表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀骸の蟻殺し  作者: ふっきゃん
第1章 銀の顔を持つ男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/4

第4話 顔に落ちたもの


 銀色が、落ちてきた。


 水滴なんてものじゃない。


 雫でもない。


 拳ほどの塊だった。


 けれど、石のようには落ちてこなかった。


 液体みたいに揺れながら、金属みたいに光って、まるで生き物みたいに俺の顔へ降ってきた。


 時間が伸びた気がした。


 天井。


 配管。


 錆。


 剥がれた断熱材。


 その隙間から落ちる銀色。


 それを見上げている俺。


 目を見開いている澪。


 暗い寝床溜まり。


 誰かの寝息。


 遠くの蟻の脚音。


 全部が、妙にゆっくり見えた。


 人間、死ぬかもしれない時には時間が遅くなると言う。


 あれは本当かもしれない。


 ただ、できればもっと役に立つ場面で体験したかった。


 たとえば、熱々のラーメンをこぼす瞬間とか。


 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


「――っ」


 避けろ。


 そう思った。


 でも、体は動かなかった。


 背中は壁。


 足元には毛布。


 周囲には眠っている人間。


 起き上がるには遅すぎる。


 横へ転がるには狭すぎる。


 そもそも、頭がまだ状況に追いついていない。


 銀色の何かが天井から落ちてきている。


 その事実だけで、脳が詰まっていた。


 そして。


 それは、俺の顔に落ちた。


「ん゛っ――!?」


 冷たい。


 そう感じたのは一瞬だけだった。


 次に来たのは、熱さ。


 いや、違う。


 冷たいのに熱い。


 表面は氷みたいなのに、内側から焼かれているみたいだった。


 銀色の液体が、俺の額に、鼻に、頬に、口元に広がる。


 重い。


 息ができない。


 水なら拭えばいい。


 油なら払い落とせばいい。


 でもこれは、そのどちらでもなかった。


 顔に張りついている。


 いや、張りついているだけじゃない。


 這っている。


 俺の皮膚の上を。


 まるで、入り口を探すみたいに。


「んっ、ぐ……!」


 口を開けようとした。


 できない。


 鼻も塞がれている。


 息が、詰まる。


 肺が一気に酸素を求めて暴れた。


 俺は両手で顔を掴み、銀色のものを剥がそうとした。


 指が触れた瞬間、びりっ、と全身に電気のような感覚が走る。


「がっ……!」


 痛い。


 いや、痛いという言葉では足りない。


 皮膚の上からではなく、神経を直接引っかかれたみたいだった。


 指先から腕へ。


 腕から肩へ。


 肩から首へ。


 そして、右目の奥へ。


 何かが走った。


「灰原さん!」


 澪の声がした。


 近い。


 すぐそばだ。


 でも、遠く聞こえる。


 水の中で叫ばれているみたいだった。


「灰原さん! 聞こえますか!」


 聞こえてる。


 聞こえてるんだよ。


 でも答えられない。


 息ができない。


 顔が剥がれる。


 いや、違う。


 顔の中に何かが入ってくる。


「っ、あ゛……!」


 銀色の液体が、右目の周りへ集まった。


 額から頬へ流れ、鼻梁を避けるようにして、右目の周囲にまとわりつく。


 閉じろ。


 目を閉じろ。


 そう思うのに、右目がうまく閉じない。


 まぶたが震える。


 涙が出る。


 涙と銀色の液体が混じった。


 その瞬間。


 右目の奥が、裂けた。


「があああああっ!」


 今度は声が出た。


 自分でも信じられないくらい、汚い叫び声だった。


 喉が破れそうだった。


 けれど、それでも足りなかった。


 右目の裏側に、熱した針を突き込まれたような激痛。


 視神経を引きずり出されるような感覚。


 頭蓋骨の内側を、冷たい虫が這うような悪寒。


 俺は床を爪で掻いた。


 爪が割れたかもしれない。


 そんなことを気にする余裕はない。


「何だっ!?」


 久我の怒鳴り声が響いた。


「おい、何が起きた!」


「叫ぶな! 蟻に聞こえる!」


「でも灰原が!」


「なんだよあれ、顔に何かついてるぞ!」


「水か!? 薬品か!?」


「銀色だ……!」


 寝床溜まりが一気に騒然となった。


 毛布が跳ねる音。


 誰かが立ち上がる音。


 子供の泣き声。


 千歳の声。


「陽太君、こっちへ! 見ないで!」


「灰原のお兄ちゃん……?」


「見ちゃ駄目!」


 陽太の声が震えていた。


 やめろ。


 見るな。


 俺を見るな。


 俺だって、今の自分を見たくない。


「朝倉! 離れろ!」


 久我が叫んだ。


「駄目です! 息ができていません!」


「何か分からないんだぞ!」


「だから放っておけません!」


「そいつに触るな!」


 そいつ。


 その言葉が、妙に耳に残った。


 俺じゃない。


 灰原じゃない。


 そいつ。


 たぶん、久我に悪気はない。


 いや、あるのかもしれない。


 分からない。


 ただ、今の俺には、その一言がやけに冷たく聞こえた。


 俺はまだ人間だ。


 そう言いたかった。


 けれど、顔に張りついた銀色のものが、俺の口を塞いでいる。


「ん゛っ……ぐ、あ゛……!」


 澪の手が俺の肩に触れた。


「灰原さん! 落ち着いてください!」


 落ち着けるわけがない。


 顔に謎の銀色生物みたいなものが張りついて、右目の奥をかき回されている人間に、落ち着けと言う方が無理だ。


 でも、澪の声だけは、聞こえた。


 不思議なくらい、はっきりと。


「息を……口、開けられますか!?」


 無理だ。


 開かない。


 喉が鳴る。


 肺が焼ける。


 視界が白く瞬く。


 死ぬ。


 そう思った。


 蟻に食われるわけでもなく。


 飢えるわけでもなく。


 地下の天井から落ちてきた銀色の訳が分からないものに顔を塞がれて死ぬ。


 そんな死に方、あまりにも意味が分からない。


 葬式で説明する人間が困る。


 いや、葬式なんてもうない。


 何を考えているんだ、俺は。


「くそっ、剥がせ!」


 久我が近づいてきた。


 誰かが止める。


「触るなよ! 危ねぇって!」


「でも死ぬぞ!」


「俺は嫌だぞ、あんなの触るの!」


「誰か布持ってこい!」


「布でどうにかなるのかよ!」


 生存者達の声が重なる。


 騒がしい。


 遠い。


 怖い。


 その全部が、頭の中で溶けていく。


 銀色の液体は、俺の顔の上で形を変えていた。


 口元を覆っていた部分が、ゆっくりと引いていく。


 空気が入った。


「っはぁ!」


 俺は息を吸った。


 吸えた。


 けれど、その瞬間、銀色のものが右目の周囲へさらに集まった。


「ぎっ……!」


 痛みが跳ね上がる。


 息を吸えた代わりに、右目を差し出せと言われたみたいだった。


 ふざけるな。


 俺は契約書にサインしていない。


 こんな取り引き、聞いてない。


「あ゛ああああっ!」


 俺は叫んだ。


 叫びながら、顔を掻きむしろうとした。


 澪が俺の手を押さえる。


「駄目です! 目を傷つけます!」


「離せぇっ! 取れ、取ってくれ! 何だこれ、何だよこれぇ!」


「分かりません! でも、掻かないで!」


「無理だろっ! 中に、入って……!」


 そこまで言って、俺は言葉を失った。


 入っている。


 そうだ。


 これは、もう外側だけじゃない。


 右目の奥。


 こめかみ。


 頬骨の下。


 神経の隙間。


 そこへ、銀色の何かが入り込んでいる。


 自分の体の内側に、自分ではないものがいる。


 その感覚に、喉の奥から勝手に呻きが漏れた。


「う゛……あ……っ」


 気持ち悪い。


 怖い。


 痛い。


 寒い。


 熱い。


 全部が同時に来る。


 視界の右半分が、銀色に揺れた。


 暗い地下のはずなのに、右目だけが異常に明るい。


 見えている。


 見えていない。


 どちらでもない。


 目の前の澪の輪郭が、白い線のように浮かんだ。


 久我の体温のようなものが、ぼんやり見えた。


 寝床溜まりの人間達の震えが、床を通じて伝わる。


 配管の中を流れる水。


 遠くの蟻の脚。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 それが、聞こえるだけじゃない。


 分かる。


 距離。


 数。


 重さ。


 方向。


「……なん、だよ……」


 俺の声が震えた。


 怖い。


 怖いのに、情報だけが頭へ流れ込んでくる。


 俺の意思とは関係なく。


 地下の構造が、線になって頭の中へ浮かぶ。


 旧芝浦保守区画。


 鉄扉。


 保守通路。


 水の流れ。


 蟻の通った跡。


 そして、天井の配管の中に残る銀色の筋。


 俺は見ていない。


 なのに、分かる。


 これは何だ。


 俺の目はどうなった。


 いや、目だけじゃない。


 右頬が熱い。


 こめかみが脈打つ。


 額の皮膚の下で、銀色の根が伸びているような感覚がある。


「灰原さん……?」


 澪が俺の顔を覗き込んだ。


 その顔が歪んだ。


 恐怖か。


 驚きか。


 それとも、心配か。


 分からない。


 でも、彼女は逃げなかった。


 俺の肩を掴んだまま、目を逸らさなかった。


「澪……」


 名前を呼ぶと、声が掠れた。


 自分の声じゃないみたいだった。


「俺、今……どうなってる」


 澪は一瞬だけ答えに詰まった。


 その沈黙が、答えだった。


 やめろ。


 その沈黙はきつい。


 ちゃんと言ってくれ。


 いや、言わないでくれ。


 どっちだ。


 俺の中で、情けない声が暴れる。


「右目の周りに……銀色のものが」


 澪は慎重に言った。


「皮膚に、張りついています。でも……」


「でも?」


「皮膚の下にも、入っているように見えます」


「……はは」


 笑いが漏れた。


 乾いた、変な笑いだった。


「最悪だな」


「灰原さん」


「俺、顔まで地下設備になったのかよ……」


「そんなこと言ってる場合じゃありません」


「言ってないと無理なんだよ……!」


 声が震えた。


 泣きそうだった。


 いや、泣いていたのかもしれない。


 右目から出ているものが涙なのか、銀色の液体なのか、自分でも分からなかった。


「朝倉、離れろ」


 久我が言った。


 さっきより低い声だった。


「そいつは危ない」


 また、そいつ。


 澪の手に力が入った。


「まだ分かりません」


「見れば分かるだろ! 人間じゃないものが顔に張りついてる!」


 寝床溜まりがざわついた。


「おい……本当に大丈夫なのか?」


「蟻の毒か?」


「いや、蟻じゃないだろ……」


「でも、あれに触ったら感染するんじゃ……」


「やめろよ、こっち来るなよ……」


 声が刺さる。


 全部、小さい声だ。


 でも、聞こえる。


 はっきり聞こえる。


 聞こえすぎる。


 今までなら聞き逃していたような囁きまで、右目の奥で拾ってしまう。


 怖い。


 嫌だ。


 耳を塞ぎたい。


 でも、両耳を塞いでもたぶん聞こえる。


 これは耳で聞いている音じゃない。


 銀色の何かが、震えを拾っている。


「違う……俺は……」


 何を言おうとしたのか分からない。


 違う。


 何が違う。


 人間だと言いたかったのか。


 危なくないと言いたかったのか。


 俺にも分からないものを、どうやって否定すればいい。


「灰原さんは灰原さんです」


 澪が言った。


 はっきりと。


 寝床溜まりのざわめきの中で、その声だけがまっすぐ聞こえた。


「まだ、何も分かっていません。勝手に決めつけないでください」


「朝倉……!」


 久我の声が怒気を帯びる。


「お前、何を庇ってるのか分かってるのか」


「怪我人です」


「怪我人?」


「今、目の前で苦しんでいる人です」


 澪は俺の肩を支えたまま、久我を見た。


「それ以上でも、それ以下でもありません」


 寝床溜まりが一瞬、静かになった。


 俺は、何も言えなかった。


 澪の手が震えているのが分かった。


 彼女だって怖い。


 怖くないはずがない。


 でも、逃げなかった。


 俺の名前を呼んで、俺を怪我人だと言った。


 化け物ではなく。


 危険物ではなく。


 怪我人。


 その言葉に、なぜか胸が詰まった。


 いや、右目の痛みで詰まっているのかもしれない。


 どっちでもいい。


「灰原さん、聞こえますか」


「……聞こえてる」


「呼吸できますか」


「できる……たぶん」


「右目は見えますか」


「分からない」


「痛みは?」


「最悪」


「意識は?」


「最悪だけど、ある」


「それなら、まず座ってください。ゆっくり」


「俺、座ってない?」


「半分倒れてます」


「そうか……」


 澪に支えられながら、俺は何とか体を起こした。


 体が震えている。


 寒さじゃない。


 恐怖だ。


 情けないほど、膝が笑っている。


 いや、笑うな。


 今笑う場面じゃない。


 俺は壁にもたれた。


 右目の奥で、銀色の脈動が続いている。


 ずきん。


 ずきん。


 心臓とは違うリズム。


 俺の中に、別の何かが心臓を持ち込んだみたいだった。


「鏡……」


 俺は呟いた。


「鏡あるか」


「見ない方が」


「見ない方が怖い」


 澪は少し迷った。


 それから、千歳の方を見た。


「小さい手鏡、ありましたよね」


「あります……でも」


 千歳の声は震えていた。


 それでも、彼女は荷物の中から割れた手鏡を出してくれた。


「灰原さん……大丈夫?」


 陽太の声がした。


 千歳の腕の中から、こちらを見ている。


 目が濡れていた。


 やめろ。


 そんな顔をするな。


 俺が大丈夫かどうかなんて、俺にも分からない。


「大丈夫……たぶん」


 俺はそう答えた。


 いつもの軽口のつもりだった。


 でも、声が掠れて、全然軽くならなかった。


 澪が手鏡を俺に渡した。


 俺は震える手で、それを顔の前に持ってきた。


 暗い。


 鏡は割れている。


 映りは悪い。


 それでも、見えた。


 俺の顔。


 痩せて、青白くて、目つきの悪い、いつもの俺。


 その右側。


 右目の周りから頬にかけて、銀色の筋が走っていた。


 皮膚の上に張りついているだけではない。


 皮膚そのものが、銀色に変質したみたいに見えた。


 細い根のような線が、こめかみへ、頬骨へ、目尻へ伸びている。


 右目の白目には、銀色の光が滲んでいた。


「……誰だよ、これ」


 声が漏れた。


 鏡の中の男は、俺の顔をしていた。


 でも、俺ではないものが混ざっていた。


 ほんの少し。


 けれど、決定的に。


 その瞬間、胃の奥から何かがこみ上げた。


「うっ……!」


「灰原さん!」


 俺は横を向いて吐いた。


 胃の中にはほとんど何もない。


 酸っぱい液体と、苦い唾液だけが出る。


「げほっ、かはっ……!」


「水を!」


「残り少ないぞ!」


「少しでいいです!」


 澪が叫ぶ。


 誰かが水を持ってくる。


「使うのかよ……」


「でも、あれじゃ……」


「銀色のやつ、飲み水に触れさせるな!」


「うるさい! 少し黙れ!」


 久我が怒鳴った。


 一瞬、場が静まる。


 澪は俺の背を支え、口元に少しだけ水を含ませた。


「飲み込めますか」


「……ん」


 水が喉を通る。


 少しだけ、生き返る。


 でも、右目の奥の脈動は消えない。


「どうなってる……」


 久我が低く言った。


 その声には、怒りよりも恐怖が混ざっていた。


「朝倉。お前、診られるのか」


「分かりません」


「分かりませんじゃ困る」


「私だって、こんなの見たことありません!」


 澪が初めて声を荒げた。


 その声に、久我が少し怯んだ。


「でも、できることはします」


 澪はそう言って、俺の右目の周りを見た。


「灰原さん、触ります。痛かったら言ってください」


「もう全部痛い」


「それでも言ってください」


「はい……」


 澪の指が、俺のこめかみに触れた。


 優しい触れ方だった。


 それでも、銀色の部分に近づいた瞬間、俺の視界が跳ねた。


「ぐっ!」


「痛いですか」


「痛い……けど、それだけじゃない」


「何が見えますか」


「見えるっていうか……分かる」


「分かる?」


「床の下の水。壁の向こうの空洞。遠くの脚音。たぶん蟻。二匹……いや、三匹」


 自分で言って、寒気がした。


 何を言っているんだ。


 なぜ分かる。


 俺は壁の向こうなんて見ていない。


 蟻の数なんて確認していない。


 なのに、分かる。


 右目の奥で、銀色の何かが震えている。


 情報を拾っている。


 俺に見せている。


「蟻が近いのか?」


 久我が聞いた。


 声が硬い。


「分からない。でも、こっちに向かってる感じじゃない。通路を横切ってる」


「本当か」


「知らない。俺に聞くな。俺が一番聞きたい」


 言いながら、吐き気がまた込み上げる。


 俺は口元を押さえた。


「これ、蟻のものなのか?」


 誰かが言った。


「蟻が灰原に何かしたんじゃ……」


「さっき外に出たからか?」


「持ち帰った物資に何か付いてたんじゃないのか」


「じゃあ物資も危ないってことかよ!」


「やめてくれ、あれがなきゃ水が……」


 またざわめきが広がる。


 不安は早い。


 水より早く染みる。


 久我が俺を見る。


 その目に、さっきとは違うものがあった。


 恐怖。


 警戒。


 そして、どこかで見たような苛立ち。


「灰原」


「何だよ……」


「お前、外で何に触った」


「知らない」


「知らないじゃ済まない」


「俺だって知りたいんだよ!」


 声を張った瞬間、右目の奥が強く痛んだ。


「ぐぁっ……!」


「灰原さん!」


 澪が支える。


 久我は一歩下がった。


 それを見て、俺は少し傷ついた。


 いや、当たり前だ。


 俺だって逆の立場なら下がる。


 でも、当たり前に傷つく。


 面倒くさい。


 人間の心は、自分に都合が悪すぎる。


「もういい」


 俺は息を切らしながら言った。


「少し……黙ってくれ。頭が割れそうだ」


 誰も何も言わなかった。


 沈黙。


 その沈黙の中で、俺は右目を押さえた。


 銀色の部分は、まだ熱を持っていた。


 だが、さっきよりは少し落ち着いている。


 いや、落ち着いたというより、馴染んだ。


 その言葉が浮かんで、吐き気がした。


 馴染むな。


 俺の顔だ。


 勝手に住み着くな。


 心の中でそう叫んでも、銀色のものは何も答えない。


 ただ、右目の奥で脈打っている。


 ずきん。


 ずきん。


 遠くで、蟻の脚音がした。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 その音に反応するように、銀色の筋がわずかに光った。


 澪がそれを見た。


 久我も見た。


 千歳も、陽太も、名前も知らない生存者達も。


 全員が見た。


 俺の顔に走る銀色を。


 俺の中に入り込んだ何かを。


 俺はその視線を浴びながら、ひどく寒くなった。


 地下だからじゃない。


 人間の群れの中にいるのに、自分だけ少し外へ押し出された気がした。


「灰原玲司さん」


 澪が言った。


 フルネームだった。


 この地下で、俺をそんなふうに呼ぶ人間はいない。


 だから、妙に耳に残った。


「聞こえますか」


「……聞こえてる」


「あなたは、ここにいます」


「……」


「今は、それだけ考えてください」


 俺は澪を見た。


 右目ではない。


 左目で。


 必死に、人間の目で見ようとした。


 澪は震えていた。


 でも、逃げていなかった。


 その事実だけが、俺をぎりぎりこちら側に繋ぎ止めていた。


「……俺、どうなるんだ」


 小さく聞いた。


 澪は答えられなかった。


 当然だ。


 分かるはずがない。


 けれど、彼女は俺の肩に手を置いたまま、こう言った。


「分かるまで、見ます」


 その言葉に、俺は笑いそうになった。


 医療担当らしい。


 分からないから逃げるのではなく、分かるまで見る。


 強い。


 怖いくらい強い。


 俺にはできない。


 俺はただ、右目の奥で光る銀色を感じながら、壁にもたれていた。


 遠くで蟻の脚音が遠ざかる。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 その音を、俺の中の何かが追っていた。


 逃げるように。


 憎むように。


 殺したがるように。


 そして、その感情が俺のものではないことだけは、なぜか分かった。


 それが、一番怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ