第3話 天井の銀
眠りは浅かった。
当たり前だ。
硬い床。
湿った毛布。
腹の底に残った恐怖。
耳の奥にこびりついた蟻の脚音。
こんな環境でぐっすり眠れる奴がいたら、そいつは大物か、もう人間を半分やめている。
俺はもちろん小物なので、何度も目が覚めた。
「……ん」
誰かの咳。
水音。
寝返りの音。
遠くの振動。
そのたびに、意識が浮かび上がる。
目を開ける。
暗い。
何もない。
また目を閉じる。
それを繰り返していると、自分が眠っているのか、ただ目を閉じて横になっているのか分からなくなってくる。
たぶん、地下で生きる人間の睡眠は、睡眠というより一時停止だ。
完全には落ちない。
いつでも逃げられるように、意識の端だけを残している。
便利なようで、全く休まらない。
人間の体はそういう仕様で作られていないと思う。
製造元に苦情を入れたい。
ただし、今の世界では神様も蟻に食われている可能性がある。
「……うぅ」
近くで誰かが呻いた。
怪我人の男だ。
名前は知らない。
旧芝浦保守区画には、名前を知らない人間が何人もいる。
同じ場所に寝て、同じ水を分け、同じ蟻の脚音に怯えているのに、名前までは知らない。
薄情だと思うかもしれない。
でも、名前を覚えると、死んだ時に重くなる。
それを避けている自分がいる。
最低だ。
最低だが、そうでもしないと、この世界では心がもたない。
「水……少し……」
男が掠れた声で言った。
「待ってください。今、持ってきます」
千歳の声がした。
暗がりの中で、小さな足音が動く。
「多く飲ませるなよ」
誰かが低く言った。
「残り、少ないんだから」
「でも、熱があるんだろ」
「全員きついんだよ……」
「子供の分は残してくれよ」
寝床溜まりのあちこちから、小さな声が漏れる。
誰も責めたいわけじゃない。
でも、水が減れば不安になる。
食料が減れば苛立つ。
怪我人を助けたい気持ちと、自分が生きたい気持ちが、狭い地下でぶつかっている。
人間の善意は、腹が減るとすぐ軋む。
悪意より先に、善意が限界を迎える。
嫌な発見だ。
「少しだけです」
千歳が言った。
「ゆっくり飲んでください」
「……すまねぇ」
「謝らないでください」
その声を聞きながら、俺は毛布の中で目を閉じていた。
起き上がった方がいいのかもしれない。
何か手伝えることがあるかもしれない。
でも、体が動かなかった。
東京駅地下蟻道から戻ってきた後、全身が鉛みたいに重い。
いや、鉛なんて持ったことはない。
たぶん重いものの代表として脳が勝手に出しているだけだ。
今の俺なら、濡れた段ボールでも十分重い。
情けない。
「灰原さん」
小さな声がした。
「……んぁ」
目を開けると、澪がしゃがんでいた。
手には小さな布と、今日持ち帰った消毒液がある。
「寝てました?」
「寝てた。たぶん」
「たぶんですか」
「この世界は全部たぶんだ」
「便利に使いすぎです」
「で、何」
「腕、見せてください。さっき擦ってました」
「大丈夫だって」
「確認します」
「拒否権は?」
「ありません」
「医療独裁だ」
「患者が言うことを聞かないので」
「だから患者じゃないって……」
俺はしぶしぶ腕を出した。
澪は小さな懐中電灯の光を布で絞り、俺の袖をめくる。
肘のあたりが赤く擦れていた。
八重洲巣材壁の隙間を抜けた時にやったのだろう。
痛みはほとんどない。
こういう小さな傷は、後になってから痛む。
人生もそうだ。
大きな不幸より、小さな嫌なことの蓄積で精神が削れる。
「少し染みます」
「え、待っ――」
澪が消毒液をつけた布を押し当てた。
「ぃだっ!」
「声、抑えてください」
「抑えた結果がこれだよっ」
「大げさです」
「医療担当はすぐそう言う……!」
澪は慣れた手つきで傷を拭いた。
手早い。
丁寧だ。
そして容赦がない。
消毒液が傷に染みるたび、俺の魂が少しだけ体から出ていきそうになる。
「くっ……うぅ……」
「我慢してください」
「してる。かなりしてる」
「子供達の方が我慢できます」
「比較対象が強すぎるだろ……」
澪は包帯ではなく、布を細く裂いたものを軽く巻いた。
包帯は貴重だ。
今日持ち帰ったとはいえ、こんな擦り傷に使えるほど余裕はない。
俺の腕より、備蓄の方が大事。
分かっている。
でも少し悲しい。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
「どういたしまして」
澪はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
疲れている。
目の下に薄い影がある。
今日、外に出たのは俺だけじゃない。
澪だって見たのだ。
東京駅地下蟻道を。
働き蟻の列を。
八重洲巣材壁を。
人間の街が別の生き物の通路に変わった光景を。
「澪」
「はい?」
「怖かったか」
聞いてから、少し後悔した。
馬鹿な質問だ。
怖くないはずがない。
けれど、澪は少しだけ目を伏せてから答えた。
「怖かったです」
「だよな」
「でも、灰原さんが前にいたので」
「俺?」
「道を知っている人が前にいると、少しだけ安心します」
「俺は道しか知らないぞ」
「それで十分です」
「久我と同じこと言うなよ……」
「久我さんよりは優しく言ったつもりです」
「それはそう」
俺は小さく笑った。
澪も、ほんの少しだけ笑った。
地下の暗がりの中で、その笑いはやけに小さく、やけに貴重に見えた。
「……楽しそうだな」
低い声がした。
久我だった。
少し離れた場所に立っている。
懐中電灯は点けていない。
暗がりの中にいるせいで、表情はよく見えなかった。
ただ、声だけは妙にはっきりしていた。
「楽しくはない」
俺は答えた。
「消毒で魂が削られてたところだ」
「そうか」
久我は短く言った。
それから澪を見る。
「朝倉。怪我人の方は?」
「今、千歳さんが水を。あとで熱を確認します」
「そっちを優先しろ」
「もちろんです。でも灰原さんも外に出たので、確認は必要です」
「擦り傷だろ」
「擦り傷から悪化することもあります」
「……そうかよ」
久我の声が少し硬くなる。
嫌な沈黙が落ちた。
俺は毛布の中で、妙な居心地の悪さを覚えた。
何だこれ。
俺が怒られているのか。
澪が怒られているのか。
それとも、久我が勝手に何かを怒っているのか。
どれだ。
どれでも面倒くさい。
「久我さん」
澪が静かに言った。
「灰原さんは今日、物資を見つけてくれました」
「分かってる」
「なら……」
「分かってると言った」
久我の声が少し強くなった。
近くで誰かが息を呑む気配がした。
寝床溜まりの空気が、また硬くなる。
「おい、声……」
「蟻に聞こえるぞ」
「やめろよ、こんなところで……」
名も知らない生存者達が、小さく囁く。
久我はその声に気づいたのか、深く息を吐いた。
「……悪い。見張りに戻る」
そう言って、久我は背を向けた。
その背中を見て、俺は何となく思った。
久我は俺が嫌いなのだろう。
たぶん、前から。
ただ、今日それが少し分かりやすくなっただけだ。
まあ、俺だって俺みたいな奴がいたら、あまり好きにはならない。
口は悪い。
やる気は薄い。
でも地図と通路には詳しいから、妙に使える。
そういう人間は、たぶん上に立つ奴からすると扱いづらい。
だから久我が俺を嫌うのは分かる。
分かるが、納得はしたくない。
人間の感情とは面倒なものだ。
蟻のように触角で全部済ませられたら楽なのに。
いや、絶対嫌だな。
触角はいらない。
「灰原さん」
澪が声を落とした。
「すみません」
「何が」
「今の……」
「澪が謝ることじゃない」
「でも」
「久我が機嫌悪いのはいつものことだろ」
「そう、ですけど」
「俺も口が悪いしな」
「それもそうです」
「そこは否定しろよ」
「嘘はよくないので」
「医療担当の倫理が痛い」
澪が少しだけ笑った。
その笑いを見て、俺はまた少し眠くなった。
安心した、というほど立派なものじゃない。
ただ、さっきまで胸に刺さっていた嫌な空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「寝てください」
澪が立ち上がる。
「澪は?」
「水の配分を確認したら寝ます」
「それ、寝ないやつの言い方だろ」
「灰原さんに言われたくありません」
「ぐぅの音も出ない」
「今、出ましたよ」
「今のはうめき声だ」
澪は、ふっ、と息だけで笑った。
それから、寝床溜まりの奥へ戻っていく。
俺はその背中を見送って、もう一度横になった。
天井を見る。
配管が何本も走っている。
暗闇の中で、黒い線のように重なっていた。
ぽたん。
水音。
さっきより近い。
いや、気のせいかもしれない。
疲れていると、音の距離感はよく分からなくなる。
俺は毛布を鼻先まで引き上げた。
湿った匂いがした。
「……寝ろ、俺」
小さく呟く。
自分に命令して寝られるなら、人間は苦労しない。
それでも目を閉じた。
しばらく、意識が落ちた。
どれくらい眠ったのかは分からない。
五分かもしれない。
一時間かもしれない。
地下では時間が伸びたり縮んだりする。
腹の減り具合と体の痛みだけが、雑な時計の代わりだ。
次に目が覚めたのは、冷たいものが頬に落ちたからだった。
「……ん」
水だ。
そう思った。
天井の配管から漏れた水。
それ自体は珍しくない。
旧芝浦保守区画は古い。
どこかしらが常に漏れている。
人間関係と同じだ。
放っておくと、じわじわ悪化する。
「ちっ……」
俺は顔をしかめ、手の甲で頬を拭った。
ぬるくない。
冷たくもない。
妙な感触だった。
水にしては、重い。
油にしては、さらりとしている。
「……何だ?」
目を開ける。
暗い。
何も見えない。
ただ、頬に触れた手の甲が、かすかに光ったような気がした。
「は?」
寝ぼけているのか。
俺は顔の近くに手を寄せる。
暗闇の中で、手の甲に何かがついていた。
水滴。
いや、水滴のはずだった。
けれど、それは黒ではなく、透明でもなく、薄く銀色に光っていた。
「……おいおい」
声が掠れた。
銀色の水。
そんなものがあるか。
水道管から銀色の水が出るなら、東京都は崩壊前からだいぶ問題を抱えていたことになる。
いや、今さら東京都の水質管理に文句を言っても仕方ない。
俺は指先でそれを拭おうとした。
銀色の雫は、指の腹に移った。
水なら広がる。
油ならぬめる。
けれど、それは小さな玉のまま、皮膚の上で震えていた。
「……動いた?」
小さく呟いた瞬間、自分の声がやけに大きく聞こえた。
まずい。
誰かが起きる。
いや、起きてもらった方がいいのかもしれない。
でも、銀色の水が動いたから起きてくれ、と言われた側の気持ちを考えてみろ。
俺なら嫌だ。
疲れてるんだよ、寝かせろ、と言う。
つまり、俺も黙るべきだ。
そういう結論にした。
したかった。
ぽたん。
また落ちた。
今度は毛布に。
「っ」
俺は息を止めた。
毛布の上に、銀色の点ができている。
暗闇の中で、かすかに光っている。
それは水滴のように布へ染み込まなかった。
丸いまま。
小さく震えたまま。
そこにある。
「なんだよ……これ」
喉が乾いた。
水を飲みたい。
でも今、目の前にある液体は絶対に飲んではいけないものに見える。
飲んだら死ぬ。
いや、死ぬだけならまだいい。
もっと変なことになりそうな気がする。
人間が本能で避けるべきものというのは、たぶんこういうものだ。
俺はそっと上半身を起こした。
天井を見る。
配管の影。
錆。
剥がれた断熱材。
その継ぎ目から、何かが滲んでいる。
銀色。
水ではない。
金属のように光りながら、液体のように垂れている。
「嘘だろ……」
声が勝手に漏れた。
叫ぶべきだ。
久我を起こすべきだ。
澪を呼ぶべきだ。
分かっている。
けれど、声が出ない。
恐怖というのは、必ずしも大声になるわけではない。
本当に訳が分からないものを見ると、人間はまず黙る。
脳が、これは何だ、と処理しようとして詰まる。
俺はまさに詰まっていた。
ぽたん。
銀色の雫が、また落ちた。
俺の毛布の上。
そして、その雫が、すっとこちらへ寄った。
「……は?」
寄った。
間違いなく、俺の方へ。
床の傾きで転がったわけじゃない。
水が流れたわけでもない。
それは、自分の意思があるみたいに、布の繊維の上を這った。
「う、うそだろ……っ」
俺は後ずさろうとした。
だが、背中には壁。
狭い。
寝床溜まりは狭い。
逃げる空間がない。
こんな時まで住宅事情が足を引っ張る。
ふざけるな。
遠くで、また蟻の脚音がした。
かつ。
かつ。
かつ。
低い振動が、床から背中へ伝わる。
その瞬間、天井の銀色が震えた。
まるで、その音に怯えたみたいに。
いや。
怯えた?
液体が?
「……お前、何なんだよ」
当然、返事はない。
銀色の雫は、毛布の上で小さく震えている。
それから、ゆっくりと俺の手の方へ伸びた。
液体のはずなのに、細い糸のようになって。
「っ、来るな……!」
俺は反射的に手を引いた。
その拍子に、肘が壁に当たる。
ごん、と鈍い音。
「いっ……!」
「ん……?」
近くで誰かが寝返りを打った。
まずい。
起きる。
いや、起きてくれた方がいいのか。
どっちだ。
俺が混乱している間に、天井からまた銀色の雫が落ちた。
今度は、俺の胸のあたりに。
「ぐっ」
服に落ちたそれは、布に染み込まなかった。
表面で丸まり、震え、そして上へ這った。
首元へ。
顔へ。
「や、やめ……」
手で払おうとした。
指先に触れる。
その瞬間。
びりっ、と神経を直接撫でられたような感覚が走った。
「っぁ……!」
痛い、というより、気持ち悪い。
冷たいのに熱い。
重いのに軽い。
外から触れているのに、内側を撫でられているような、訳の分からない感覚。
俺は息を詰まらせた。
銀色のものは、俺の指先から離れた。
だが、消えない。
毛布の上。
服の上。
天井の配管の継ぎ目。
そこに、いくつもの銀色がある。
ぽたん。
ぽたん。
ぽたん。
水音ではない。
そう分かった。
これは水漏れじゃない。
何かが、天井から落ちてきている。
俺を見つけたみたいに。
「灰原さん……?」
澪の声がした。
低く、眠そうで、それでも不安を含んだ声。
まずい。
起きた。
いや、助かったのかもしれない。
「澪……」
俺は声を出そうとした。
だが、その前に、天井から大きな銀色の塊が垂れた。
水滴ではない。
拳ほどの、銀色の液体。
それが、ゆっくりと伸びて。
俺の顔の真上で、震えた。
「……あ」
間抜けな声が出た。
澪が息を呑む音が聞こえた。
「灰原さん、それ……」
俺は動けなかった。
動けば落ちる。
動かなくても落ちる。
どちらにせよ、最悪だ。
銀色の塊が、天井から離れた。
ゆっくりと。
まるで時間が鈍くなったみたいに。
俺の視界いっぱいに、銀色が広がる。
「――っ」
叫ぶより先に。
それは、俺の顔へ落ちてきた。




