第十一章 わたしの客将に触れないで
リゼットの名声がヴァルディス国内で広まり始めたのは、旧戦場の調査から一週間ほど経った頃だった。
きっかけは城下での魔獣騒ぎだったらしい。子どもを助けた話が市井に広まり、それが祝宴での竜殺しの英雄という印象と結びついた。軍の演習場でのミレイユとの試合の話も、武人の間ではすでに知られていた。
結果として、リゼット・アルヴェインという名前が、ヴァルディスの宮廷と軍の両方で一定の重みを持つようになった。
それが問題の始まりだった。
「本日の午前中だけで、接触の申し入れが四件入っています」
朝の説明をしながら、イリスは表情を変えなかった。しかし読み上げる内容の一つ一つに、微妙な温度差があった。
「軍部の北方担当から共同演習の再打診。宮廷の魔術師長補佐から能力運用の相談。西方の大貴族家から、名目上の家臣登録の提案。それから」
「それから?」
「婚姻の打診が一件。相手方のご子息は現在二十三歳で、騎士位を持ちます」
リゼットはしばらく黙った。
「全部断っていい」
「断り方の問題があります」
「どういう問題だ」
「相手によっては、断り方を間違えると外交上の摩擦が生じます。特に西方の大貴族家は殿下との関係が微妙な時期でもあり、粗雑に扱うと後々に響きます」
「では誰が断るんだ」
「殿下がご対応なさいます」
リゼットはそれを聞いて、少し重い気持ちになった。
その日の昼前、セレネの執務室で正式な対応が行われた。
リゼットは同席を求められた。当事者として、という理由だった。
四件の申し入れは、それぞれ代理人か書簡で届いていた。セレネは一件ずつ、穏やかに退けた。
軍部の北方担当には、「時期が整いましたら改めて検討いたします。現在は客将殿の環境を整えることが優先です」と返した。能力運用の相談には、「能力の運用については当方で一括して管理しております。個別の交渉はお受けしかねます」と閉じた。
大貴族家の家臣登録は、最も時間をかけた。
「ご提案の意図は理解しております。ただ、リゼット殿はアルヴェイン王家の王女でもいらっしゃいます。家臣登録という形式はアルヴェインとの関係を考慮すると、慎重に扱うべきかと存じます」
相手方の代理人は、それでも一歩踏み込もうとした。セレネは再度、同じ温度で閉じた。
婚姻の打診は一番短かった。
「ご縁をいただきましたことには感謝いたします。ただ、リゼット殿のご意向を最優先としておりますので、本人の意思なく進めることはいたしかねます」
代理人が引き下がった。
リゼットは一連を見ていた。セレネがやっていることは先日の祝宴でも見たことと同じだった。言葉で入口を閉じる。怒らない、圧力をかけない、しかし通さない。
全部が終わってから、代理人たちが退室した。
「お疲れ様でした」
イリスが言った。
セレネは小さく頷いてから、リゼットを見た。
「ご不満がありましたら聞きます」
「不満というより、確認だ。あれは全て私の意思を無視した形で進められていた申し入れだったのか」
「そうです。あなたに直接の打診があったのはミレイユからの試合申し込みだけで、残りは全て当方への打診です」
「私に聞いてから断る、という手順を取らなかったのはなぜだ」
「聞く必要がないと判断しました」
率直な答えだった。
「聞く必要がない」
「あなたが嫌だと思うことがわかっていたからです。それを確認するためにあなたの時間を使う必要はありません」
リゼットは少し間を置いた。
「それは、私の代わりに判断したということではないか」
「そうとも言えます」
「それが問題だと思わないか」
「問題かどうかは、結果次第です。結果が問題なければ、過程の問題は許容範囲です」
論理としては通っていた。しかし腹の中では、何かが収まっていなかった。
「……それが恩着せがましいと言われる種類のことだ」
「そうかもしれません」
セレネは認めた。いつものように、あっさりと。
その午後、宮廷内で小さな事件があった。
ある中堅貴族が来客との会話の中で、口を滑らせた。
リゼットが同じ廊下を通りかかった時、扉の向こうの声が漏れていた。
「英雄姫など、結局は使いどころですよ。どこの国でも道具は道具だ」
立ち止まった。
声の主は気づいていなかった。廊下に人がいることを確認せず、来客との会話に夢中だった。
内容自体は驚くものではなかった。似たような言葉をアルヴェインでも聞いたことがある。直接言われたことはなかったが、廊下の向こうや会議の後で漏れてくる言葉として。
慣れているはずだった。
しかし今日は、そこにセレネがいた。
いつの間にそこにいたのかわからないが、同じ廊下を歩いていたセレネが、その声を聞いていた。
セレネの足が止まった。それから扉を開けた。リゼットは後ろから見ていた。
「失礼いたします」
穏やかな声だった。しかし扉の開け方が、いつもと少し違った。開ける時の速度が、わずかに速かった。
「セ、セレネ殿下」
中にいた貴族の声が上ずった。
「今おっしゃっていたことを、もう一度お聞かせいただけますか」
笑顔だった。完璧な笑顔だった。
しかしその笑顔を見た貴族は、青くなった。正確に青くなった。
「い、いえ、あのこれは単なる世間話で」
「そうですか。世間話を承りました」
セレネはそれだけ言った。踏み込まなかった。ただ、聞いた、という事実だけを残した。
貴族は二度、三度謝った。セレネは笑顔のまま礼をして扉を閉めた。
廊下に戻ってきた。
リゼットがいることに気づいて、一瞬だけ表情が変わった。
「聞いていましたか」
「全部」
「……申し訳ありません」
「なぜあなたが謝る」
「あなたに聞かせる必要のない言葉でした」
リゼットは少し考えた。
「私は慣れている」
「慣れることを、わたくしは要求していません」
その言い方が少し強かった。セレネが感情を少し見せた時の強さだ。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「怒っているか」
今日二度目の質問だった。セレネは廊下の石畳に一瞬視線を移してから、リゼットを見た。
「はい」
「先日の祝宴でも同じことを聞いた」
「あなたへの悪意には毎回怒ります」
「なぜそこまで」
リゼットは問いかけた。聞いてしまった、という感触があった。しかし出てしまった言葉は戻らない。
セレネは少し間を置いた。
二人きりになったのはいつだろうと、リゼットは思った。イリスはいつの間にか別の場所にいる。廊下には二人しかいなかった。
「あなたを雑に扱わせるくらいなら、嫌われた方がましです」
穏やかな声だった。怒りが引いた後の、落ち着いた声だった。
「嫌われる、というのは誰にだ」
「宮廷の誰にでも」
「それはあなたの立場を危うくしないか」
「危うくします。かもしれません」
「そのリスクを承知で」
「承知で、です」
リゼットは返す言葉を探した。
ありがとう、と言えばいいのかもしれなかった。しかしその言葉が出てこなかった。出てこなかったのは、感謝していないからではなく、それだけでは足りない気がしたからだった。
「なぜそこまでするのかを、聞いてもいいか」
「今はまだ、答えられません」
「また秘密か」
「秘密というより」
セレネは少し言葉を選んだ。
「言葉にする前に、あなたに知ってほしいことがいくつかあります。順番があります。今日の答えは、その順番の後の方にあります」
「順番を待てということか」
「お願いできますか」
廊下の奥から人の気配がしてきた。セレネの表情が少し整った。公の顔に戻りかけた。
「リゼット」
「何か」
「その、なぜそこまでするのか、という質問を。覚えておいてください」
「忘れない」
「答えを言える日が来た時に、聞いてください」
それだけ言って、セレネは歩き始めた。
廊下の奥から来た侍女とすれ違って、何事もなかったように指示を出し始めた。
リゼットはその背を見ていた。
利用されていると思っていた。入城した時からずっと、政治的な道具として囲われていると思っていた。それは今も完全には消えていない認識だった。
しかし今の廊下の場面が、その認識の横に並んだ。並んで、どちらが本当かわからなくなった。
利用されているのかもしれない。
しかし、守られているようにも見えてしまった。
フィグが肩の上で言った。
「小娘よ」
「なんだ」
「ぬしの顔が、入城した時と変わってきておるぞ」
「どう変わった」
「さあの」
また教えない、とリゼットは思った。
しかしフィグが面白がっている時の顔ではなく、どこか安堵しているような顔をしていたことは、確かに見えた。




