第八章 祝宴の夜、見えない刃
外交祝宴の準備が始まったのは、五日前からだった。
ヴァルディス公国の城が持つ最大の大広間に、隣国の大使、宗教勢力の代表、有力貴族の当主が集まる。年に一度の正式な外交の場で、今年は客将として迎えたリゼットの存在が一つの焦点になると、イリスから事前に説明を受けた。
「どういう意味で焦点になるのか」
「アルヴェインとヴァルディスの関係を、各方面がどう読むかという点で、です。客将という形式は外交的に曖昧な立場ですから、各勢力が独自の解釈を持ち込もうとします」
「つまり、また値踏みされる」
「より大規模に、です」
リゼットは了解した、と答えた。疲れる予感があったが、役目として来ている以上は避けられない。
当日の衣装はセレネが選んだ。深い青みがかった礼装で、先日の銀青色より落ち着いた色だった。腰に短剣を一本佩ける設計になっていた。セレネが指定したらしい。
「配慮したのか」
朝、イリスに確認すると、
「殿下のご指示です。帯剣なしでは落ち着かないでしょう、と」
と返ってきた。
リゼットは何も言わなかった。ただ短剣を佩いた時、肩から余分な力が少し抜けた。
大広間へ向かう途中、胸の奥が一度だけ熱を持った。
リゼットは歩調を崩さなかった。
痛みではない。息が詰まるほどでもない。
ただ、体のどこかで古い扉がわずかに軋むような感触がした。
「リゼット」
前を歩くセレネが、振り返らずに名を呼んだ。
「何かありましたか」
「ない」
「……そうですか」
振り返らないままの返事だった。
見えていないはずなのに、見えているような声だった。
大広間は光で満ちていた。
高い天井に並んだ魔術の灯が、いつもより明るく灯されている。壁際に花が飾られ、給仕が動き回っている。衣装の色と宝飾品が視界の中で混ざり合って、目が少し疲れる種類の華やかさだった。
セレネは広間の中央にいた。
黒い礼装だった。それだけで部屋の空気が変わる着こなしだ、とリゼットは思った。白い肌と黒い衣装の対比が鮮明で、宝飾品は最小限だが、それが余計に目を引いた。完璧な姫の顔をしていた。計算された完璧さだとリゼットには分かったが、その計算が顔に出ないのがセレネという人間だった。
「よく似合っています」
近づいたら小声で言われた。
「礼装の話か」
「そうです。帯剣がある方があなたは自然に見える」
「それはつまり、ない方が不自然ということか」
「正確な観察です」
嫌みとも賛辞とも取れる言い方だった。リゼットは返事をするのをやめた。
大使の挨拶が始まった。セレネが応対する。リゼットは半歩後ろに立った。護衛も兼ねる、という位置取りだ。
人が多い場での警戒は得意だった。剣の話ではなく、視線と動きの話だ。どこに敵意があり、どこに探りがあり、どこが無害かを読む感覚は、戦場で磨いたものとは別だが、ないわけではない。
祝宴が始まって半刻ほどで、リゼットにも声がかかるようになった。
最初の数件は先日の歓談の場と似た内容だった。竜殺しへの賛辞、アルヴェインとの関係への質問。リゼットは短く答えた。先日より多少は慣れていた。
問題は宗教勢力の代表が来た時だった。
白い外套を着た初老の男性で、穏やかな笑みを持っていた。教皇代理を務めるローヴァンという人物だと、イリスから事前に聞いていた。両国に影響力を持つ宗教・学術の大物だ、という説明だった。
「これはこれは、リゼット殿。お噂はかねがね」
声が柔らかかった。怒鳴らない人間の柔らかさで、セレネとは種類が違うが、どちらも底が見えない。
「ローヴァン教皇代理」
「堅苦しくせずとも。竜殺しの英雄にお会いできて光栄です」
「恐れ入ります」
「古竜を討った後、体の具合はいかがですか」
不意打ちだった。社交の場での質問ではなかった。
「……問題ありません」
「そうですか。竜殺しは、歴史的に見ると代償を伴う例が多い。あなたほどの方ですから、ご自身でも把握されているかと思いますが」
「把握しています」
「それは重畳」
ローヴァンは満足そうに頷いた。しかしその目が、リゼットの答えを聞きながら別のことを確認していた。答えの内容より、答え方を見ていた。
何かを知っていて、聞いている目だ、とリゼットは思った。
「今後とも、ご壮健で。あなたのような方が、これからの時代には必要です」
それだけ言って、ローヴァンは次の相手の方へ歩いていった。
リゼットは少し考えた。さっきの会話の、どこかが引っかかった。具合はいかがですか、という質問の角度が、社交の挨拶ではなかった。何かを測っていた。
フィグが耳元でかすかに言った。
「胡散臭い坊主じゃ」
「私もそう思う」
「目が笑っておらぬ」
「わかっている」
その後もローヴァンは広間にいて、各所で穏やかに会話を続けていた。誰に対しても同じ柔らかい笑みで、誰からも好意的に扱われていた。
祝宴の中盤に差し掛かった頃、イリスがゆっくりとした歩みでセレネに近づいた。
二言三言、耳元で囁いた。セレネの表情が変わらなかったが、目が変わった。
「リゼット」
小声で呼ばれた。
「何か」
「少し移動します。ついてきてください」
広間の隅に移動した。人から離れた場所だった。イリスが短く言った。
「先ほどの杯を確認したところ、微弱な呪詛の反応がありました」
リゼットは一瞬止まった。
「私の杯か」
「そうです。給仕が入れ替わるタイミングで仕込まれた可能性があります」
「大事には至りませんでした」
セレネが続けた。声は穏やかだった。穏やかすぎた。
「呪詛の種類は、感覚を鈍らせるものです。致死性はない。しかし竜察知の能力に干渉する可能性がある」
「つまり私の能力を一時的に封じようとした」
「そう読めます」
リゼットは広間を見渡した。百人近い人間がいる。誰が、いつ、どのタイミングで。護衛の目を潜り抜けた、という事実が、空気を変えた。
「犯人の目星は」
「二、三の可能性があります。ただし確証がない段階で動くと、外交上の問題になります」
「では」
「今夜は表向き穏便に処理します」
セレネの声は穏やかだった。怒っているかどうか、表情からは読めなかった。しかし目の色が違った。普段の、含みのある灰紫ではなく、もっと冷たい色をしていた。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「怒っているか」
一呼吸の間があった。
「はい」
短く、確かに答えた。
「あなたに手を出すことを、許せません」
広間の音が遠かった。セレネの声だけが近かった。
祝宴は続いた。
セレネは広間に戻り、何事もなかったように各所を回った。笑顔で言葉をさばき、大使を送り出し、宗教勢力の代表と立ち話をした。どこを見ても完璧な姫だった。
リゼットはその傍に立ちながら、この人間がどれだけのものを同時に処理しているのかを考えた。表の言葉と裏の思考と、感情と政治的判断と。それを全部、顔に出さずに動かしている。
戦場とは全く違う種類の強さだ、と思った。
ミレイユが近づいてきた。
「何かありましたか」
小声で聞いた。祝宴の途中でリゼットたちが移動したのに気づいていたらしい。
「穏便に処理した」
「……そうですか」
「ミレイユ」
「なんでしょう」
「今夜の警戒を厚くできるか。私の周辺ではなく、セレネ殿下の周辺を」
ミレイユは少し驚いた顔をした。それから、すっと表情が戻った。
「承知しました」
礼をして、さりげなく広間に溶け込んだ。
イリスがリゼットの隣に来た。
「今の指示は」
「余計だったか」
「いいえ。的確です」
「そうか」
「……リゼット様」
「なんだ」
「あなたはヴァルディスのために動く義務はありません。客将として来ているのですから」
「知っている」
「それでも動くのですか」
リゼットは答えなかった。
答えを持っていないわけではなかった。ただ、言葉にするのが少し照れくさかった。
セレネが怒っていた。自分への攻撃に、あの人間が怒っていた。それが意外で、少し胸に残っていた。意外、というより、慣れていない感触だった。
誰かが、自分への攻撃に、自分のために怒る。
それを当たり前だと思えるほど、リゼットは大事にされてこなかった。
祝宴が終わったのは夜も深い時間だった。
客が帰り、給仕が片づけを始め、広間が静かになっていく。セレネは最後の客を見送ってから、肩の力を少し落とした。わずかだったが、リゼットには見えた。
「お疲れ様でした」
言ったら、セレネが少し振り返った。
「あなたに言われると思っていなかった」
「なぜ」
「そういうことを言う方ではないと思っていました」
「学んだ」
「誰から」
「あなたからだ。疲れた時に言われると楽になると、この間聞いた」
セレネが目を細めた。笑っている目だった。
「そうですね。楽になりました」
「ならよかった」
イリスがゆっくりと近づいた。
「殿下、今夜の件について改めて整理を」
「明日の朝にしましょう。今夜は」
セレネが少し間を置いた。
「少し疲れました」
その言葉が、広間の静寂の中に落ちた。
リゼットには、それが本当の意味での疲れだとわかった。今夜のセレネは、完璧な姫を長い時間演じながら、同時に怒りと警戒と判断を抱えていた。そしてそれを、誰にも気取らせなかった。
「部屋まで送る」
「護衛はイリスがいます」
「それでも」
セレネが少し黙った。
「……ありがとうございます」
三人で廊下を歩いた。
広間から離れると音が消えた。魔術の灯が廊下を青白く照らしていた。
歩きながら、リゼットはセレネの横顔を見た。広間の顔ではなかった。疲れた顔、と言い切るには整いすぎているが、少なくとも仮面を外した顔だった。
こういう顔をする人間だ、と思った。
知らなかったわけではないが、祝宴の夜に初めてそれが確かなものになった気がした。
セレネの部屋の前まで来た。
「おやすみなさい、リゼット」
「おやすみなさい、セレネ殿下」
扉が閉まった。
廊下に残って、リゼットは少し考えた。
あの人は笑っていた。今夜ずっと。でも怒っている時ほど、あの人は美しく冷たい。
そしてその冷たさが、自分に向けられたものではなかったことを、リゼットは確かに覚えていた。
フィグが肩の上で小さく言った。
「今夜の小娘は、少し違う顔をしておったぞ」
「どんな顔だ」
「さあの」
フィグは答えなかった。
廊下の灯が揺れた。




