第六章 客将殿は誰のものでもない
入城から半月が過ぎた頃、ミレイユから訓練試合を申し込まれた。
朝食の後、廊下で出会い頭に渡された書状は、騎士式の正式な様式で書かれていた。日時、場所、使用武器、立会人の名前まで揃っている。手間をかけた挑戦状だ、とリゼットは思った。
「受けるか受けないか、返事をいただけますか」
ミレイユは廊下の真ん中に立って、目をそらさなかった。正式な挑戦をした者の顔をしていた。
「受ける」
即答した。
「……即答ですか」
「考える必要がなかった」
ミレイユはわずかに表情を変えた。意外だったのかもしれない。断られると思っていたか、あるいは条件を聞いてくると思っていたか。
「明後日の午前、訓練場で。よろしいですか」
「問題ない」
「では」
ミレイユが礼をして去った。
その背を見ながら、リゼットは書状をもう一度読んだ。立会人の欄にイリスの名前があった。セレネの名前はない。
訓練試合当日、訓練場にはすでに人が集まっていた。
宮廷の貴族が十人ほど、軍の上位将校が数人、それから城に仕える者が数名。単なる稽古ではない空気だ、とリゼットは門をくぐった瞬間に察した。試合の結果を見に来ているというより、客将の戦力を値踏みしに来ている目が多かった。
セレネは訓練場の端、石段の上に設けられた観覧席にいた。侍女を一人連れて、座っている。こちらを見ているが、表情は読めない距離だった。
ミレイユはすでに準備を終えていた。訓練用の鈍剣と軽い胸当て。リゼットも同じ装備にした。
「条件を確認します」
イリスが立会人として進み出た。
「先に二本取った方が勝ち。有効打は胴、首筋、利き腕。場外なし。降参あり。よろしいですか」
「はい」
「問題ない」
二人が向かい合った。
ミレイユは構えが綺麗だった。訓練を積んだ者の構えで、癖が少なく、重心が安定している。目が真っ直ぐリゼットを見ていた。
リゼットは自分の構えに入った。
僅かな間、二人とも動かなかった。
ミレイユが仕掛けた。右からの切り込みで、速かった。リゼットは受けずに流した。鈍剣が空を切って、ミレイユの体が前に出た。その一歩が着地する前に、リゼットは首筋に剣先を当てた。
「一本」
イリスの声。
ミレイユは止まった。首筋に当たった剣先の感触を確認するように、少し間を置いた。それから下がった。
「……速い」
「もう一度行くか」
「当然です」
二本目は長かった。
ミレイユが慎重になった。速攻が効かないとわかって、じっくりと間合いを測ってくる。足の運びが変わった。体重をかける場所が細かく変化している。適応が速い、とリゼットは思った。
三度の打ち合いがあった。ミレイユの剣はリゼットの胴を二度かすった。完全な有効打ではなかったが、当たっていた。
四度目の打ち合いでリゼットが踏み込んだ。ミレイユが退いた瞬間に重心が乱れた。リゼットはその乱れに剣先を合わせた。
「二本目。試合終了」
訓練場に拍手が起きた。形式的ではなく、実質を認める種類の拍手だった。
ミレイユは剣を下げた。息が少し乱れている。それでも姿勢は崩れていなかった。
「完敗です」
「善戦だった。二度かすられた」
「かすっただけです。本勝負なら届いていない」
「そうかもしれない」
「……正直な方ですね」
「うそをつく理由がない」
ミレイユはそれを聞いて、少し黙った。何か考えている顔だった。
試合が終わると、待っていたように貴族たちが動き始めた。
最初に来たのは北方の軍を持つ貴族の代理人だった。先日の歓談の場でも接触してきた一群だ。
「素晴らしい腕前でした。ぜひ我が家との共同演習のご検討を」
「現時点では任務内容が確定していないため、お答えが難しい」
「では非公式に、というのはいかがでしょう。書面不要でよろしいですし」
「非公式でも同じ答えになる」
代理人は笑顔を保ったまま、別の角度から話を続けようとした。リゼットは答えるたびに壁にぶつかっている感覚があった。何度断っても、言い方を変えてくる。
次に来たのは宮廷魔術師系統の上位者だった。
「客将殿の竜察知の能力を、防衛術式の補助に応用できないか検討したい。対価は充分に用意できる」
「能力の貸し出しは個人の判断では決められない。上位に確認が必要だ」
「上位、というのはどちらに」
「ヴァルディスの受け入れ側に」
その後も、似たような話が続いた。婚姻の打診を遠回しに含む話。形式上の叙任によって取り込もうとする話。どれも言葉は丁寧で、目的だけが露骨だった。
リゼットは一つ一つに答えながら、自分が訓練場に建てられた旗のように感じていた。立っているだけで、誰かがその旗を自分の陣に立てようとしてくる。
不快だった。
アルヴェインでも似たような扱いを受けてきた。切り札として扱われることは慣れていた。しかし慣れていることと、不快でないことは違う。
さらに別の相手が近づいてきた時、セレネが観覧席から降りてきた。
やっていることは明確だった。来る相手全てを、穏やかに、しかし完全に退けた。北方の軍の話は「時期が来ましたら改めてご相談ください」で保留にした。魔術師系統の話は「能力の運用については当方で管理しております」で閉じた。婚姻の話は「それは本人と直接ご相談されましたか」と問い返して相手を黙らせた。
どれも丁寧な言葉だった。怒りも圧力もなかった。しかし全部、入口で止めた。
リゼットには、自分なら絶対にできないことだとわかった。
「ありがとうございます、殿下。今後またご縁がありましたら」
そう言って引き下がっていく貴族の背を、リゼットは見ていた。
「お待たせしました」
セレネが来た。
「待っていない」
「そうですか」
「……不本意だった」
意思がまた置き去りにされた、という感覚は確かにあった。今日の訓練場に集まった人間のどこにも、リゼット自身の意思を聞こうとした者はいなかった。全員が、この剣をどう使うかを考えていた。
「私は誰のものでもない」
強く言った。こういう場所で言う言葉ではないかもしれないが、出てしまった。
「ええ」
セレネは微笑んだ。観覧席から降りてきた時と同じ、穏やかな顔だった。
「ですから、誰にも触れさせません」
その言葉が訓練場の石の壁に吸い込まれた。
リゼットは返す言葉を探した。
独占を否定したつもりが、独占の宣言を受け取ったような気がした。否定しようとして、その言い方の何が違うのかがうまく言葉にならなかった。
セレネはそれ以上何も言わなかった。
ミレイユが近づいてきたのは、貴族たちが全員引いた後だった。
「客将殿」
「何か」
「先ほどの殿下の言葉について」
「聞いていたのか」
「近くにいましたので」
ミレイユは少し考えてから、言った。
「わたくしから言えることではないかもしれませんが」
「言いたいなら言え」
「殿下は、あのような言い方をする方ではありません。普段は」
「どういう意味だ」
「囲い込むのは殿下の習性です。しかし、あそこまで直截に言うのは」
ミレイユが口を閉じた。続きを言わなかった。
「続きは」
「わたくしには判断がつきかねます」
それだけ言って、ミレイユは礼をした。去り際に一度だけ振り返った。
「今日の試合、勉強になりました。またお願いできますか」
「いつでも」
ミレイユの背が遠くなった。
フィグが肩の上で言った。
「面白い日じゃったな」
「どこが面白かったんだ」
「全部じゃ」
全部、とはどこまでを指しているのかを、リゼットは聞かなかった。
訓練場に人がいなくなって、静かになった。石畳に午前の光が落ちている。セレネはもう移動していた。イリスが遠くから「昼食の時間です」と告げた。
リゼットは訓練用の鈍剣を返却台に置いた。
誰のものでもない、と言った。それは本当のことだ。ヴァルディスにとっても、アルヴェインにとっても、どの派閥にとっても、自分は道具ではない。
しかしセレネの「誰にも触れさせません」という言葉が、道具への言葉だったかどうかは、まだよくわからなかった。
道具にそういう言い方をする必要はない。
ではなぜ、ああ言ったのか。
考えかけて、やめた。昼食の時間だということの方が、今は確実だった。




