第五章 甘い菓子と、甘くない囲い込み
フィグが騒ぎを起こしたのは、朝食の最中だった。
リゼットの部屋に運ばれてきた朝食のトレイに、見慣れない菓子が一つ乗っていた。小さな焼き菓子で、表面に砂糖が薄く掛かっている。朝食用ではなく、食後のつもりで添えられたものだろう。
リゼットがそれに気づく前に、フィグが台から飛んで来た。
「これは」
「菓子だ」
「見ればわかる。どこの菓子か聞いておる」
「知らない。今日から添えられていた」
フィグは菓子の周りを一周した。鼻を近づけて、耳を立てた。そして一口かじった。
僅かな沈黙。
「……ヴァルディスの東部産の蜂蜜が使われておる。香りが違う」
「詳しいな」
「菓子については詳しい」
フィグは二口目をかじった。そして動きが止まった。耳がゆっくりと、真横に開いた。懐柔された時の耳だ、とリゼットは学習していた。
「悪くない」
「そうか」
「悪くないと言った。聞こえておったか」
「聞こえた」
「妾は決して懐柔されたわけではない。味を評価しておるだけじゃ」
「わかっている」
フィグは三口目に入っていた。批評しながら食べきった。それから台に戻って毛繕いを始めた。評価が終わったという顔だった。
朝食を食べながら、リゼットは昨日からの変化を整理した。
菓子が増えた。それだけではない。いつの間にか、朝の薬湯が窓辺に置かれるようになった。訓練後には着替えが用意され、夕食の内容も少し変わった。アルヴェインで好んで食べていた根菜の料理に近いものが一品増えていた。
変化は一つ一つは小さい。しかし積み重なると、自分の生活が少しずつ作り変えられているように見えた。
その日の午後、セレネが部屋に来た。
手には書類がなく、イリスも連れていなかった。仕事の話でも、散歩の誘いでもなさそうだった。
「少し時間がありますか」
「ある」
「では話し相手になってください」
それだけ言って、当然のように部屋に入ってきた。窓際の椅子に座る。リゼットは向かいに座った。フィグは台の上で丸くなって眠ったふりをしていたが、耳が立っていた。
「何の話か」
「特に決めていません。ただ、少し疲れたので」
疲れた、という言葉が意外だった。セレネが疲れたと言うのを聞いたのは初めてだった。表情は穏やかで、疲れているように見えない。しかし言葉は嘘ではなさそうだった。
「今日は何があった」
「外交の書簡が四件。宮廷の会議が二つ。その後で来客が三人」
「それだけ動いて疲れたというのは」
「書簡と会議より来客の方が消耗します。言葉に気を遣う相手が続くと、少し休みたくなる」
「私は気を遣わなくていい相手だということか」
「そうですね」
あっさりと言った。失礼とも親しみとも取れる答えだった。
「気を遣わなくていい、というのは」
「あなたは裏表がないから、です。言葉の奥を読む必要がない。それが楽だということです」
褒めているのか貶しているのかわからなかった。しかし悪意はない言い方だった。
「それは社交が下手だということと同じではないか」
「違います。社交が上手い人間は言葉の裏を読むのが得意です。あなたは言葉に裏がないから読むものがない。それは欠点ではなく、性質です」
「……それで来客より気が楽になるのか」
「なります」
セレネはそう言って、窓の外を見た。午後の光が差し込んでいる。静かな時間だった。
「アルヴェインはこの時期、どんな気候ですか」
「今頃は初夏に入る。昼は暑く、夜は少し冷える」
「そうですか。こちらより乾いていますね」
「湿度が違う。最初は少し息苦しかった」
「慣れましたか」
「だいぶ慣れた」
その会話は特に結論がなかった。ただ言葉が続いた。アルヴェインの春の話、ヴァルディスの夏の話、どちらの国にもある祭りの話。セレネは聞き上手で、リゼットが答えると必ず一言返した。
一刻ほど経って、セレネが立ち上がった。
「ありがとうございました」
「何がだ」
「話し相手になってもらったことです」
「話しただけだ」
「それが必要でした」
扉が閉まった後、フィグが目を開けた。
「眠っていたのか」
「眠っていない」
「やはり起きていたか」
「ぬしらの話など聞かずともよかったが」
フィグは伸びをした。それから、何事もなかったように菓子の台を見た。朝の菓子はもうなかった。
セレネは二日か三日に一度、夕刻近くになると手ぶらで来て一刻ほど話して帰る。話の内容は毎回違う。ヴァルディスの歴史の話をした日もあれば、リゼットの剣術の話になった日もあった。セレネが宮廷の小さな出来事を話すこともあった。
リゼットはそれが何を意図しているのか、最初はわからなかった。
そうした時間が何度か続いて、少し考えた。
来るのは必ず仕事の合間か終わりだ。書類を持ってこない。イリスを連れてこない。政治の話をしない。そういう時間を、こちらに使っている。
休憩、だろうか。
あるいは。
考えていたところへ、イリスが来た。
「本日の夕食の前に、殿下との時間が入っています」
「また部屋で話すのか」
「今日は小庭での茶です」
「小庭」
「城の東側の庭です。四季折々の花が咲きます。今の時期はちょうど見頃だとのことです」
リゼットは頷いた。特に断る理由がなかった。
「ひとつ聞いていいか」
「なんでしょう」
「セレネ殿下は、いつもこういう時間を作るのか。来客に対して」
イリスはわずかに間を置いた。
「いいえ」
「そうか」
「殿下は、欲しいものには手が早いので」
それだけ言って、イリスは礼をした。表情は変わらない。穏やかな顔で怖いことを言った。
小庭は、石畳の間に花が植えられた小さな空間だった。
壁に囲まれているから風が少なく、花の香りが濃かった。白と薄紫の花が多い。リゼットはそういった花の名前をあまり知らなかったが、きれいだと思った。
セレネはすでにいた。白い椅子に座って本を読んでいた。リゼットが来ると顔を上げて、本を閉じた。
「来てくれましたね」
「断る理由がなかった」
「消極的な理由ですが、来てくれたなら良かったです」
向かいに座った。茶が来た。今日は菓子もあった。フィグが肩から飛んで皿に直行した。
「フィグ、礼を言ってから食べろ」
「礼など。妾は客じゃ」
「客なら礼を言う」
「……頂戴する」
「それでいい」
セレネがかすかに笑った。フィグとリゼットのやりとりを見ている時、セレネの顔が少し柔らかくなる。リゼットはそれに気づいていたが、言わなかった。
「リゼット、ここでの暮らしに慣れてきましたか」
慣れた、と言えるかどうか考えた。言葉の駆け引きはまだ下手だ。ヴァルディスの礼儀作法は半分しか把握していない。しかし生活の感触は、最初の数日より落ち着いていた。
「……多少は」
「それはよかった」
「よかった、のか」
「最初の日より、肩に力が入っていません」
セレネは茶器を置いて、少しだけ笑った。
「あの時は、いつ剣を抜くか分からない顔をしていました」
「剣は抜いていない」
「抜かないよう我慢している顔でした」
リゼットは返事に困った。否定しきれなかったからだ。
その沈黙をどう受け取ったのか、セレネは少しだけ目を細めた。
その時、胸の奥で小さく熱が灯った。
痛みというほどではない。だが、火種のようなものが一瞬だけ息をした。
リゼットは茶器へ手を伸ばすふりをして、胸元に向かいかけた指を止めた。
「リゼット?」
「何でもない」
「……そうですか」
セレネはそれ以上、追及しなかった。
ただ、その視線だけは、リゼットの手の動きを見逃していなかった。
「私はあなたに、ここを不本意な場所にしてほしくありません」
「不本意かどうかは」
「まだわからない?」
「そういうことだ」
「それは正直な答えですね」
セレネは微笑んだ。その笑みに含みがあることをリゼットは学習していた。何かを計算している時の顔と、計算を一時休んでいる時の顔が、少し違う。今の顔は後者に近かった。
「私はあなたの所有物ではない」
「存じております」
「イリスから聞いた。欲しいものには手が早いと」
「イリスが余計なことを」
「答えが聞きたい。私をここに置くことが、政治的な目的の全てか」
セレネはしばらく黙っていた。答えを考えているというより、どこまで言うかを考えている顔だった。
「全てではありません」
「では残りは何だ」
「まだ、言う段階ではありません」
答えになっていない、とリゼットは思った。しかし嘘でもなかった。
その「まだ」が、妙に引っかかった。
フィグが肩の上で耳を立てた。
「ぬしら、妾が見ておるぞ」
「見ていろ」
「存じております」
二人が同時に答えた。フィグが面白そうに鼻を鳴らした。
リゼットは返す言葉を探したが、見つからなかった。
会話はそこで終わった。
小庭を出て、東翼へ戻る廊下を歩いていると、すれ違った二人の文官が声を落とした。
「また殿下のお茶に?」
「竜殺し殿は、ずいぶん東翼に馴染まれたようだ」
言葉は丁寧だった。だが、含まれているものは丁寧ではなかった。
リゼットは足を止めなかった。
慣れた、と思われている。
飼い慣らされた、と見られているのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
不快ではない。
しかし、不快ではないことを、他人に見抜かれるのは別だった。
「気になりますか」
隣を歩いていたイリスが、前を向いたまま言った。
「気になるほどではない」
「左様でございますか」
その返事は、信じていない声だった。
「殿下は、欲しいものを隠すのがあまりお上手ではありません」
「……隠しているように見えるが」
「隠しているつもりで、守りを固めておられるだけです」
イリスは穏やかに続けた。
「ですが、守りが厚くなれば、外からは檻に見えます」
リゼットは返事をしなかった。
檻。
初日に思った言葉だった。
その檻の内側が、思ったより温かいことを、今の自分はもう知っている。
だからこそ、足元の石畳が少しだけ重く感じられた。
胸の奥で、かすかな熱が揺れた。
リゼットは息を整えた。
旧い火種が、呼吸に合わせて小さく明滅しているようだった。
こんな感覚は、アルヴェインを出る前より増えている。
だが、それを口にすれば、セレネは理由を探す。
理由を探されることが、今は少し怖かった。
夜になった。リゼットは自分の部屋に戻った。訓練もなく、戦闘もなく、ただ話して茶を飲んで菓子を少し食べた一日だった。戦場の日々に比べれば、何もしていないに等しい。それなのに頭が少し疲れていた。
文机に肘をついて、外を見た。ヴァルディスの夜の灯が石畳に落ちている。青みがかった光だ。最初は見慣れなかったが、今は慣れた。
床に膝掛けが置いてあった。昼間は使わないからと棚に片づけていたが、夕方イリスが来てさりげなく床に置いていった。リゼットは見て見ぬふりをした。
少ししてから、手を伸ばした。引き寄せて、膝の上に乗せた。
温かくはないが、重さがある。細かな魔術の感触が指先に伝わる。防寒のための術式か何かだと思っていたが、よく触ると少し複雑だった。
何の術式かは読めなかった。
敵地のはずなのに、ここ数日でいちばん落ち着く匂いを覚えてしまっていた。
石と花と、かすかな魔術の香りが混じった、この城の匂いを。
それに気づいた瞬間、少し腹が立った。腹を立てながら、膝掛けを膝からどかさなかった。
フィグが台の上から見ていた。何も言わなかった。
それが今夜は少し、ありがたかった。




