第十章 魔女姫は笑って嘘をつく
目が覚めた時、部屋に朝の光が入っていた。
着替えずに眠っていた。外出用の服のまま寝台にいた。体を起こすと、膝の上に膝掛けがかかっていた。昨夜、自分でかけた記憶がない。
フィグが台の上にいた。
「起きたか」
「いつからいる」
「夜通しじゃ」
「眠らなかったのか」
「眠った。交代で」
交代、という言葉の意味を考えた。フィグと、もう一人。聞こうとしたが、やめた。
「体の具合は」
「昨日よりいい。消耗した感触が残っているが、動ける」
「動けるというのと、動いていいというのは別じゃぞ」
「わかっている」
「わかっていない顔じゃ」
水を飲んで、着替えた。鏡を見ると、顔色は普通に見えた。ただ、目の奥が少し重い。旧戦場での波の余韻が、感覚の底に薄く残っていた。
朝食が来た。いつもより品数が多かった。
「セレネ殿下の指示です」
給仕が告げた。
リゼットは黙って食べた。
旧戦場の調査から、数日が過ぎた。
表向きは何も変わらなかった。訓練があり、イリスからの日程説明があり、昼にセレネと短い会話があり、夕方に書類仕事の補助をした。ヴァルディス宮廷における客将としての日常は、淡々と続いていた。
しかし何かが変わっていた。
リゼットがそれを確信したのは、ある夜のことだった。
用事があってセレネの執務室の前まで来た時、扉が完全に閉まっておらず、中の声が漏れていた。聞き耳を立てたわけではない。しかし通り過ぎようとした瞬間、自分の名前が聞こえた気がして、足が止まった。
セレネとイリスの声だった。
「……封印核の劣化速度を考えると、残された時間は」
「ノエルの計測では、早ければ半年。ただし竜殺しの状態次第で変動します」
「変動の幅は」
「それを計算するためには、もう少し詳しい診断が必要です。殿下、まだリゼット様にはお話しになっていないのですか」
「……まだです」
「いつまで」
「もう少し。調べたいことがある」
そこで廊下の石を踏む音が近づいてきた。リゼットは一歩下がった。扉の前から離れた。
声はそれ以上聞こえなかった。
翌日から、リゼットは意識して観察するようになった。
セレネが何を伏せているのかを、表から見える行動で探るということだ。直接聞けばいいと思わなくもないが、昨夜の会話の断片だけで問い詰めるには材料が薄かった。もう少し把握してから、という判断だった。
観察してみると、細かいことが見えてきた。
セレネは毎晩遅くまで起きている。イリスが報告を持っていく時間が、通常の執務時間を超えて続いている。ノエルが資料室に出入りする回数が増えた。しかも古い年代の文書を扱っているらしく、出てくるたびに羊皮紙の埃を払っている。
そしてフィグが、妙に口が重かった。
「フィグ」
「なんじゃ」
「最近、何か知っているか」
「何かとは曖昧じゃ」
「旧戦場の件だ。あの後、セレネ殿下やイリスと何か話したか」
フィグは答える前に、菓子を一粒口に入れた。時間を稼ぐ動作だ、とリゼットは学習していた。
「少しな」
「何を話した」
「妾の口から言えることと言えないことがある」
「言えないことがあるのか」
「ある」
それ以上は引き出せなかった。フィグが口を閉じた時は、本当に閉じた時だ。甘いものでも動かせない。
リゼットは別の方向から探ることにした。
資料室に行ったのは、昼過ぎの人が少ない時間だった。
ヴァルディス城の資料室は、思っていたより広かった。壁一面に棚が並び、古い年代順に文書が収められている。ノエルが頻繁に出入りしているということは、その辺りに必要な文書があるということだ。
棚を見ながら歩いた。年代の表示を確認しながら、古い方へ向かう。
百年前の記録の棚に来た。
旧戦場に関連する文書が数冊あった。当時の竜討滅の記録、地脈調査の報告、封印術式の概要。リゼットは一冊を取り出して開いた。
内容は難しかった。魔術の専門用語が多く、半分も理解できない。しかし読めた部分の中に、気になる言葉があった。
竜殺し。代償。継承。
三つの言葉が、一つの文章の中に並んでいた。
その文章を読もうとした瞬間、本が閉じた。
「今は知らなくていいことです」
セレネだった。
いつの間にいたのか。気配がなかった。リゼットが資料室に来たことを把握していて、後を追ったのか、あるいは先に来ていたのか。
「なぜ閉じる」
「今は必要ない情報です」
「私に関わる情報ではないのか」
セレネは答えなかった。
「竜殺し、代償、継承。これらの言葉が一つの文章に並んでいた。私に関わる話だろう」
「リゼット」
「聞かせてほしい」
「……まだ整理ができていません」
「整理ができていないとは、情報が足りないということか、それとも私に言う言葉を探しているということか」
セレネは少し間を置いた。
「両方です」
「正直だな」
「嘘をついても仕方がないことがあります」
「今がそうだということか」
「今は、そうでない場面です」
矛盾しているようで、していない言い方だった。嘘はついていない。しかし全部は言わない。その線引きをはっきり示した答えだった。
リゼットは本を見た。セレネの手が本の表紙の上にある。渡す気がない手だ。
「一つだけ聞く」
「なんですか」
「危険か」
セレネはまた間を置いた。今度は長かった。
「……定義によります」
「誰にとっての危険だ」
「あなたにとっての、です」
それだけ言って、セレネは本を棚に戻した。丁寧に、元の場所に。まるで何もなかったかのように。
「今日のところは引き下がってくれますか。もう少し時間をください」
「いつまで」
「できるだけ早く」
「それは答えではない」
「そうですね」
セレネが振り返った。笑っていた。穏やかで、上品で、いつものセレネの笑みだった。しかし今その笑みが、初めて保護ではなく支配に見えた。
この人は笑いながら、自分に見せていいものと見せてはいけないものを、冷静に選り分けている。
それがこの時、初めてはっきりとリゼットに見えた。
資料室を出た後、廊下をしばらく歩いた。
特に行き先はなかった。歩きながら、さっきの感触を整理しようとした。
怒っているか、と自分に問うと、怒っているかどうかわからなかった。ただ、何かが引っかかっていた。引っかかりの正体を探ると、少し意外な場所に行き着いた。
秘密にされた、ということよりも。
秘密にする相手として扱われた、ということの方が、引っかかっていた。
アルヴェインでも、多くのことが自分に知らされなかった。政治的な判断、外交の詳細、自分の扱いに関わる決定。それらはいつも決まってから伝えられた。それを不満に思わなかったと言えば嘘になるが、慣れていた。
ここでも同じだ、と思えばいい。しかし同じだと思えなかった。
なぜかを考えると、ここに来てからの記憶が出てきた。
疲れた、と言いに来たセレネ。小庭で話した時間。帯剣できる礼装を用意してくれたこと。旧戦場の帰路で肩を掴んだ手。夜通し誰かがいた気配。
全部、近かった。
近い場所にいる人間に、秘密にされると、アルヴェインの時とは違う引っかかり方をする。それだけのことだ。
そう整理した。
整理したが、すっきりしなかった。
夕方、ノエルと廊下で会った。
ノエルは資料を抱えていて、リゼットを見て少しびくっとした。慣れてきてはいるが、まだ突然現れると驚くらしい。
「ノエル」
「は、はい」
「資料室でよく見かけるが、何を調べている」
「そ、それは」
ノエルが視線を泳がせた。困っている顔だった。
「殿下に聞いてください、とは言えないのですが、かといって私が話していいことなのかどうかも判断できなくて、その」
「言えないということはわかった」
「す、すみません」
「謝らなくていい」
ノエルが少し安堵した顔をした。それからまた困った顔をした。何か言いたいが言えない、という顔だ。
「ノエル、一つだけ聞く。答えなくていい」
「……はい」
「私は自分の状態について、知っておいた方がいいか」
ノエルは黙った。長く黙った。目が、どう答えればいいか迷っている目だった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
答えたくて答えたのではなく、嘘はつきたくなかった、という頷き方だった。
「ありがとう」
「……リゼット様」
「何か」
「殿下は、悪い人ではありません。本当に」
それだけ言って、ノエルは小走りで行ってしまった。
リゼットは廊下に残った。
ノエルの言葉は、助け舟のつもりだったのだろう。しかし逆に言えば、そうした言葉が必要な状況だということでもあった。
夜になって、セレネが部屋に来た。
いつものように手ぶらで、いつものように穏やかに扉を叩いた。リゼットは入れと言った。
セレネが椅子に座った。テーブルを挟んで、向かいに座った。
しばらく黙っていた。
普段は沈黙を苦にしない人間だが、今夜の沈黙は重さが違った。お互いにわかっている、という重さだった。
「今日のことを謝りたいわけではありません」
セレネが先に言った。
「謝らないのか」
「秘密にしていることは事実です。謝れば、秘密にすることをやめるような誤解を与えます。まだやめられないので、謝りません」
「正直だな」
「あなたには嘘をつきたくないので」
リゼットはその言葉を聞いた。嘘をつきたくない、という言葉と、秘密にする、という行動の間の矛盾を、セレネ自身も知っている。知っていて、それでも秘密にする理由がある。
「時間をくれ、と言ったな」
「はい」
「信じていいか」
「信じてください」
「信じることと、納得することは別だ」
「そうですね」
セレネは少し間を置いた。
「今夜は、話し相手になってもらえませんか。それだけでいいです」
「資料室の件を保留にして、か」
「お願いします」
リゼットは少し考えた。保留にするのが納得できるかというと、できない。しかし今夜セレネを追い詰めても、何も変わらない気がした。変わらないどころか、何かを失う気がした。
「わかった。今夜は保留にする」
「ありがとうございます」
「ただし、約束してほしいことが一つある」
「なんですか」
「話せる時が来たら、私から聞く前に話してほしい」
セレネはすぐに答えなかった。
長い間があった。
それから、穏やかな声で言った。
「約束します」
その言葉の重さは、これまでセレネが使った言葉の中で、一番重かった。軽い言葉を使わない人間が、約束という言葉を使った時の重さだった。
それ以来、二人は別の話をした。
他愛のない話だった。ヴァルディスの秋の祭りの話、リゼットの故郷の川の話、フィグが菓子に序列をつけているという発見。セレネはよく笑った。普段の計算された笑みではない、少し力の抜けた笑い方だった。
秘密にされたことより、秘密にする相手として扱われたことが苦しかった。
それはまだ変わらなかった。
しかし今夜のセレネの笑い方が、その苦しさの隣に並んで、どちらが大きいか、まだわからなかった。




