第四章 おとなしく守られていてください
その報告が入ったのは、朝の訓練を終えた直後だった。
城下の市場区画に近い路地で、迷い込んだ魔獣が複数確認された、という内容だ。小型の群れで、人的被害はまだ出ていないが、逃げ惑う市民が数人いる。イリスが地図を広げながら説明する声を聞いていた時、リゼットはすでに軍装に着替えかけていた。
「待ってください」
イリスに止められた。
「城下の対処は近衛が担当します。客将殿が出る必要はありません」
「近衛が着くまでに時間がかかる。私は今すぐ動ける」
「殿下の指示が出てから動いてください」
「人が逃げていると言った」
「怪我人はまだ出ていません」
「まだ、という話だ」
イリスとの間に、短い沈黙があった。イリスは表情を変えない。しかし目が「ここで出ていかれると困る」と言っていた。
リゼットが返事をする前に、廊下の向こうからセレネの声がした。
「イリス、状況を」
セレネが来た。書類を手にしたまま、早足ではないが迷いのない歩き方だった。イリスが手短に説明する間、セレネはすでに何かを考えている目をしていた。
「結界を三か所に張ります。群れの移動を市場区画に封じて、騎士隊で追い込む。ノエル、補助はできますか」
廊下の端に、宮廷魔術師見習いらしい少女がいた。呼ばれて、びくりと肩を揺らす。茶色の髪が少し乱れていて、走ってきたらしかった。
「は、はい、できます、たぶん、やります」
「ありがとう」
セレネは短く指示を出した。どこに結界を張るか、どの通路を塞ぐか、騎士隊の配置をどう組むか。地図を見ずに言えているのは、城下の構造を頭に入れているからだ。
リゼットはそれを聞きながら、自分が出る幕を探していた。
「リゼット」
名を呼ばれた。
「北側の路地だけ、結界の間隔が開きます。騎士隊が回り込む前に魔獣が抜ける可能性がある。そこを抑えてもらえますか」
「わかった」
ようやく役割が出た。言われる前に動こうとしたのは余計だったかもしれないとリゼットは思ったが、口には出さなかった。
城下に出ると、すでにセレネの結界が展開されていた。
結界は目に見えない。ただ、魔獣の動きがある一定の範囲で折り返すように変わっていた。迷い込んだ群れを、壁のない檻に押し込めている。魔力の密度が高い場所独特の、空気が重くなる感覚がリゼットにもわかった。
北側の路地に着くと、すでに一体が結界の端をうろついていた。犬ほどの大きさで、体表が黒く光る、四足の魔獣だ。目が赤く、低く唸っている。
子どもが一人、路地の奥で固まっていた。
五歳か六歳か。石壁にへばりついて、声も出ない様子だった。魔獣はまだその子どもに気づいていない。気づけば一直線に向かう距離だった。
リゼットは走った。
剣を抜いた。魔獣が振り向く前に距離を詰め、一合で制した。倒れた魔獣の隣に着地した時、子どもがようやく泣き声を上げた。
残りは三体だった。路地の両側から来る。セレネの結界で逃げ場をなくした魔獣は、出口を求めて攻撃的になっていた。
一体目を右から捌いて流した。二体目を正面から受けて崩した。三体目が跳んだ瞬間、軌道を読んで横に抜けた。剣が一度だけ地面を叩く音がして、静かになった。
終わってしまえば、短い話だった。
子どもがまだ泣いている。リゼットはその子どもの前にしゃがんだ。泣いているが、怪我はない。
「終わった。大丈夫か」
子どもは泣きながら頷いた。
立ち上がった瞬間に、胸の奥で何かが燃えた。
燃える、という言葉が正確かどうかわからない。熱い、とも少し違う。竜を討った時に近い感覚が、胸の中心から広がって、一瞬だけ視界が白くなった。
リゼットは右手を胸に当てた。すぐに引いた。息が少し乱れていた。
たいしたことではない、と思った。疲れているだけだ。訓練の後で城下まで走ったのだから、多少の消耗は当然だ。
それだけのことだ。
事後の処理が終わる頃、セレネが来た。
騎士隊が魔獣の残骸を片づけ、市民への状況説明が行われ、子どもが親のもとに戻って、ようやく路地が落ち着いた時間だった。
ミレイユが一歩前に出た。
「客将殿」
「なんだ」
「北側を抑えていただいたことには感謝します」
言いながらも、目が柔らかくなっていない。
「しかし、殿下の御前で単独行動は避けていただきたい。指揮系統の問題です」
「最初にイリスから止められた。だがセレネ殿下から北側の指示が出た」
「その前に動こうとしたでしょう」
リゼットは返す言葉に詰まった。事実だった。
「ミレイユ」
セレネの声は穏やかだった。
「指摘はその通りです。ただ、今回の結果は問題ない。続きは城に戻ってから」
「……承知しました」
ミレイユが下がった。セレネはリゼットの方を向いた。
「お疲れ様でした」
「特に疲れていない」
「そうですか」
それ以上は言わなかった。ただ、セレネの視線がリゼットの胸のあたりで一瞬止まった。
リゼットは気づかないふりをした。
城に戻る道で、子どもを助けた話が広まっていた。
路地から市場へ出ると、商人や市民が何人かリゼットに声をかけた。ありがとうございます、助かりました、英雄殿が来てくれてよかった、という言葉が続いた。リゼットはどう返せばいいかわからずに、短く礼を言った。
セレネへの言葉も多かった。
結界のおかげで被害が最小限でした、殿下の指示が早かったから逃げられました、子どもが家の中にいて怖い思いをしましたが怪我がなかったのは結界があったからです。そういった言葉が、商人たちからセレネへ向かった。
セレネは一人一人に返事をした。短く、しかし丁寧に。その言葉を聞きながら、リゼットは自分が少し前まで持っていた認識を修正していた。
魔女姫は、城の中だけで動く人間だと思っていた。策略と言葉で人を動かす、宮廷の内側の存在だと。しかし今日の結界は、城下の人間の生活を守った。そしてそれを、城下の人間たちが知っていた。
剣で守るのと、結界で守るのと、どちらが正しいということはない。
その考えが出てきたことを、リゼットは少し意外に思った。
夕方、セレネの部屋に呼ばれた。
広間ではなく、小さな応接室だった。窓から城下が見下ろせる部屋で、テーブルに茶が二つ用意されていた。
「座ってください」
リゼットは座った。セレネも向かいに座った。イリスは壁際に控えている。フィグは何かの気配を察したのか、珍しくリゼットの膝の上で大人しくしていた。
「今日のことを話させてください」
「指摘があるなら聞く」
「指摘というより、確認です」
セレネは茶を一口飲んだ。
「北側に子どもがいたことは、状況を整理する前から把握していましたか」
「いや。着いてから見えた」
「だから単独で動いた」
「待っていれば間に合わない場面だった」
「そうですね」
セレネはあっさりと認めた。
「あなたの判断は正しかった。子どもは助かった。ミレイユの指摘は原則として正しいですが、今回の結果を責めるつもりはありません」
「それは昼間に聞いた」
「もう一つあります」
リゼットは黙って待った。
「あなたが胸を押さえていたのを見ました」
少し間があった。
「……疲れただけだ」
「そうかもしれません」
「そうだ」
「そうかもしれません、と言いました」
セレネの声は穏やかだった。責めていない。ただ、退かない。
「リゼット、武だけが守る手段ではありません。今日それは確認できたでしょう。同じように、体に無理をすることが強さだとも限らない」
「説教か」
「事実の整理です」
リゼットは反発しかけた。疲れただけだ、という言葉が出かけた。しかしセレネの目が、言い訳を聞いているのではなく、言い訳の奥にあるものを見ようとしている目だったので、言葉が止まった。
「……体調の管理は、自分でできる」
「できていますか」
「今まではできていた」
「今は」
リゼットは答えなかった。
今は、という問いへの答えが、自分の中でまだはっきりしていなかった。竜を討った後から、何かが変わっているのは感じている。剣の切れ味が上がった分、何かが消耗している感覚。それが今日の一瞬に出たかどうかは、まだわからない。
「調べさせてほしいのですが」
「調べる、というのは」
「魔術的な診断です。ヴァルディスには体質や気質の異常を読む術式があります。痛みはありません。嫌なら断ってください」
断る理由を探した。見つからなかった。
「……今日でなくていいか」
「今日でなくて構いません」
「では、明日以降で」
「承知しました」
セレネは頷いた。それ以上は追わなかった。
茶を飲み終えて立ち上がろうとした時、窓の外が見えた。夕暮れの城下に、昼間の騒ぎの痕跡はもうない。商人たちが店を閉め始めている。子どもたちが路地で走っている。
さっきの子どもかどうかはわからない。しかし誰かの子どもが、今日も路地を走っている。
それが今日の結界のおかげなのか、剣のおかげなのか、あるいは両方なのか。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「今日の対処は、よかった」
セレネが少し目を瞬いた。驚いた顔だった。
「……ありがとうございます」
「私はそういう守り方を知らない。知らなかった、と言う方が正確かもしれない」
「これからは知ることができます」
「そうだな」
そこで会話が終わった。
廊下に出てから、リゼットは少し考えた。
助けたはずなのに、胸の奥で何かがひび割れる音がした気がした。それが何かは、まだよくわからなかった。ただ、ひび割れた部分から、今まで入ったことのない種類の空気が入ってくる気がした。
フィグが肩の上で静かにしていた。
いつもなら何か言う場面だったが、今日は何も言わなかった。それがかえって、少し重かった。




