第1話 地下で眠る
地上は、もう人間のものじゃない。
それを忘れたやつから死ぬ。
地上に出れば、空が見える。太陽がある。風がある。かつて人間が当たり前みたいに歩いていた道路があり、駅があり、コンビニがあり、信号があり、ビルの窓に朝日が反射していた。けれど今、その全部は巨大蟻のものになった。アスファルトの割れ目から黒い脚が覗き、地下鉄の入口には巣材が盛られ、オフィス街のガラスには人間ではなく巨大な触角の影が映る。だから俺達は地下で眠る。湿気とカビと油の臭いが染みついた古い設備区画で、薄い毛布にくるまり、息を殺して生きている。
俺の名前は『灰原玲司』。二十四歳。元地下設備保守員。今の仕事は、死なないことだ。
ここは『旧芝浦保守区画』と呼ばれている。正確な施設名は、もう誰も気にしていない。崩壊前は地下設備の点検や補修に使われていた区画で、古い配管、錆びた鉄扉、壊れかけた制御盤、使われなくなった工具棚が残っている。今はそこに二十数人の人間が押し込まれている。水は濾して飲む。食料は探索で拾う。火はほとんど使えない。大きな音も出せない。ここでの贅沢は、今日も蟻が来なかったことを確認してから眠ることくらいだった。
俺の寝場所は『寝床溜まり』の端にある。ブルーシートと段ボールを重ねただけの、寝床と呼ぶには悲しくなる場所だ。天井には配管が走っていて、時々ポタリと水が落ちる。湿気で毛布はいつも重い。寝返りを打つたび、隣の誰かの足に当たる。それでも、地上で眠るよりはましだった。地上には夜がない。あるのは、蟻の脚音と、逃げ場のない明るさだけだ。
「灰原のお兄ちゃん、起きてる?」
小さな声が聞こえた。顔を上げると、灰色のぶかぶかのパーカーを着た『井ノ原陽太』が、毛布の端からこちらを覗いていた。九歳。両親はいない。いつからいないのか、詳しくは聞いていない。聞いても、たぶん誰も幸せにならない。
「寝てた」
「目、開いてるよ」
「寝てても開くことあるだろ」
「ないよ」
陽太は真面目に首を振った。こういう時、子供は妙に正しい。俺はため息をつき、体を起こした。肩が痛い。床が硬いからだ。硬い床に慣れたくなんかなかったが、地下で生きるというのは、慣れたくないものに慣れていくことでもある。
「何だよ。腹減ったのか」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけなら我慢しろ」
「灰原のお兄ちゃんは?」
「俺は常に腹減ってる」
「じゃあ一緒だ」
「一緒にするな。俺の方が深刻だ」
陽太が小さく笑った。その笑い声は、寝床溜まりの中では少しだけ明るすぎた。すぐ近くで『雨宮千歳』がこちらを振り向く。二十代後半。元保育士で、今は子供達の面倒をほとんど一人で見ている。疲れているはずなのに、子供に向ける声だけは柔らかい。
「陽太君、灰原さんを困らせないの」
「困らせてないよ」
「困ってる顔をしています」
「灰原のお兄ちゃん、いつも困ってる顔だよ」
「それは否定できないな」
俺が言うと、千歳は苦笑した。否定してほしかったわけではないが、否定されないのもそれはそれで腹立たしい。陽太はまだ俺の近くにいた。何か言いたそうにしている。子供の「何か言いたそう」は、大抵ろくでもない頼み事に繋がる。
「今日、探索行くの?」
「行く」
「危ない?」
「危なくない探索なんかない」
「じゃあ、気をつけてね」
その普通すぎる言葉に、俺は一瞬返事に詰まった。気をつけてね。地上が終わる前なら、玄関先で聞くような言葉だ。今は地下で、蟻に食われないように出ていく人間へ向けられる言葉になった。
「……まあ、死なない程度に気をつける」
「うん」
陽太は頷いて、千歳のところへ戻っていった。死なない程度に気をつける。自分で言っておいて、ひどく情けない言葉だと思った。けれど、それ以上のことは約束できない。誰かを守るとか、必ず戻るとか、そういう言葉はもう軽く使えない。地上が終わった日に、そういう言葉も一緒に死んだ。
探索班の集合場所は、旧芝浦保守区画の工具棚前だった。古い棚には、使えそうな工具と使えない工具が混ざっている。レンチ、切断しかけのワイヤー、錆びたボルト、ビニールテープ、折れたドライバー。俺は一つずつ確認し、使えるものだけ腰の袋に入れた。地下では武器より工具の方が役に立つ時がある。扉を開ける。配管を塞ぐ。棚を壊す。鳴子を作る。逃げ道を作る。戦えない人間は、戦わないための準備をするしかない。
「灰原さん」
声をかけてきたのは『朝倉澪』だった。二十三歳。元看護学生。黒い髪を肩の辺りで結び、紺色のパーカーを着ている。旧芝浦でまともに手当てらしい手当てができる数少ない人間だ。彼女の手元には、布、消毒液の残り、小さな包帯がある。どれも貴重品だった。
「今日も外に出るんですよね」
「外って言うほど外じゃない。保守通路の先を少し見るだけ」
「それでも危険です」
「ここにいても危険だ」
「それは、そうですけど」
澪は少し眉を寄せた。彼女はよくこういう顔をする。言いたいことはある。でも言葉を選んでいる顔。地下で生きる人間は、大抵言葉を雑にする。余裕がないからだ。澪はその余裕のない場所で、まだ言葉を丁寧に扱おうとしている。それは強さなのか、危うさなのか、俺にはまだ分からない。
「昨日の肩、まだ痛みますか」
「痛いけど動く」
「見せてください」
「今?」
「今です」
「探索前に不吉なことするなよ」
「怪我を放置する方が不吉です」
言い返せなかったので、俺は黙って肩を出した。澪は手早く確認し、包帯の位置を少し直した。指が冷えている。地下暮らしのせいだ。それでも、触れ方は丁寧だった。
「無理はしないでください」
「無理しないと物資は取れない」
「戻ってこられない無理は、無理ではなく自殺です」
「重いな」
「重くていいんです。生きることは」
俺は返事に困った。重くていいんです。生きることは。そんな言葉を、今の世界で真顔で言える人間がどれだけいるのか。たぶん、あまりいない。俺は誤魔化すように工具袋を持ち上げた。
「じゃあ、重い工具持って行ってくる」
「そういう意味ではありません」
「分かってるよ」
本当は、少し分からなかった。
探索班をまとめるのは『久我涼平』だった。二十八歳。元営業職らしい。人前で話すことに慣れていて、声が通る。旧芝浦では自然とリーダーのような立場になっている。本人が望んだのか、周囲が押しつけたのかは知らない。たぶん両方だ。
「今日は西側の保守通路を確認する。目的は電池、工具、食料、布類。深追いはしない。蟻の痕跡があれば即撤退だ」
「了解」
俺は短く答えた。久我の視線が一瞬、俺と澪の間を行き来した気がした。気のせいかもしれない。だが最近、久我は時々そういう目をする。警戒とも違う。苛立ちとも違う。俺には関係ない感情だと思いたい。
見張り扉の前には、空き缶を使った鳴子が吊られている。針金に古い缶を結びつけただけの簡単なものだが、蟻より先に音を拾えるかどうかで生死が変わる。扉の向こうは、旧芝浦外縁の保守通路だ。人間が暮らすには暗すぎる。蟻が歩くには、少し狭い。だからまだ使える。
ギィ、と扉が開いた。
通路の空気は冷えていた。湿ったコンクリート、錆びた鉄、古い油の臭い。俺はライトをつけず、手回し発電の小さな灯りだけを足元に向けた。明るくしすぎると、遠くから見える。暗すぎると、足を踏み外す。地下では何もかも中途半端がいい。強い光も、大きな音も、はっきりした匂いも、全部こちらの居場所を教える。
「灰原、先を見ろ」
「分かってる」
俺は壁の配管に手を添えた。水の流れがある。低い振動。詰まりはない。少なくともこの先の通路が完全に崩れているわけではない。床の水溜まりには、蟻の脚跡らしいものはない。ただし古い擦れ跡はある。いつのものか分からない。分からないものは怖い。地下で怖いもののほとんどは、正体より先に気配だけが来る。
西側の保守通路には、まだ人間の痕跡が残っていた。壁に貼られた注意書き、剥がれた点検表、倒れた台車、誰かが落とした社員証。俺達は台車の下から古い乾電池を見つけ、工具箱から使えるドライバーを拾い、棚の奥から防水シートを引きずり出した。食料は少ない。栄養補助食品の箱が二つ。賞味期限はとっくに過ぎているが、腹を壊すか死ぬかなら、腹を壊す方がまだましだ。
「こっち、配管が濡れてる」
探索班の一人が言った。俺は近づき、天井近くの配管を見上げた。古い水漏れかと思ったが、濡れ方が妙だった。水なら垂れる。油なら粘る。だが、それは配管の継ぎ目に薄く張りつき、非常灯の弱い赤を受けて銀色に光っていた。
「触るな」
俺はすぐに言った。
「水じゃないのか?」
「分からないものには触るな。地下の基本だ」
銀色の滲みは、配管の継ぎ目からにじみ出ているように見えた。金属の光沢があるのに、液体のように揺れている。見ていると、目の奥が変にざわついた。理由は分からない。ただ、嫌な感じがした。
「持ち帰るか?」
久我が言った。
「やめた方がいい」
「使えるものかもしれない」
「使えるか分からないものは、まず危険物だ」
久我は少し考え、頷いた。
「印だけつける。今日は触らない」
俺は壁に小さな傷をつけた。後で見つけられるように。後で見に来るかどうかは分からない。来ない方がいい気もした。探索を続ける間も、俺は何度か後ろを振り返った。銀色の滲みが、暗闇の奥でまだ光っているような気がした。
旧芝浦に戻った時、寝床溜まりはいつも通り薄暗かった。人々が物資を確認し、食料を分け、水を運び、怪我人に布を渡す。陽太が栄養補助食品の箱を見て目を輝かせたが、すぐに千歳に止められていた。久我は物資の配分を指示し、澪は擦り傷を負った探索班の手当てをしている。俺は工具袋を棚に戻し、疲れた体を寝床へ投げた。
「今日は、何か変なものありましたか」
澪が近づいてきた。
「変なものしかない世界だろ」
「そういう返しではなく」
「銀色の濡れた配管があった」
「銀色?」
「水でも油でもなさそうだった。触ってない」
「それは良かったです」
「触るほど馬鹿じゃない」
「灰原さんは、たまに危ないものを確認しに行くので」
「必要だからだ」
「それを無理と言います」
澪はそう言いながら、俺の肩の包帯をもう一度見た。俺はされるがままになった。眠気が強い。探索の後はいつもそうだ。体は疲れているのに、頭だけは危険を探し続けている。地上が終わってから、深く眠れた記憶はほとんどない。
夜になった。旧芝浦保守区画の灯りはさらに落とされ、赤い非常灯だけが細く残る。人々は毛布に潜り、誰も大きな声を出さない。遠くで水が落ちる。ポタリ。配管が鳴る。カン。誰かの寝息。子供の小さな寝返り。俺は天井を見ていた。そこには古い配管が走っている。昼に見た銀色の滲みを思い出した。嫌な感じが、まだ残っている。
考えるな。寝ろ。明日も生きるなら、寝るしかない。
そう思って目を閉じた時、天井のどこかで、かすかな音がした。
ポタリ。
水かと思った。
目を開ける。暗い天井。配管の影。赤い非常灯。何もない。いや、違う。配管の継ぎ目に、小さな銀色の滴があった。昼に見た滲みと同じ光。なのに、ここは寝床溜まりの天井だ。なぜここにある。
体が動かなかった。
銀色の滴が膨らむ。落ちる。ゆっくりと、やけにゆっくりと。
銀色の液体が、俺の右目の上に落ちた。




