は静かだった。俺は視線を逸らした。鉄扉の下には、二匹の働き蟻の死骸が重なっている。黒い体液。砕けた板。歪んだ鉄。床に残った銀色の掻き傷。そして、俺を見る人々の目。感謝。恐怖。嫌悪。困惑。その全部が混ざっている。
俺は陽太の方を見た。陽太は千歳の腕の中で泣いていた。俺と目が合うと、体を強張らせた。それから、何か言おうとして、言えずに俯いた。いい。それでいい。怖がって当然だ。俺は自分にそう言い聞かせた。だが、右目の奥で銀色のものが静かに脈打つたびに、心のどこかが冷えていく。自分が何かを失った気がした。命は助かった。陽太も助かった。旧芝浦も、ひとまず守れた。それなのに、俺はたぶん、この場所に少しだけ戻れなくなった。
澪が俺の右腕を布で包みながら、小さく言う。
「灰原さん。今は休んでください」
「休めると思うか」
「思いません」
「なら言うなよ」
「言わないと、灰原さんは立ったままでいるので」
俺は何も返せなかった。天井の非常灯が、ジジ、と鳴る。鉄扉の外では、死んだ蟻の脚が最後に一度だけ震えた。ギチ。それだけで、寝床溜まりの全員が肩を跳ねさせた。俺も同じだった。化け物みたいな腕で蟻を殺したくせに、死骸の音ひとつで体が震える。情けない。でも、それが俺だった。
俺は灰原玲司。死にたくないだけの、地下の保守員。そのはずだった。
右目の奥で、銀色の何かが静かに息をしている。俺は右手を握りしめた。爪の隙間に残った銀色が、赤い非常灯の下で薄く光った。




