第九章 竜の骨が鳴く
国境近くの旧戦場から報告が入ったのは、祝宴から三日後だった。
瘴気の濃度が急激に上昇している、地脈に通常では観測されない魔力の乱れがある、という内容だった。報告書をイリスから受け取ったセレネは、その日のうちに調査隊の編成を決めた。
「リゼット、同行をお願いできますか」
「もちろんだ」
即答した。これは迷う必要がない。瘴気の察知という点では自分が最も役に立てる場面だ。
「ただし」
セレネが続けた。
「調査が目的です。戦闘ではない。単独での突出は禁止します」
「わかった」
「本当にわかりましたか」
「……わかった」
セレネはリゼットの目を見た。納得したというより保留にした顔で、ゆっくりと頷いた。
編成はセレネ、リゼット、ミレイユ、ノエル、イリス、それに護衛の騎士が四人だった。フィグは当然ついてくると言い張り、誰も止めなかった。
旧戦場までは馬で半日の距離だった。
道が山沿いになってから、空気が変わった。
最初は気のせいかと思った。風の向きか、山の地形のせいか。しかし坂を登るにつれて、それが気のせいではないとわかってきた。空気が重い。湿度とは別の重さだ。魔力が濃い場所独特の、肺の奥に何かが溜まっていく感覚。
「リゼット」
セレネが馬を並べてきた。
「感じますか」
「感じる。瘴気ではなくまだ魔力の乱れだ。ただ方向がわかる」
「どちらです」
「北東。あの稜線の向こう」
セレネはノエルを見た。ノエルは手元の羊皮紙の地図と方角を確認して、小さく頷いた。
「旧戦場の中心部と一致します。百年前の古竜の墜落地点に近い」
「百年前の」
「はい。歴史書によると、当時の竜殺しがそこで古竜を討ちました。完全な討滅ではなく、封印に近い形で。その封印の核が地脈に残っているはずで」
ノエルは少し早口になっていた。緊張しているらしかったが、知識を話している時は声が安定した。
「封印核が乱れている可能性があります。それが瘴気の上昇と地脈異常の原因だとすれば」
「封印が解けかけているということか」
「可能性としては、はい」
セレネがリゼットを見た。何かを確認している目だった。
「先を急ぎましょう」
北東、と答えた後も、リゼットはその方角から目を離せなかった。
方角がわかる、というだけではない。
呼ばれている。
そう表現するのが一番近かった。
胸の奥の火種が、稜線の向こうにある何かと同じ間隔で揺れている。
リゼットは手綱を握り直した。
手のひらに革の感触が戻る。
それでようやく、自分が今ここにいることを思い出した。
稜線を越えると、旧戦場が見えた。
かつて戦場だったとわかるのは、地形が不自然に抉れているからだ。百年の時間が草木で覆い始めているが、その下の地面の歪みは隠れていない。大きな何かが落ちた跡、爆発のような衝撃が走った跡、そういう痕跡が広い範囲に残っていた。
リゼットは馬を降りた瞬間から、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。
竜の気配、という言葉では正確でない。竜はもういない。しかし竜がいた場所の記憶が、地面と空気に残っている。その記憶を、リゼットの体が読んでいた。
「中心部はどちらだ」
自分の感覚で把握していたが、ノエルに確認した。
「あちらの、低くなっている地形の辺りだと思います」
一致した。
「私が先を歩く。ただし離れないでほしい」
「承知」
ミレイユが答えた。護衛の騎士たちも続く。セレネとノエルが後ろについた。
草を踏みながら進むと、一歩ごとに感覚が変わっていく。浅い場所では遠くにあった気配が、近づくにつれて輪郭を持ち始めた。
地面の中に、何かがある。
正確に言えば、地面の奥の地脈の中に、百年前に封じられた何かの残滓がある。それが今、眠りから覚めかけている。
完全に覚醒しているわけではない。しかし眠り続けてもいない。
「ここだ」
立ち止まった場所は、旧戦場の最も低い地点だった。周囲より草が少なく、地面がわずかに変色している。
ノエルが地図と見比べた。
「正確に百年前の記録と合っています」
「地脈の乱れはどの程度ですか?」
セレネがノエルに尋ねた。
「術式で計測します」
ノエルが印を組み始めた。集中している時の彼女は早かった。小さな魔力の光が指先に集まって、地面に向かって伸びた。
「……想定より深いです。地脈の最上層だけでなく、三層下まで影響が出ています」
「三層」
「封印核の劣化が進んでいるとしたら、この数値は」
ノエルが言いかけて止まった。言葉を選んでいる顔だった。
「続けてください」
「この数値は、封印が完全に解ける前段階として、教科書に載っている数値と近いです」
沈黙があった。
そこへ、波が来た。
波、という表現が正確かどうかわからない。
地面の揺れではない。音でもない。しかし確かに、地脈から何かが放たれた。瘴気の圧力が、一瞬で広がった。
護衛の騎士たちが咳をした。ノエルがよろめいた。ミレイユは歯を食いしばって踏みとどまった。
リゼットは、止まった。
体が止まったのではない。意識が止まった。
竜を斬った日の感覚が、全身に蘇った。
刃が鱗を割った瞬間の衝撃。竜の内側から溢れた瘴気の熱。それが体の中に入り込んできた感触。そして、何かが自分の中から流れ出した感触。
それらが、今の波と共鳴した。
膝が折れた。
地面に片膝をついた瞬間、誰かが肩を掴んだ。
「リゼット」
セレネだった。
声が遠く聞こえた。いや、遠いのではなく、自分の内側の音が大きすぎて、外の音が遠くなっていた。胸の奥で何かが燃えていた。数日前の城下での感触と同じだが、今回はずっと強かった。
「立てますか?」
「……立てる」
「無理をしないでください」
「立てると言った」
肩を掴まれたまま立ち上がった。膝が笑っていたが、立った。
セレネが手を離さなかった。
フィグが目の前に飛んできた。飛膜を広げて、リゼットの顔の正面に来た。普段の尊大な顔ではなかった。目が、心配の色をしていた。
「大丈夫だ」
「嘘をつくな、小娘」
低い声だった。いつもの尊大な口調ではなかった。それがかえって、リゼットの胸に重く落ちた。
セレネがフィグを見た。フィグもセレネを見た。二人の間で何かが確認された、とリゼットは感じた。何かが確認されたが、自分には伝わらなかった。
「撤収します」
セレネが全員に告げた。
「調査のデータはノエルが取りました。今日はこれで問題ありません」
異論は出なかった。
帰路は行きより静かだった。
リゼットは馬に乗りながら、体の状態を確認していた。膝の震えは引いた。胸の燃える感触も、だいぶ薄れた。ただ、何か消耗した感覚は残っていた。水を半分抜かれた容器のような、中身が目減りした感触。
隣にセレネが馬を並べてきた。
「話を聞かせてもらえますか」
「何を」
「波が来た時、何が起きましたか」
リゼットは少し考えた。
「竜を討った時の記憶が蘇った。共鳴した、と言えばいいか。地脈に残っている古竜の残滓と、自分の中にある何かが反応した」
「自分の中にある何か、と言いますか」
「何かはわからない。ただある」
セレネは前を向いた。馬の蹄の音が続いた。
「竜を討った後から、ずっとありますか」
「ずっとある」
「教えてくれてありがとうございます」
「情報として役立つなら」
「役立てます」
それ以上は言わなかった。言わなかったが、セレネの横顔が考えている顔をしていた。頭の中で何かを組み立てている顔だ、とリゼットは学習していた。
フィグは帰路の間中、リゼットの肩の上で何も言わなかった。
城が見えてきた頃、ようやく口を開いた。
「小娘」
「なんだ」
「今日のは、ただの疲れではない」
「わかっている」
「わかっているなら」
「まだ考えたくない」
フィグが短く鼻を鳴らした。
「考えたくない、と思える間は、まだいい」
その言い方が、意味深すぎて、リゼットは返事ができなかった。
城に戻ると、セレネは直接リゼットの部屋へ向かった。
「休ませます」
「強引だ」
「強引で構いません」
部屋に入ると、イリスがすでに準備していた。薬湯と、体を横にできるよう整えられた寝台。いつ指示を出したのかと思ったが、聞く気力が出なかった。
「横になってください」
「眠れない」
「眠らなくていい。横になるだけで結構です」
リゼットは寝台に腰を下ろした。嫌だという程のことでもなかった。それだけ消耗しているということかもしれなかった。
セレネが薬湯を持ってきた。イリスではなく、自分で持ってきた。
「飲んでください。苦いですが、効きます」
「何の薬湯だ」
「魔力の過剰消耗に対するものです。ヴァルディスの処方です」
「私は魔術師ではない」
「竜殺しの体は、魔術師と違う種類の消耗をします。ただし、回復の原理は近い」
飲んだ。苦かった。
「苦いな」
「言いましたね」
「言ったが、これほどとは」
「こちらの方が効きます」
セレネが椅子を引いて、寝台の横に座った。帰ってすぐだから、まだ外出用の礼装のままだった。疲れているはずだが、姿勢は崩れていない。
「今日のことを、少し話しましょう」
「何を」
「旧戦場で感じたことをもう少し詳しく。あなたが地脈に何を感知したか、細かく教えてもらえますか。調査の続きとして」
調査として、という名目がついたことで、リゼットは話しやすくなった。感情の話ではなく、情報の話として整理できる。
話しながら、横になった。セレネは止めなかった。
休ませるための言葉まで用意されている。
そう気づいて、少しだけ眉を寄せた。
拒む理由がない。
そのことが、少しだけ腹立たしかった。
腹立たしいほど、正しい扱い方だった。
波の感触、共鳴の感触、古竜の残滓の方角と強度、それが自分の中の何かと一致した感触。細かく言葉にしていくと、少し楽になった。
話し終わった頃、体が少し重くなっていた。薬湯が効いているのかもしれなかった。
「ありがとうございます」
セレネの声が、少し遠く聞こえた。
「旧戦場で鳴ったのは地脈ではなく、自分の内側の何かだった」
「そうですね」
「それが何なのかを」
「わかっています」
わかっている、という言い方が確信を持った言い方だった。だから次の言葉を待った。しかしセレネはそこで止まった。
「今夜は休んでください。話は続きがあります」
「続きはいつだ」
「あなたが休んだ後で」
それ以上は言わなかった。
リゼットは目を閉じた。眠る気はなかったが、体が重かった。
ドアが静かに閉まる音がした。
セレネが出ていったのだと思った。
しかし少し経ってから、誰かが部屋にまだいる気配があった。
確認する前に、意識が落ちた。




