第2話 蟻の世界
見張り明けの朝は、最悪だ。
いや、朝と言っていいのかは分からない。
地下にいると、朝も昼も夜も大して変わらない。太陽は見えないし、鳥は鳴かないし、爽やかな風なんてものは換気口の奥で死んだ。
代わりにあるのは、湿気、カビ、鉄臭い水、誰かの寝息、そして時々遠くで響く蟻の脚音である。
これを朝と呼ぶなら、朝に謝った方がいい。
「……ふぁ、あぁ」
俺は鉄扉の横に座ったまま、欠伸を噛み殺した。
噛み殺した、というより、半分くらい漏れた。
終末世界の見張り番としては失格かもしれないが、俺だって人間だ。眠いものは眠い。むしろ眠気があるだけ、まだ人間らしいと言える。
蟻は眠い時、どうしているんだろう。
寝坊する蟻とかいるのか。
いたら少し親近感が湧く。
いや、湧かないな。あいつら普通に人間を運ぶし。
そんな意味のないことを考えていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
「灰原さん…起きてます?」
小声でそう言ってきたのは、千歳だった。
隣には、陽太がいる。
寝起きなのか、髪が少し跳ねていて、毛布を肩に引っかけたまま俺を見ていた。
「起きてる」
「目、半分閉じてますけど」
「これは省エネモードだ」
「しょうえね?」
陽太が首を傾げた。
まずい。
子供に適当なことを言うと、あとで面倒な質問として返ってくる。
「つまり、節約だ」
「何を?」
「気力」
「気力って節約できるの?」
「できる。大人になるとな」
「へぇ…」
納得したような顔をするな。
こんな大人を参考にしてはいけない。
千歳が苦笑する。
「灰原さん、本当に寝てくださいね。顔色、ひどいですよ」
「ひどいのは元からだ」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあ、どの意味だ」
「心配してるって意味です」
「うっ」
やめろ。
真正面から心配されると、俺みたいな人間は返答に困る。
皮肉で返すにも角が立つし、素直に礼を言うには気恥ずかしい。結果、喉の奥で変な声が詰まる。
社会性が弱い生き物は、好意に弱い。
蟻に襲われるより、ある意味こっちの方が厄介だ。
「……ありがと」
「はい」
千歳は少しだけ笑って、陽太の肩に手を置いた。
「陽太君、灰原さんに言うことがあるんですよね?」
「う、うん」
陽太は俺を見た。
目がでかい。
子供の目は、暗い地下でも妙にまっすぐ見えるから困る。
「灰原のお兄ちゃん…死なないでね」
「……お、おう」
重い。
九歳児の朝の挨拶が重すぎる。
おはよう、くらいのテンションで死なないでねと言われる世界。教育に悪いなんてもんじゃない。
「できるだけ死なない」
「できるだけ?」
「最大限努力する」
「それ、大人ができない時に言うやつだって千歳先生が言ってた」
「千歳さん?」
「ご、ごめんなさい…」
千歳が気まずそうに目を逸らした。
教育が行き届いている。
悪い方向に。
「じゃあ、死なない。これでいいか?」
「うんっ」
陽太は少し安心したように頷いた。
約束してしまった。
死なない、なんて、この世界で一番守りづらい約束を。
けれど、まあ。
子供相手に「状況による」なんて答える大人よりは、まだマシだろう。
「灰原ぁ!」
奥から久我の声が飛んできた。
「生存確認だ! こっち来いっ」
「はいはい…」
「はいは一回でいい!」
「はいっ」
久我の声は朝から大きい。
いや、朝かどうか知らないけど。
寝床溜まりの中央では、いつもの面々が集まっていた。
澪、千歳、陽太、久我。
他にも何人かの生存者が、毛布を肩にかけたまま座っている。
そこにいた全員の顔色が悪い。
地下生活で顔色が良い奴がいたら、それはそれで怖いが、それにしても悪い。
特に、食料の残りが少ない時の人間の顔は分かりやすい。
口数が減る。
目が食べ物を探す。
そして、水の入ったペットボトルを見る視線がやや鋭くなる。
人間は腹が減ると、ちゃんと獣に近づく。
できれば知りたくなかった人体の神秘である。
「水は?」
久我が低い声で聞いた。
千歳が小さなメモを開く。
「飲み水は、節約して二日分です。子供と怪我人を優先すると、大人はかなり減らす必要があります」
「食料は」
「乾パンが少し。栄養補助食品が十一本。缶詰が六つ。あと、賞味期限が読めないゼリー飲料が三つ」
「読めないって何だ」
俺が聞くと、千歳は申し訳なさそうに言った。
「表示が擦れていて…」
「なるほど。食品じゃなくて度胸試しだな」
「灰原さんは食べないでくださいね。お腹を壊しそうなので」
「俺の胃腸への信頼、地の底だな」
「地の底に住んでますし…」
「ぐっ」
澪が横から刺してきた。
正論というより、軽い追撃だった。
医療担当なのに攻撃力がある。
そのやり取りを見ていた久我の目が、一瞬だけ細くなった。
ほんの一瞬だ。
すぐにいつもの険しい顔に戻った。
けれど、俺は見てしまった。
久我が澪を見て、それから俺を見たことを。
なんだ、その視線。
俺が何かしたか。
いや、まあ、普段から余計なことは言っている。否定はできない。
でも今のは、そういう苛立ちとは少し違った。
「今日、出る」
久我が言った。
その一言で、空気が沈んだ。
誰も驚かない。
誰も反対しない。
反対できるほど余裕がない。
「また外に出るのかよ…」
毛布をかぶった男が、小さく呟いた。
「昨日も戻ってこなかった奴がいるんだぞ」
別の女が、膝を抱えたまま言った。
「でも、食い物がないだろ」
「子供だけでも残せないのか」
「残すも何も、ここにいたって飢えるだけだ…」
小さな声が、寝床溜まりのあちこちから漏れる。
誰も大声では言わない。
大声を出せば、蟻に聞こえるかもしれない。
いや、蟻がこの距離で人間の声を聞き分けるのかは知らない。
知らないから怖い。
結局、全員が同じことを考えていた。
出れば死ぬかもしれない。
出なければ、確実に弱っていく。
この世界では、選択肢が二つあるように見えて、どちらにも蟻の顎がついている。
水が二日分。
食料も少ない。
このまま旧芝浦保守区画に籠もっていれば、蟻に見つかる前に飢える。
蟻に食われるか、腹を空かせて倒れるか。
選択肢の質が悪すぎる。
「どこへ行くんだよぉ」
「『東京駅地下蟻道』の外縁部だ」
「うぇ…」
思わず声が出た。
東京駅地下蟻道。
その名前を聞いただけで、胃が縮む。
崩壊前の『東京駅』は、人間の流れが集まる場所だった。
新幹線、在来線、地下鉄、地下街、商業施設、オフィス街。人が多すぎて、歩くだけで疲れる場所。
今は違う。
人間の通路は蟻の通路に変わった。
駅構内の壁には巣材がこびりつき、床には泥と破片が積もり、天井には蟻が開けた穴がいくつも口を開けている。
人間が行き先を示すために作った案内板は、蟻にとってただの壁材だ。
中央線はこちら。
新幹線のりばはこちら。
トイレはこちら。
そんな親切な表示の横を、巨大蟻が黙って歩いていく。
世界観の破壊力がすごい。
「無理だろ。あそこはもう蟻の道だぞ」
「だから外縁部だ」
「外縁部でも蟻はいる」
「ここにいても死ぬ」
「うぐっ…」
久我の言い方は乱暴だが、正しい。
正しいから腹が立つ。
澪が地図を覗き込む。
「目的地はどこですか?」
「八重洲側だ。『八重洲巣材壁』の手前に、まだ手つかずの店舗区画がある可能性がある」
八重洲巣材壁。
東京駅八重洲側の地下商業区画が、蟻の巣材で埋め固められた場所だ。
看板、柱、シャッター、ガラス片、ケーブル、コンクリート。
人間が作ったものを、蟻が噛み砕き、唾液のようなもので固め、巨大な壁にしている。
遠目には泥の壁だ。
近くで見ると、元が何だったのか分かる。
それが嫌だ。
店のロゴ。
割れた商品棚。
曲がった椅子。
そして、分からない方が幸せなもの。
「手つかずって言っても、人間が入れなかっただけだろ」
「だから物資が残っている」
「蟻も残っている」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「お前は文句が多いな」
「命がかかってる時くらい文句言わせろっ」
久我が眉間に皺を寄せた。
俺も同じ顔をしていたと思う。
たぶん、俺達は仲が悪いわけではない。
ただ、死にたくない人間同士の会話は、どうしても角が立つ。
「行くのは俺と灰原。それから…」
「私も行きます」
澪が言った。
久我の言葉を遮るように。
「駄目だ」
久我の返事は早かった。
早すぎた。
「怪我人が出た時に、処置できる人間が必要です」
「医療役を外に出す余裕はない」
「戻ってこられなければ、ここに医療役がいても意味がありません」
「危険すぎる」
「危険じゃない場所なんて、もうありません」
澪の声は静かだった。
でも、芯があった。
怖がっていないわけじゃない。
手元を見れば、指がわずかに震えている。
けれど、その震えた手で前へ出ようとする。
俺は、そういう人間が少し怖い。
同時に、少し羨ましい。
「澪さんまで行くのか…?」
誰かが不安そうに言った。
「怪我したら誰が診るんだよ」
「でも、外で怪我したら終わりだぞ」
「灰原が道を知ってるなら、灰原だけでいいんじゃないか?」
「おい、言い方…」
ざわめきが小さく広がる。
その声を聞いて、久我の表情が少し硬くなった。
澪が外へ出ることを、皆が心配している。
その中心に俺の名前が出たことが、久我には気に入らなかったらしい。
知らないよ。
俺だって好きで道に詳しいわけじゃない。
こんな世界で評価されても嬉しくないランキング第一位である。
「……分かった」
久我が折れた。
だが、声は低かった。
「ただし、前には出るな。灰原の後ろだ」
「俺の後ろを安全地帯みたいに言うな」
「お前は道を知っている」
「道しか知らない」
「十分だ」
「蟻は道を知らなくても壁を壊して来るんだぞ」
「黙れ。不安になる」
「俺も不安なんだよ!」
少しだけ、寝床溜まりに笑いが起きた。
すぐに全員が口を押さえる。
笑い声も、地下では音だ。
音は蟻を呼ぶ。
笑うのにも命がけ。
終末世界の娯楽は、本当にコスパが悪い。
久我だけは笑わなかった。
澪が俺の言葉に少しだけ笑ったのを、久我は見ていた。
やめろ。
そういう目で見るな。
俺は別に、誰かを取った覚えはない。
そもそも取るほど何かを持っていない。
財産ゼロ、信用薄め、体力低下中。
俺から奪えるものなんて、見張り当番くらいだ。
出発の準備はすぐ終わった。
持っていく物が少ないからだ。
古い懐中電灯。
錆びたバール。
布で巻いた金属棒。
工具袋。
少しだけ残った水。
それだけ。
武器と呼べるものはほとんどない。
人間は道具がないと弱い。
蟻は丸腰でも強い。
不公平だ。せめて蟻にも腰痛とか寝不足とか人間関係のストレスを与えてほしい。
「行くぞ」
久我が言った。
「気をつけろよ…」
毛布の中の誰かが言った。
「水、少しでもいいから持って帰ってくれ」
「薬もだ。子供が熱出しかけてる」
「無理すんなよ。いや、無理しないと駄目なんだろうけど…」
名も知らない声が、いくつも背中に乗る。
やめてほしい。
責任が重い。
俺の背中はそんなに頑丈じゃない。
でも、聞こえないふりもできなかった。
俺は鉄扉の罠を外し、ゆっくりと扉を開けた。
ぎぃ、と軋む音。
「っ…」
全員が止まる。
呼吸も止まる。
数秒。
何も来ない。
「……はぁ」
俺は小さく息を吐いた。
この世界では、扉を開けるだけで心臓に悪い。
旧芝浦保守区画から東京駅地下蟻道の外縁部へ向かうには、保守用通路をいくつも抜ける必要がある。
崩壊前なら、許可なしで通っただけで怒られる場所だ。
今は怒る人間がいない。
その代わり、見つかったら蟻に食われる。
社会的制裁から物理的捕食へ。
世の中、厳しくなりすぎだ。
「足元、気をつけろ」
俺は小声で言った。
「この先、床が抜けかけてる」
「分かるのか?」
久我が聞く。
「水の流れが変わってる。下が削れてるんだよ」
「細かいなぁ」
「細かいから生きてるんだよ。三回目だぞ」
「覚えている」
「なら褒めろ」
「役に立つ」
「だから道具扱いだって」
澪が後ろで、ふっ、と小さく笑った。
やめろ。
そういう笑い方をされると、少しだけ調子に乗る。
久我が振り返った。
何も言わない。
ただ、俺と澪の間を見る。
見なくていい。
この距離には何もない。
ないはずだ。
少なくとも俺には、そんな余裕はない。
通路を進むにつれて、空気が変わった。
湿った鉄とカビの匂いに、別の臭いが混ざる。
泥。
土。
甘いような、腐ったような臭気。
蟻の巣材の匂いだ。
「うっ…」
澪が小さく口元を押さえた。
「大丈夫か?」
「はい…少し、臭いが」
「慣れない方がいい」
「え?」
「慣れたら、人間として一段階終わる気がする」
「それは…嫌ですね」
「俺も嫌だ」
久我が前を睨んだまま言う。
「無駄口を叩くな」
「無駄口で正気を保ってるんだよ」
「その正気、役に立ってるのか?」
「少なくとも俺には必要だ」
「そうかよ」
やがて、俺達は古い防火扉の前に辿り着いた。
この向こうが、東京駅地下蟻道の外縁部。
人間の地下と、蟻の地下の境目。
俺は扉に耳を当てた。
何も聞こえない。
いや、違う。
遠い。
かなり遠くで、乾いた脚音がする。
かつ。
かつ。
かつ。
「遠い。今なら行ける」
「開けろ」
「言い方ぁ」
俺はゆっくり扉を押した。
隙間から、冷たい空気が流れ込む。
そして、見えた。
かつて地下通路だった場所。
床にはひび割れたタイル。
壁には半分剥がれた案内板。
消えた照明。
その全てに、茶黒い巣材がこびりついている。
人間が作った直線の通路に、蟻が掘った丸い穴が交差していた。
まるで、駅の内側に別の生き物の内臓が生えてきたみたいだった。
「……うわぁ」
澪が息を漏らした。
俺も同じ気持ちだった。
何度見ても、慣れない。
東京駅地下蟻道。
その名前は、正しい。
ここはもう駅ではない。
蟻の道だ。
少し先で、働き蟻の列が通路を横切っていた。
一匹一匹が、人間の腰より高い。
黒い外殻。
長い脚。
左右に開く顎。
触角が空気を撫でるたび、俺の背中がぞわりと冷えた。
働き蟻が、何かを運んでいる。
巣材か。
食料か。
人間のものだった何かか。
見ない方がいい。
見ない方がいいものが、この世界には多すぎる。
「右だ」
俺は声を潜めた。
「左は『丸の内骸道』に繋がる。行ったら終わる」
丸の内骸道。
東京駅丸の内側から伸びる、蟻の主要搬送路。
人間も、動物も、車の部品も、建材も、全部そこを通って運ばれていく。
あそこは通路じゃない。
蟻の胃袋へ続くベルトコンベアだ。
俺達は壁際に沿って進んだ。
光は使わない。
足音も殺す。
息も小さくする。
遠くで、かつ、かつ、と脚音が響くたび、俺達は止まった。
止まる。
待つ。
進む。
また止まる。
これの繰り返しだ。
冒険というより、臆病者の引っ越しである。
「止まれ」
久我が低く言った。
俺達は巣材の影に身を寄せた。
働き蟻の一匹が、こちらへ触角を向けた。
「っ…!」
澪の息が詰まる気配がした。
俺も同じだ。
心臓がうるさい。
どくん。
どくん。
やめろ。
お前の仕事は大事だが、今は少し静かにしてくれ。
触角が揺れる。
空気を撫でる。
ほんの数秒。
いや、もっと長かった気がする。
働き蟻は、こちらへ近づかなかった。
列へ戻り、そのまま通路の奥へ消えていく。
「……はぁっ」
澪が小さく息を吐いた。
「まだ吐くな。全部行ってからだ」
「は、はい…」
「灰原、お前も顔が白いぞ」
久我が言った。
「地下の人間はだいたい白い」
「そういう話じゃない」
「怖いんだよ。察しろ」
俺達は八重洲側へ進んだ。
いくつかの店舗跡を覗く。
コンビニ跡。
薬局跡。
弁当屋跡。
土産物屋跡。
どこも荒らされていた。
商品棚は倒れ、床には割れた瓶や紙くずが散乱している。
使えるものはほとんど残っていない。
人間が持ち去ったのか。
蟻が運んだのか。
どちらにせよ、俺達には遅かった。
「ここも駄目か…」
久我が低く吐き捨てる。
「奥は?」
澪が言う。
「奥に行くほど八重洲巣材壁に近い」
「でも、何も持たずには帰れません」
「分かってる」
分かっている。
分かっているが、足が重い。
進めば進むほど、蟻の世界に近づく。
俺達の知っていた東京の名残が、少しずつ減っていく。
案内板の文字。
割れた床。
曲がったシャッター。
その上にこびりつく、蟻の巣材。
人間の街が、上から塗り潰されているようだった。
やがて、八重洲巣材壁が見えた。
「……でかっ」
思わず声が漏れた。
壁というより、地下通路を塞ぐ巨大なかさぶただった。
茶黒い巣材が、天井から床までびっしりと固まっている。
その中には、看板の破片や金属片が混ざっている。
店のロゴ。
割れたガラス。
白いプラスチック片。
元が何だったのか、分かりそうで分からないもの。
近くに寄ると、鼻の奥が痛くなるような臭いがした。
「この向こうか」
久我が言う。
「たぶん、店舗裏に空間がある。防災備蓄か、バックヤードが残っていれば当たりだ」
「抜けられるのか?」
「普通には無理」
「普通じゃない方法は?」
「あるにはある」
「ならやれ」
「命令が軽いんだよぉ」
俺は工具袋から小さなバールを取り出した。
壁を壊すわけじゃない。
音が出る。
音が出れば蟻が来る。
蟻が来たら死ぬ。
とても分かりやすい。
狙うのは、壁の下に残ったケーブルダクトの隙間だ。
人間ひとりが、腹ばいでようやく通れるくらい。
つまり、俺向き。
悲しい適性である。
「俺が先に行く」
そう言うと、澪が顔を強張らせた。
「危ないです」
「ここにいる時点で全員危ない」
「でも…」
「大丈夫。たぶん」
「また、たぶんですか」
「断言すると怖いだろ」
「たぶんの方が怖いです」
「じゃあ、まあまあ大丈夫」
「全然安心できません」
久我が苛立ったように口を挟んだ。
「澪、下がれ。灰原に構うな」
「構うなって…」
「こいつは通れる。だから行かせる。それだけだ」
その言い方に、少しだけ胸の奥が冷えた。
まあ、間違ってはいない。
俺は通れる。
だから行く。
道具としては正しい使い方だ。
でも、人間は道具扱いされると、ちゃんと嫌な気持ちになる。
意外と繊細なのだ。
「灰原さん」
澪が俺を見た。
「無理なら戻ってください」
「無理じゃなくても戻りたい」
「そういう意味じゃありませんっ」
「分かってる」
俺は腹ばいになり、狭い隙間に体を滑り込ませた。
「ぐっ…狭っ」
巣材が服に擦れる。
床が冷たい。
鼻先に嫌な臭いが近い。
最悪だ。
でも進むしかない。
少しずつ、腕と膝で体を押し込む。
途中、指先に柔らかいものが触れた。
「ひっ」
反射的に手を引っ込めた。
見ない。
絶対に見ない。
この世界には、見た瞬間に心が少し死ぬものが多すぎる。
ようやく向こう側へ抜けた時、俺は床に転がるようにして息を吐いた。
「はぁっ…はぁ…」
そこは、地下商業区画の裏側だった。
壊れた棚。
倒れた段ボール。
割れた照明。
そして、壁際に小さな防災備蓄箱があった。
「……当たりだ」
俺は小さく呟いた。
蓋を開ける。
保存水。
乾パン。
包帯。
消毒液。
アルミブランケット。
俺は一瞬、本気で泣きそうになった。
宝箱だ。
金貨でも剣でも魔法の道具でもない。
水と乾パンと包帯。
それで泣きそうになる人生。
いや、今の俺達には十分すぎる。
「灰原さん?」
隙間の向こうから澪の声がした。
「水がある。食料も少し。医療品も」
「本当ですかっ?」
「ああ」
澪の声が明るくなった。
その声を聞いただけで、少し報われた気がした。
来てよかった。
ほんの少しだけ、そう思ってしまった。
その時。
遠くで音がした。
かつ。
かつ。
かつ。
「……まずい」
俺は全身を固めた。
近い。
かなり近い。
「灰原、戻れっ」
久我の声がする。
分かっている。
分かっているが、手が勝手に保存水を掴んだ。
包帯も。
消毒液も。
全部は無理だ。
欲張れば詰まる。
蟻から逃げる途中に防災備蓄を抱えてダクトに詰まって死ぬ。
そんな死に方、冗談でも嫌だ。
俺は持てる分だけ袋に突っ込み、ダクトへ戻った。
「ぐっ、くそ…!」
狭い。
袋が引っかかる。
背後から脚音が近づく。
かつ。
かつ。
かつ。
音が、巣材壁の向こうで止まった。
「っ…!」
俺は息を止めた。
ダクトの中で、体を固める。
触角が、壁の隙間から伸びてきた。
黒い。
細い。
長い。
俺の鼻先から、ほんの少しの距離。
触角が空気を撫でる。
俺は、心臓にまで黙れと命令した。
無理だった。
どくん。
どくん。
うるさい。
頼むから今だけ死んだふりをしてくれ。
数秒。
数十秒。
触角が引っ込んだ。
脚音が遠ざかる。
かつ。
かつ。
かつ。
「……はぁっ」
俺はようやく息を吐いた。
そのまま必死に体を押し出す。
久我が俺の腕を掴んで引っ張った。
「ぐぇっ」
「声出すな!」
「出るわっ!」
どうにか隙間から抜けた瞬間、澪が俺の腕を取った。
「怪我は!?」
「心が怪我した」
「外傷は?」
「たぶんない」
「たぶんじゃなくて!」
「ない! たぶん!」
「もうっ!」
澪は怒りながらも、俺の腕や肩を確認した。
怒っているのに手つきは丁寧だった。
不思議な人間だ。
久我がその様子を見ていた。
顎に力が入っている。
奥歯を噛みしめているみたいだった。
「……戻るぞ」
久我が言った。
声が、少しだけ低かった。
反対する奴はいなかった。
俺達は来た道を戻る。
保存水数本。
乾パン少し。
包帯と消毒液。
たったそれだけ。
けれど、寝床溜まりに残る人間達にとっては、命を数日延ばすだけの価値がある。
帰り道、俺達は『銀鈴前空洞』の外縁を通った。
かつて待ち合わせ場所だった周辺が崩落し、巨大な空洞になっている場所だ。
天井は高く、上には蟻が開けた縦穴がいくつもある。
人間が集まるために作った場所が、今は蟻が上下に移動するための穴になっている。
俺はそこを見て、改めて思った。
東京はまだある。
駅も、通路も、看板も、地名も残っている。
けれど、それはもう人間のものじゃない。
人間の街は、蟻の世界の中に沈んだ。
俺達はその隙間を、溺れかけの虫みたいに這い回っているだけだ。
虫。
その言葉に、自分で少し笑いそうになった。
蟻から見れば、俺達の方が虫みたいなものなのかもしれない。
弱くて、小さくて、潰しやすい。
嫌な視点だ。
採用したくない。
「灰原、急げ」
「ああ」
俺達は旧芝浦保守区画へ戻った。
鉄扉をくぐった瞬間、寝床溜まりの人間達が一斉にこちらを見た。
千歳が袋を見て、目を見開く。
陽太が小さく叫んだ。
「水だっ!」
「本当に持って帰ってきた…」
「助かったのか?」
「馬鹿、まだ大声出すな」
「包帯もあるぞ。おい、包帯だ」
小さな歓声が、暗い寝床溜まりに広がった。
歓声と言っても、誰も大声ではない。
それでも、さっきまで死んだようだった空気が、少しだけ動いた。
その声だけで、少し報われた気がした。
俺は袋を下ろし、壁にもたれかかった。
「はぁ…っ」
体が重い。
眠い。
怖かった。
疲れた。
帰ってきた。
全部が一度に押し寄せてきて、俺はその場に座り込んだ。
「灰原さん、少し寝てください」
澪が言った。
「今度こそ?」
「今度こそです」
「見張りは」
「久我さんがやります」
「珍しく役に立つな」
「聞こえてるぞ」
奥から久我の声がした。
「聞こえるように言った」
「寝ろ!」
「はいはい」
「はいは一回でいい!」
「はいっ」
俺は毛布のある場所へ戻った。
その途中で、ふと背中に視線を感じた。
振り返る。
久我がいた。
手にした懐中電灯を下げたまま、俺を見ている。
いや、違う。
俺の横にいる澪を見ている。
そして、澪が俺の腕をまだ気にしているのを見て、久我の口元がわずかに歪んだ。
「……何だよ」
「別に」
久我はそう言って、視線を外した。
別に、という言葉ほど信用できないものはない。
特に、こういう世界では。
俺は小さく息を吐いて、毛布のある場所へ戻った。
天井には、古い配管が走っている。
そこから、ぽたん、と水音がした。
「……また漏れてる」
俺はそう呟いた。
暗くて、よく見えない。
ただの水漏れだ。
そう思った。
そう思うしかなかった。
疲れすぎていたし、眠すぎた。
俺は横になり、毛布を肩まで引き上げた。
東京駅地下蟻道から、どうにか生きて帰ってきた。
それだけで、今日の俺は十分働いた。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じる。
天井の配管の内側で。
水ではないものが、音もなく膨らんでいたことなど。
この時の俺は、知るはずもなかった。




