第七章 近衛騎士は客将殿を測る
次の日の朝も、ミレイユに訓練場に呼ばれた。
ミレイユは、宮廷の貴族たちよりずっと話しやすい。
警戒を隠さないからだ。
「来ていただき、ありがとうございます」
「用件は」
「合同訓練をお願いしたく」
「セレネ殿下の命令か」
「いいえ。わたくしの判断です」
ミレイユはまっすぐ答えた。
「客将殿が今後、殿下の近くで動く可能性がある以上、近衛との連携を確認しておく必要があります」
「私は殿下の護衛として来たわけではない」
「存じています。ですが、あなたはすでに何度か殿下の近くで剣を抜いています」
「だから、動きを知っておきたいのか」
「はい。信用していない相手だからこそ、知らないままにはできません」
「合理的だ」
「ですから、手合わせを」
「わかった」
リゼットは即答した。
ミレイユが一瞬だけ目を瞬いた。
「よろしいのですか」
「断る理由がない。こちらも近衛の動きは見ておきたい」
「ありがとうございます」
「ただし」
リゼットは木剣を取った。
「私は手加減が下手だ」
「存じています」
「怪我をするぞ」
「訓練ですので」
「そうか」
昨日の打ち合いで、ミレイユの力量はわかった。
強い。だが、竜と戦うための剣ではない。人を守るための剣だ。
数合のうちに、リゼットは二本を取った。
ミレイユは悔しそうだったが、不服そうではなかった。
「もう一度」
「続けるのか」
「はい」
「体が固くなっている。一度休め」
「まだ動けます」
「動けることと、続けるべきことは違う」
言ってから、リゼットは少し変な気分になった。
自分が言われてきた言葉だった。
フィグが木箱の上で鼻を鳴らす。
「ほう。小娘がまともなことを言うようになった」
「うるさい」
ミレイユは少しだけ目を伏せた。
「……休憩を挟みます」
素直だった。それも少し意外だった。水場で手を冷やしていると、ミレイユが隣に来た。
「あなたは、やはり強いですね」
「竜を殺したからな」
「そういう意味ではありません」
リゼットは手を止めた。
ミレイユは水面を見ていた。
「あなたの剣は、相手の命を取るための剣です。迷いが少ない。恐ろしいほど実戦的です」
「褒めているのか」
「評価しています。褒めてもいます」
少しわかりにくかった。
だが、悪意はなかった。
「一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたは、殿下をどう見ていますか」
来ると思っていた問いだった。
リゼットは水から手を上げた。手のひらについた水滴が落ちる。
「どう、とは」
「守るべき対象ですか。利用すべき魔術師ですか。それとも、アルヴェインとの交渉材料ですか」
「どれでもない」
「では」
「まだ、よくわからない」
正直に答えた。ミレイユがこちらを見る。
「わからない?」
「ああ。セレネ殿下は私を囲い込んでいる。たぶん政治的にも、魔術的にも意味がある。最初はそう思っていた」
「今は」
「それだけではない、と思っている」
「……」
「だが、それが何なのかは、まだわからない」
ミレイユはしばらく黙っていた。
怒るかもしれないと思った。殿下を曖昧に扱うな、と言われるかもしれない。
だが、ミレイユは怒らなかった。
「殿下は、不器用な方です」
穏やかな声で言った。
「そうなのか」
「そうです。言葉は上手い。政治も上手い。相手の欲しいものを見抜くのも早い。ですが、ご自分が本当に欲しいものの扱いは、あまり上手ではありません」
リゼットは返事をしなかった。
イリスも似たようなことを言っていた。
殿下は、欲しいものには手が早い、と。
「あなたは、殿下にとって何なのだ」
「それをわたくしに聞きますか」
「近衛なら知っているかと思った」
「知っていることと、口にしていいことは違います」
ミレイユは真面目な顔で言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「ただ、これだけは言えます。殿下は、利用するだけの相手に休めとは言いません。食事の温度を気にしたり、夜に膝掛けを届けたり、訓練のしすぎを止めたりはしません」
「……見ていたのか」
「近衛ですので」
「近衛はそこまで見るのか」
「殿下の周辺に関わることは見ます」
どこまで見られているのか、少し怖くなった。
ミレイユは淡々と続けた。
「ですが、それを歓迎しているわけではありません」
「何を」
「殿下があなたに近づきすぎることです」
やはりそこへ戻るのか、とリゼットは思った。
「私は、殿下を害するつもりはない」
「今は、そう思います」
「今は?」
「はい。今日の手合わせを見て、あなたが殿下を利用する人間ではないことは、少しわかりました」
「剣でわかるのか」
「剣には、隠せないものがあります」
ミレイユはリゼットの手を見た。
「あなたの剣は、雑ではありません。強引ですが、相手を無駄に壊す剣ではない。先ほども、近衛の訓練生の動線を見て、危ない角度には踏み込みませんでした」
「それは当然だ」
「その当然ができない者もいます」
ミレイユの声には、過去を思わせる硬さがあった。
「殿下の周囲には、殿下を利用しようとする者が多い。力を、立場を、知識を、魔術を。だから、わたくしは殿下に近づく者を疑います」
「近衛だからか」
「近衛だからです。ですが、それだけではありません」
ミレイユは少し間を置いた。
「殿下は、ご自分が傷つくことを後回しにする方です。だから、誰かが先に疑わなければならない」
リゼットは、その言葉を聞いた。
自分が傷つくことを後回しにする。それは、セレネのことを言っているはずなのに、少しだけ自分にも刺さる言葉だった。
「似ているのかもしれないな」
「誰と誰がですか」
「私と、セレネ殿下が」
ミレイユが少しだけ目を細めた。
「似ている部分はあるかもしれません」
「不本意そうだな」
「殿下と客将殿を同じ種類に分類するのは、近衛として複雑です」
「そうか」
「ですが、傷つくことを後回しにする点は、似ています」
はっきり言った。
リゼットは少し笑いそうになった。笑わなかったが。
休憩の後、今度は連携訓練になった。
内容は単純だった。セレネ役の魔術師見習いを中央に置き、その周囲を近衛が守る。リゼットは外側から入る。最初は攻撃役として、次に防衛側として。
攻撃役は簡単だった。近衛の隊形には隙が少なかったが、完全ではない。術者を守るために中央を固める分、外側の切り替えが遅れる。リゼットは二度、内側まで入り込んだ。
三度目で、ミレイユが止めた。
「今の角度です」
「何が」
「あなたが入ってくるなら、そこです。次から塞ぎます」
「言っていいのか」
「塞ぐための訓練です」
「なるほど」
防衛側に回ると、難しかった。リゼットは前に出たくなる。敵を遠ざけるには、こちらから攻める方が早い。だが、近衛の隊形では、前に出すぎると中央が空く。
ミレイユに何度も止められた。
「そこまで出ると、殿下との距離が開きます」
「敵を倒せば問題ない」
「倒せなかった場合に問題になります」
「倒す」
「倒せなかった場合の訓練です」
「……そうか」
言われてみれば、その通りだった。
リゼットは剣を下ろし、立ち位置を少し変えた。
敵を倒すためではなく、誰かから離れすぎないための位置。
慣れなかった。
それでも何度か繰り返すうちに、少しだけ感覚が掴めた。前に出る一歩を減らす。代わりに、相手の進路を切る。斬るのではなく、通さない。
守る剣だった。
「なるほど」
リゼットは小さな声で言った。ミレイユがこちらを見る。
「何か」
「こういう守り方もあるのだな」
「近衛の基本です」
「私は知らなかった」
「では、今日覚えてください」
「そうする」
ミレイユはほんの少しだけ、表情を緩めた。
訓練が終わる頃には、昼近くになっていた。
近衛騎士たちは汗を拭きながら、それぞれの持ち場へ戻っていく。リゼットも息が上がっていた。戦闘ほどではないが、慣れない種類の疲労があった。
セレネが訓練場の入口に立っていた。
いつからいたのかはわからない。黒い髪を風に揺らし、いつもの静かな顔でこちらを見ている。
「見ていたのか」
「途中から」
「止めなかったのか」
「止める必要がなさそうでしたので」
セレネはミレイユを見た。
「どうでしたか」
「強すぎます」
ミレイユが即答した。
セレネが少し笑った。
「それは知っています」
「ただし、連携は未熟です。前に出すぎます」
「それも知っています」
「殿下」
「はい」
「ですが、覚えようとしています」
その一言で、訓練場の空気が少し変わった気がした。
セレネがリゼットを見た。
「そうですか」
「まだできるとは言っていない」
「覚えようとしているだけで充分です」
「充分ではないだろう」
「今は、です」
セレネの言葉は柔らかかった。
ミレイユが一歩前に出た。
「客将殿」
「何だ」
「今後、殿下の近くで剣を抜く時は、近衛の隊形を崩さないようお願いします」
「努力する」
「実行してください」
リゼットは少しだけ目を細めた。
「最近、そう言われることが増えた気がする」
「良い傾向です」
セレネが横から言った。
フィグが木箱の上で笑った。
「妾もそう思うぞ、小娘」
「おまえまで言うな」
訓練場に、少しだけ笑いが起きた。
リゼットはその笑いに慣れていなかった。自分が笑われているのではない。場が緩んだだけだ。それなのに、妙に落ち着かなかった。ただ、不快ではなかった。
セレネが近づいてきた。
「怪我はありませんか」
「ない」
「胸の熱は」
「今日はない」
「本当に?」
「本当だ」
セレネはリゼットの顔を見た。確認するように、ほんの少し。
「では、昼食を」
「訓練場でか」
「いいえ。今日は小庭ではなく、近衛の食堂です」
「なぜ」
「ミレイユが、近衛との連携を確認する必要があると言ったので」
ミレイユがわずかに固まった。
「殿下、それは訓練の話で」
「食事も連携の一部でしょう」
「……」
ミレイユは反論しかけて、やめた。
リゼットは少しだけ理解した。セレネはわかってやっている。ミレイユとリゼットを、同じ場所に置こうとしている。訓練だけではなく、食事の場にも。
「囲い込みが上手いな」
リゼットが言うと、セレネは平然と微笑んだ。
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいない」
「では、今後褒めてもらえるようにします」
「そういう話ではない」
フィグが肩に戻ってきた。
「食堂に菓子はあるか」
「ございます」
セレネが答えた。
「ならば行く」
「おまえは本当に」
「食事も連携の一部じゃろう」
フィグは胸を張った。
ミレイユが、今度は少しだけ笑った。
ほんの一瞬だったが、リゼットには見えた。
近衛の食堂は、思ったより質素だった。長い木の卓が並び、騎士たちが交代で食事を取る場所だ。貴族の広間とは違う。食器も簡素で、料理も実用的だった。スープ、肉、パン、温野菜。味は悪くない。
リゼットはその方が落ち着いた。
セレネが当然のように隣に座り、ミレイユが向かいに座った。周囲の騎士たちは少し緊張していたが、セレネが普段通りに食事を始めると、徐々に空気が緩んだ。
「リゼット」
「何だ」
「近衛の食事はどうですか」
「食べやすい」
「それは良かった」
「アルヴェインの兵舎の食事に近い」
「そうなのですか」
「ああ。もう少し塩が強いが」
近くの騎士が少し笑った。
ミレイユがその騎士を見た。騎士はすぐに真顔に戻った。
「笑っても構わない」
リゼットが言うと、騎士は困った顔をした。
「客将殿を笑うわけには」
「塩が強いのは事実だ」
今度は別の騎士が小さく吹き出した。
ミレイユが額に手を当てた。
セレネは楽しそうだった。
「今日は良い訓練になったようですね」
「私は負けたが」
ミレイユが言った。
「三本ともな」
リゼットが答えると、ミレイユが少しだけ目を細めた。
「次は一本取ります」
「取れるかもしれない」
「本気で言っていますか」
「あなたは強い。守る剣では、私より知っていることが多い」
ミレイユが黙った。
周囲の騎士たちも静かになった。
リゼットはパンをちぎりながら言った。
「私は敵を倒すことはできる。だが、誰かの近くに残りながら戦うことには慣れていない。今日、それがわかった」
「……そうですか。では、また訓練しましょう」
「頼む」
ミレイユは頷いた。
それは、最初に訓練場で向き合った時の頷きとは違っていた。警戒はまだある。だが、そこに別のものが混じっている。
認める、というほどではない。
けれど、もう完全な異物としては見ていない。
セレネがそれを見て、上品に茶を飲んだ。
何も言わなかった。言わないことが、少しだけ嬉しそうに見えた。
食事の後、リゼットは小庭へ向かった。
セレネと二人ではない。ミレイユもいた。フィグもいた。イリスは少し離れてついてきた。
小庭の花は、前より少し開いていた。白と薄紫の花が、壁に囲まれた空間にひっそりと咲いている。ここは最初、セレネとリゼットだけの場所のように感じていた。だが、今日はミレイユがいても不自然ではなかった。
「リゼット殿」
ミレイユが言った。
「何だ」
「今日の訓練で一つだけ訂正します」
「何を」
「あなたを信用していない、と言いました。今も、完全には信用していません」
「そうだろうな」
「ですが、殿下の近くで剣を抜くことを、絶対に拒む相手ではないと思いました」
「それは前進なのか」
「前進です」
ミレイユは真面目に答えた。
「では、こちらも一つ言う」
「何でしょう」
「私はセレネ殿下を害さない」
「それは先ほど聞きました」
「利用もしない」
ミレイユの目が少し変わった。リゼットは続けた。
「まだ、自分の立場も、セレネ殿下との関係も、全部わかっているわけではない。だが、それだけは言える」
ミレイユはリゼットを見ていた。
それから、深くはないが、はっきりと頷いた。
「覚えておきます」
「それでいい」
セレネは二人のやりとりを見ていた。
どこか、安堵したような顔だった。
「何ですか」
ミレイユが少し不審そうに聞いた。
「いいえ」
セレネは微笑んだ。
「今日は、良い日だと思っただけです」
「殿下は時々、そういう言い方をなさいます」
「どういう言い方ですか」
「周囲を勝手にまとめた後で、何もしていない顔をする言い方です」
「心外ですね」
「心外ではないでしょう」
ミレイユの言葉は以前より少し柔らかかった。
セレネも、それに気づいているようだった。
フィグが花壇の縁で菓子をかじっている。
「妾としては、食堂の菓子がもう少し甘ければ、さらに良い日じゃった」
「おまえはそればかりだな」
「甘いものは平和の証じゃ」
リゼットは呆れた。けれど、その言葉は少しだけ正しい気もした。
戦場では、菓子の甘さを気にする暇はない。誰かと同じ卓で食事をして、訓練の話をして、小庭でくだらないことを言う。そういう時間は、平和の側にある。
自分はこの国に、戦力として来た。
客将として。竜殺しとして。政治の駒として。
それなのに今、近衛の食堂で塩の話をして、小庭で菓子の話をしている。
変な話だと思った。だが、不快ではなかった。
「ミレイユ」
「はい」
「次の訓練では、近衛の隊形を先に教えてくれ」
「わかりました」
「私は前に出すぎる」
「はい」
「そこは、止めてくれ」
ミレイユは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「必ず」
その返事は、訓練の約束にしては少し重かった。
リゼットにも、それはわかった。
近衛として、セレネを守る。
そして必要なら、リゼットを止める。その両方を含んだ返事だった。
セレネが何かを言いかけて、やめた。
リゼットはそれに気づいたが、聞かなかった。
今は、それでいいと思った。
小庭に風が通った。花が揺れた。
ヴァルディスの風は、アルヴェインより湿っている。最初は息苦しかったその風が、今は少しだけ体に馴染んできている。
リゼットは、剣の柄に手を置いた。
敵を斬るための剣。誰かの前に立つための剣。そして、誰かの近くに残るための剣。
まだうまく扱える気はしない。けれど、覚えることはできる。そのことを、今日ひとつ知った。




