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銀骸の蟻殺し  作者: ふっきゃん
第1章 銀の顔を持つ男

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第1話 地下で眠る


 地上は、もう人間のものじゃない。


 そんなことは、わざわざ誰かに教えられなくても分かっていた。


 というか、教えてくれる誰かが残っているなら、先に助けてほしい。授業形式で世界の終わりを解説されても困る。黒板に「本日の議題・人類終了のお知らせ」とか書かれたら、俺はたぶん泣く。


 俺の名前は『灰原玲司』。


 二十四歳。


 元・地下設備保守員だ。


 黒髪は伸びっぱなしで、前髪は目にかかりかけている。もともと体格がいい方ではなかったが、地下に潜ってからさらに痩せた。鏡なんてろくに見ていないが、たぶん目つきだけは悪くなっている。


 顔色は悪い。


 姿勢も悪い。


 性格も、まあ、良くはない。


 崩壊前なら、夜勤明けの駅裏で缶コーヒーを飲んでいる、どこにでもいる疲れた若い作業員。その程度の人間だった。


 しかも今は元、だ。


 今の肩書は何だろう。


 地下在住無職。


 最悪だ。履歴書に書いたら、書類選考で蟻にも落とされる。


 暦の上では、二〇四二年十一月十八日。


 らしい。


 らしい、というのは、古い腕時計と、まだ辛うじて動いている小型端末の表示がそう言っているだけだからだ。


 地下にいると、日付の意味はかなり薄い。


 朝日を浴びることもない。


 夕焼けを見ることもない。


 曜日も祝日も関係ない。


 月曜日だから憂鬱、なんて贅沢な感情はとっくに死んだ。今の俺達にあるのは、今日蟻に見つかるか、明日まで水がもつか、次に寝た時にちゃんと起きられるか。そのくらいだ。


 地上を捨てて、三度目の冬が近づいている。


 『東京』の空に昼が来ても、俺達は地上へ出ない。


 太陽の光を浴びることより、蟻に見つからないことの方が大事だからだ。


 健康的な生活?


 知らない言葉だ。


 今の健康法は、よく寝て、よく食べて、適度に運動する、ではない。


 蟻の足音が聞こえたら息を止める。


 光を漏らさない。


 物音を立てない。


 怪しい水は飲まない。


 そして、できれば絶望しない。


 最後の一つが一番難しい。


 地上には、巨大な蟻がいる。


 子供の頃、砂場で見た黒い蟻。菓子の欠片に群がって、列を作って、働き者だなんて言われていた小さな虫。


 あれが今では、人間の腰より高い体を持ち、車を引きずり、コンクリートを噛み砕き、人を餌みたいに運んでいく。


 働き者にも限度があるだろ。


 最初に見た時、俺は笑った。


 ははっ、と。


 乾いた声が喉から漏れた。


 笑うしかなかった。


 だって、そんなもの、現実だと思えるわけがない。


 映画でもゲームでもない。夢でもない。ニュースの中の遠い災害でもない。そもそもニュースはもう流れていない。流れているのは地下水と、誰かの鼻水と、死にかけた希望くらいだ。


 俺の目の前で、国道を塞いでいたバスが、黒い蟻の群れに持ち上げられていた。


 中に、まだ人がいた。


 窓の向こうで誰かが叫んでいた。


 助けを求めていた。


 手のひらでガラスを叩いていた。


 どん、どん、どん、と。


 その音だけが、妙に耳に残った。


 俺は動けなかった。


 いや、正確には動いた。


 一歩だけ後ろへ。


 ひゅっ、と喉が鳴った。


 息を吸ったのか、吐いたのかも分からない。


 これが俺という人間の限界である。勇気ある撤退。聞こえはいいが、要するに逃げ腰だ。


 けれど、その声は長く続かなかった。


 蟻の顎が、バスの側面を割ったからだ。


 金属が裂ける音。


 人の声が潰れる音。


 そして、蟻の脚がアスファルトを叩く乾いた音。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 その日から、地上は人間のものではなくなった。


 いや、もしかすると最初からそうだったのかもしれない。


 俺達が勝手に、自分達のものだと思い込んでいただけで。


 ……なんて、悟ったようなことを考えてみたところで、腹が減れば普通にイラつくし、蟻の脚音が聞こえれば普通に漏らしそうになる。


 俺は賢者ではない。


 ただの元・地下設備保守員だ。


 だから俺達は地下で眠る。


 人間が作った地下の、さらに人間が忘れた場所で。


 『旧芝浦保守区画』。


 それが、俺達の隠れ家の名前だった。


 もちろん、そんな立派な看板が出ているわけではない。崩壊前の点検資料に、そう記載されていただけだ。地下鉄の本線から外れた、古い保守用通路のさらに奥。共同溝と排水設備の境目にある、使われなくなった区画。


 一般人は存在すら知らない。


 駅員だって、全員が把握していたか怪しい。


 俺は仕事で一度だけ来たことがある。


 その時は、「こんな場所、二度と来ることないだろ」と思った。


 人生は本当に嫌な伏線を回収してくる。


 壁の塗装は剥がれ、天井には配管が走り、床にはいつから溜まっているのか分からない水たまりがある。


 そこが、今の俺達の家だった。


 家、と呼ぶにはあまりにも狭く、暗く、臭い。


 湿った鉄とカビの匂いが常に鼻の奥にこびりついている。寝返りを打てば肘が誰かの荷物に当たり、咳をすれば全員が一斉にこっちを見る。


 ごほっ、なんて軽く咳をしただけで注目の的。


 崩壊前なら配信者でもなければ味わえない人気ぶりだ。なお、得られるのは好意ではなく「お前、熱あるんじゃないだろうな」という疑惑である。


 この区画の奥に、俺達は毛布や段ボールを敷いて寝ている。


 誰が呼び始めたのかは知らないが、そこはいつの間にか『寝床溜まり』と呼ばれるようになった。


 名前がひどい。


 人間が寝る場所というより、廃材の集積所みたいだ。


 けれど、実態はだいたい合っている。


 人間も、荷物も、希望も、不安も、全部そこに溜まっている。


 それでも、蟻の顎の中よりはマシだ。


 この比較対象が常に蟻の顎なの、本当に人生が低空飛行すぎる。


「灰原あぁ!」


 薄い毛布にくるまっていた俺は、『久我涼平』の声で目を開けた。


「……んぁ」


 変な声が出た。


 寝起きの人間に、人としての尊厳を求めないでほしい。


 久我涼平。二十八歳。


 崩壊前は営業職だったらしい。


 短く刈った黒髪に、角張った顎。目つきは鋭く、声は無駄に通る。地下暮らしで誰もが痩せていく中、久我だけはまだ肩幅が残っていて、立っているだけで人を従わせるような圧があった。


 着ているのは汚れた作業ジャケットだが、なぜか本人だけはスーツを着ている時と同じ顔をしている。


 たぶん、こういう男は世界が終わっても会議を始める。


 実際、この旧芝浦保守区画では、自然と久我がリーダーみたいな顔をしていた。


 俺は、そういうのが得意じゃない。


 人に命令するのも嫌だし、命令されるのも嫌だ。


 ついでに言えば、人と目を合わせるのも得意ではない。


 社会性が蟻より低い。いや、蟻は群れで行動できるから、たぶん俺の負けだ。


 ただ、地下の構造だけは俺が一番知っている。


 それが余計に面倒だった。


 知っている奴は使われる。


 使われる奴は責任を持たされる。


 責任を持たされた奴は、だいたい損をする。


 社会の縮図がこんな地下にもある。人類、そういうところは滅びても変わらない。


 天井は低い。


 配管とケーブルラックが頭上を横切っていて、起き上がる時は少し首を曲げなければならない。最初の頃に何度も頭をぶつけた結果、俺はもう自然と首を傾ける癖がついた。


 人間、追い込まれると成長する。


 できればもっと有意義な方向に成長したかった。


「……もう交代かよぉ」


「二時間経った!」


「嘘だろっ。まだ三十分くらいしか寝てない気がするんだけど…」


「寝られただけありがたいと思えっ」


「うへぇ…ありがたみで吐きそう」


「吐くな! 水がもったいない!」


 久我はそう言って、手に持っていた古い懐中電灯を俺の胸に押しつけてきた。


 胸に当たった瞬間、ひやっ、と冷たさが服越しに伝わる。


「つめたっ」


「うるさい。持て」


「何か動きはぁ?」


「ないっ。上は静かだ」


 久我はそう言ったが、その声に安心した響きはなかった。


 この世界で「静か」は安全を意味しない。


 蟻がいないから静かなのか。


 蟻がいるから、他のものが全部黙ったのか。


 それは、見に行くまで分からない。


 そして見に行った奴は、大抵戻ってこない。


 非常に分かりやすい世界だ。分かりやすくて死にたくなる。


 俺は毛布を肩から剥がし、硬い床に手をついて立ち上がった。


「ぐっ…」


 腰が痛い。


 膝も痛い。


 肩も痛い。


 つまり全部痛い。


 床が硬いからじゃない。いや、それもある。めちゃくちゃある。人類が布団を発明した理由を、俺は毎日全身で理解している。


 けれど、それだけじゃない。


 毎日、逃げて、隠れて、荷物を運んで、息を殺していると、体のあちこちが少しずつ壊れていく。栄養も足りない。睡眠も足りない。清潔さなんて贅沢品だ。


 風呂に入りたい。


 いや、風呂は贅沢すぎる。せめて濡れタオルで体を拭きたい。


 濡れタオル。崩壊前なら「まあ、あると便利だよね」くらいの存在が、今では貴族の宝具みたいに思える。


 崩壊前、俺は地下鉄と地下設備の保守点検の仕事をしていた。


 終電後の駅構内。


 薄暗いトンネル。


 排水ポンプ室。


 非常用通路。


 換気設備。


 配電盤。


 人が使っているのに、人が意識しない場所を歩くのが仕事だった。


 その経験が、今は妙に役に立っている。


 役に立っているのが腹立たしい。


 だって、俺はこんな世界で生き残るために、マンホールの下や配管の裏を覚えたわけじゃない。


 夜勤明けにコンビニで適当な弁当を買って、帰って寝て、休みの日に動画を見て、気づいたら一日が終わっていて、「俺の人生これでいいのか」と思いながらも次の日には忘れる。


 そんなつまらない生活を続けるためだった。


 つまらなくてよかった。


 あんな生活、今なら土下座してでも返してほしい。


 コンビニ弁当でいい。


 いや、コンビニ弁当がいい。


 温めますか、と聞かれて、お願いします、と答えるだけの人生に戻りたい。


「灰原ぁ」


 久我が俺を見た。


「居眠りすんなよ! お前、昨日も見張り中に落ちかけただろっ」


「落ちてない…。目を閉じて考え事してただけだ」


「寝てる奴はだいたいそう言うんだよっ」


「じゃあ、次からは目を開けて寝る」


「ふざけてる余裕があるなら立てっ!」


「立ってるだろぉ」


「気持ちの話だ!」


「気持ちまで立たせるな。眠いんだよ…」


「はぁ…お前なぁ」


 久我は面倒くさそうに舌打ちした。


 昔の会社にもいたな、こういう上司。


 世界が終わっても、人間の面倒くさい部分はしぶとい。蟻より先に絶滅してほしい。


「上の点検口は?」


「閉めたっ。念のため棚も寄せてある」


「排水側はぁ?」


「昨日、お前が塞いだままだ」


「完全には塞いでない。水の逃げ道まで止めると、こっちが水没するっ」


「細かいなぁ」


「細かいから生きてるんだよ」


「へぇへぇ、そうかよ」


 俺はそう返しながら、見張り場所へ向かった。


 といっても、同じ区画の端にある古い鉄扉の前だ。


 この鉄扉の向こうには、狭い保守用通路が続いている。その先に階段があり、さらに上へ行けば、地下街の裏側に出る。


 もちろん、普段は出ない。


 出るのは食料や水を探す時だけ。


 出るたびに誰かが死ぬ。


 そういう場所だ。


 人生ゲームなら完全にマスの設定が狂っている。


「食料を探しに行く。誰かが死ぬ」


 そんなマスばかりのボードゲーム、誰が買うんだ。


 鉄扉の前には、いくつかの空き缶と金属片を吊るした簡易の罠がある。扉が開けば音が鳴る仕組みだ。子供の工作みたいなものだが、ないよりはマシだった。


 蟻は人間の罠を理解する。


 少なくとも、何度も同じ手は通じない。


 だから、罠は複雑である必要はない。むしろ、見つけられる前にこちらが気づければそれでいい。


 罠というより、負ける前提の目覚まし時計だ。


 俺は鉄扉の横に腰を下ろし、膝を抱えた。


「ふぅ…」


 真っ暗だ。


 遠くで、水が落ちる音がする。


 ぽたん。


 ぽたん。


 一定ではない。


 どこかの配管から水が漏れているのだろう。


 この区画は古い。崩壊前から老朽化が問題になっていた。補修予定はあったはずだが、その前に世界の方が壊れた。


 まあ、よくある話だ。


 今は世の中のほとんどが「補修予定だった」で終わっている。


 道路も。


 駅も。


 家族も。


 人生も。


 全部、補修予定だった。


 俺は耳を澄ませた。


 水音。


 誰かの寝息。


 小さな咳。


 毛布が擦れる音。


 それから、もっと遠く。


 地上なのか、地下街なのか分からない場所から、低い振動が伝わってくる。


 かすかに。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


「っ…」


 俺は息を止めた。


 喉の奥が、ひゅっと細くなる。


 しばらく待つ。


 音は遠ざかった。


「……はぁ」


 たぶん、蟻だ。


 一匹か、複数かは分からない。


 大型の兵隊蟻なら、一匹でも十分すぎる。働き蟻の列なら、逆に数が多くて避けられない。


 つまり、どっちでも嫌だ。


 見に行く気はない。


 見に行って何かが分かったところで、俺にできることなんて少ない。


 逃げる方向を決めるくらいだ。


 その逃げる方向が残っていれば、の話だが。


「灰原さん…」


 小さな声がした。


「うぉっ」


 思わず肩が跳ねた。


 振り向くと、『朝倉澪』が立っていた。


 朝倉澪。二十三歳。


 崩壊前は看護学生だったらしい。


 肩にかかるくらいの黒髪を、後ろで雑に結んでいる。顔立ちは派手ではないが、目元が涼しく、暗い地下でも妙に落ち着いて見える。着ているのは、くたびれた紺色のパーカーと、膝の擦り切れた作業ズボンだ。


 白衣なんて当然ない。


 それでも、怪我人の前にしゃがむと、不思議とちゃんと医療役に見える。


 人間、肩書きより目つきなのかもしれない。


 俺は肩書きも目つきも終わっているので、たぶん駄目だ。


 澪の手には、古いペットボトルがあった。


「す、すみません…驚かせました?」


「驚いてない。心臓が避難しただけだ」


「それは驚いてます」


「水です。少しだけ…」


「いい。見張り中に飲むとトイレが近くなる」


「それ、脱水の人がよく言う言い訳ですっ」


「俺、患者じゃないんだけど」


「今ここにいる人は、全員半分患者みたいなものです」


 澪はそう言って、俺の隣にしゃがんだ。


 医者ではない。


 本人もそれを何度も言う。


 けれど、この場所では消毒の仕方を知っているだけで十分すぎるほど貴重だった。


 擦り傷を放っておけば膿む。


 熱を出せば死ぬ。


 腹を壊せば動けなくなる。


 清潔な水も薬もない世界では、小さな不調がそのまま命取りになる。


 現代医療が崩壊した結果、人間は「手を洗う」という行為の偉大さを再認識した。


 できれば世界が終わる前に気づきたかった。


 だから澪は、俺達の中ではかなり重要な存在だった。


 本人はその自覚があるのかないのか、いつも淡々としている。


 怖がっていないわけじゃない。


 前に一度、蟻の脚音が近づいた時、彼女の手が震えているのを見たことがある。


 でも彼女は、震えた手で包帯を巻いた。


 それを見てから、俺は澪を少し怖いと思っている。


 化け物みたいに強い、という意味ではない。


 怖いのに動ける人間は、怖い。


 俺にはそれが難しいからだ。


「陽太は寝たか?」


「はい。千歳さんが見てくれています」


 陽太。


 正しくは、『井ノ原陽太』。


 九歳の少年で、崩壊の初期に母親と離れ、この旧芝浦保守区画へ流れ着いた子供の一人だ。


 痩せた体に、少し大きすぎる灰色のパーカーを着ている。前髪は目にかかるほど伸びていて、寝起きの時はよくあちこち跳ねている。


 顔立ちはまだ幼い。


 けれど、目だけは妙に大人びている。


 子供は何も分からない、なんて大人はよく言う。


 あれは嘘だ。


 子供は分かっている。


 大人が隠そうとしている恐怖も、食料が減っていることも、自分の母親がもう戻ってこないかもしれないことも、たぶん分かっている。


 分かっていないふりをしているだけだ。


 それが余計にきつい。


 千歳。


 こちらも正しくは、『雨宮千歳』。


 二十代後半の女性で、崩壊前は保育士をしていたらしい。


 柔らかい丸顔で、いつも薄茶色の髪を低い位置で一つに結んでいる。服装は地味で、汚れたベージュの上着を羽織っていることが多い。声は小さいが、不思議と子供にはよく届く。


 今はこの区画で、子供達の面倒を見る役を自然と引き受けている。


 本人は「できることをしているだけです」と言うが、泣く子供をなだめ、配給の順番を守らせ、夜中に母親を呼ぶ声に付き合える人間なんて、そう多くない。


 俺なら三日で胃に穴が空く。


 いや、今の食生活だと、穴が空く前に胃そのものが縮みそうだが。


「あいつ、また泣いてた?」


「今日は泣いていません」


「ならよかった…」


「灰原さんのことを心配していました」


「俺ぇ?」


「見張りばかりで寝てないから、灰原のお兄ちゃん、死んじゃうんじゃないかって…」


「俺はそんな簡単には死なない」


「本当ですか?」


「……たぶん」


「たぶん、ですか」


「この世界で断言できることなんか少ないんだよ」


 この時の俺は、まだただの人間だった。


 顔も腕も普通の人間のものだった。


 ただ、地下の照明が乏しいせいで顔色が悪く見えることはある。もしくは単純に、寝不足と栄養不足で死人みたいな顔をしていたのかもしれない。


 陽太の心配はありがたい。


 ありがたいが、九歳児に本気で心配される二十四歳というのは、なかなか情けないものがある。


 世界が壊れても、子供は時々よく分からないことを言う。


 それが少しだけ救いになる。


 少なくとも、大人の「頑張ろう」よりは効く。


 頑張ってどうにかなるなら、俺はとっくに地上で焼肉を食っている。


「灰原さん…」


「何」


「無理していませんか?」


「無理してる」


 俺は即答した。


「えっ」


 澪が少し黙った。


「……そこは普通、大丈夫って言うところでは?」


「大丈夫って言ったら大丈夫になる世界なら、今頃みんな地上でラーメン食ってる」


「ラーメン、食べたいですね…」


「食べたいなぁ。背脂多めのやつ」


「私は塩がいいです」


「この状況で塩ラーメン選ぶの、なんか澪っぽいな」


「どういう意味ですかっ」


「いや、なんとなく」


「むぅ…」


 小さな会話だった。


 どうでもいい会話。


 ラーメンの話なんてしても、ラーメンは出てこない。


 出てこないどころか、麺を茹でる水すら惜しい。スープなんて夢のまた夢。チャーシューに至っては前文明の遺物だ。


 それでも、こういう話をしている時だけ、自分がまだ人間の形を保っている気がした。


 蟻の数。


 食料の残量。


 水の確保。


 怪我人の状態。


 逃げ道。


 死体の処理。


 そんな話ばかりしていると、頭の中まで湿った地下みたいになっていく。


 だから、ありもしないラーメンの話は必要だった。


 たぶん。


「灰原ぁ!」


 奥から久我の声が飛んできた。


「余計な話をするな! 見張りに集中しろっ」


「はいはい」


「はいは一回でいい!」


「はいっ」


「ちっ…」


 面倒くさい上司かよ。


 澪が小さく笑った。


 本当に小さく。


 ふっ、と息だけが漏れるような笑い方だった。


 すぐに真面目な顔に戻ったが、俺は見逃さなかった。


「今、笑った?」


「笑ってません」


「笑っただろ」


「気のせいですっ」


「医療担当が嘘つくなよ」


「患者じゃない人に言われたくありません」


「だから患者じゃないって」


 そんなやり取りをしていると、少しだけ眠気が遠のいた。


 澪はペットボトルを俺に渡す。


「少しだけでも飲んでください」


「……分かった」


 俺は受け取り、一口だけ飲んだ。


「ん…」


 ぬるい水だった。


 少し鉄臭い。


 けれど、喉を通ると体が水分を思い出したように反応した。


 情けないほど美味かった。


 人間、追い詰められると水で感動できる。


 たぶん、ここで涙を流せば感動的な場面だったのだろうが、俺の体にそんな余分な水分はない。


「ありがとう…」


「どういたしまして」


 澪は立ち上がろうとして、ふと天井を見た。


「……この上、何が通っているんですか?」


「上?」


「配管が多いですよね」


「ああ。古い排水系と、たぶん昔の冷却水。あとケーブルラック。生きてる電気はほとんどないと思うけど」


「漏れたりしませんか…?」


「もう漏れてるだろ。さっきから水音してるし」


「危なくないんですか?」


「危ない」


「……」


「でも、今すぐ崩れるほどじゃない。たぶん」


「たぶん…」


「この世界の安全確認は全部たぶんだ」


「はぁ…怖いですね」


「怖いに決まってる」


 澪は不安そうに天井を見た。


 俺もつられて見上げる。


 暗闇の中、何本もの配管が影になっている。


 太いもの、細いもの。錆びたもの。途中で切られているもの。断熱材が剥がれて、白い綿みたいなものが垂れているもの。


 その中の一本。


 俺の寝床の真上を通る、古びた配管。


 ただの水漏れ配管。


 古くて、錆びて、いつ壊れてもおかしくない、旧芝浦保守区画では珍しくもない設備のひとつ。


 もちろん、この時の俺は何も知らない。


 ただ、天井から落ちる水音が、さっきより少しだけ近く聞こえた。


 ぽたん。


 ぽたん。


 それだけだ。


「灰原さんは、地下に詳しいんですね」


「仕事だったからな」


「怖くなかったんですか? 昔から地下に入るの」


「昔は怖くなかった。ちゃんと照明もあったし、無線も通じたし、上に戻ればコンビニもあった」


「今は?」


「怖いに決まってるだろ」


 俺は鉄扉の向こうを見た。


「でも、地上よりはマシだ」


 澪は何も言わなかった。


 その沈黙が、妙にありがたかった。


 励まされても困る。


 大丈夫だと言われても困る。


 この状況で前向きな言葉を並べられると、逆に腹が立つ。


 大丈夫じゃないから、俺達はこんな地下で息を殺しているのだ。


 やがて、奥から子供の寝言が聞こえた。


「……おか、あさん…」


 陽太だろう。


 母親を呼んでいるような声だった。


 この場所に、陽太の母親はいない。


 蟻に運ばれていくのを、誰かが見たらしい。


 本人にはまだ、はっきりとは言っていない。


 言えるわけがない。


 言ったところで何になる。


 死んだ人間は帰ってこないし、蟻に持っていかれた人間の遺体はほとんど見つからない。


 地上には墓を作る場所もない。


 弔いなんて、今では贅沢な行為だ。


 人間は、死者を悼む余裕すら蟻に喰われた。


「灰原さん…」


 澪が低い声で言った。


「はい」


「無理してでも、寝てくださいね。次の交代が来たら」


「寝るよ」


「本当に?」


「本当に」


「信用してませんっ」


「俺も自分を信用してない」


「そこは信用してくださいっ」


「検討します」


「もう…」


 澪は少しだけ呆れた顔をして、奥へ戻っていった。


 俺はその背中を見送る。


 こんな世界になってから、人の背中を見るのが増えた気がする。


 逃げる背中。


 置いていく背中。


 置いていかれる背中。


 戻ってこない背中。


 澪の背中は、細いのに折れそうには見えなかった。


 不思議なものだ。


 俺よりずっと小柄なのに、俺よりずっと強く見える時がある。


 俺は懐中電灯を消し、暗闇に目を戻した。


 また、水音がする。


 ぽたん。


 ぽたん。


 ぽたん。


 少し、音の間隔が短くなった気がした。


「……ん?」


 気のせいか。


 天井を見上げる。


 配管の影。


 錆。


 剥がれた断熱材。


 そこから何かが落ちている。


 水だろう。


 そう思った。


 今は、そう思うしかなかった。


 俺は膝を抱え直し、鉄扉の向こうに耳を澄ませた。


 遠くで蟻の脚音がした。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


「っ…!」


 乾いた音。


 地上を奪った音。


 東京を蟻の世界に変えた音。


 俺は目を閉じそうになり、慌てて開いた。


「寝るな…寝るな、俺…」


 見張り中に寝るな。


 ここで寝たら、俺だけでなく全員が死ぬ。


 見張りという仕事は単純だ。


 起きているだけ。


 それだけ。


 それだけなのに、人類はしばしば失敗する。


 俺も失敗しそうだった。


 人類代表として、非常に申し訳ない。


 背中を壁に預ける。


 壁の冷たさが服越しに伝わった。


「うぅ…寒っ」


 地下は寒い。


 でも、蟻の腹の中よりはきっとマシだ。


 そんな最低ラインの慰めを頭の中で転がしながら、俺は暗闇の中で息を殺した。


 天井の配管の奥。


 誰にも見えない場所で。


 水ではないものが、ゆっくりと動いていた。


 それは音もなく、光もなく、ただ蟻の脚音から逃げるように、古い配管を伝っていた。


 もちろん、俺はそんなことを知らない。


 俺に聞こえていたのは、遠くの蟻の脚音と、近くの水音だけだった。


 かつ。


 かつ。


 ぽたん。


 かつ。


 ぽたん。


 俺は、眠気に抗うように、奥歯を噛みしめた。

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