第十二章 診断術式と逃げない約束
翌朝、ノエルがリゼットの部屋に来た。
両腕に紙束を抱えていた。紙束というより、ほとんど小さな塔だった。羊皮紙、薄い測定板、魔力を記録するための透明な石片。さらに細い銀糸の束まで持っているせいで、扉を開けたイリスが一瞬だけ眉を動かした。
「ノエル様」
「あ、す、すみません。落としません。たぶん」
「たぶん、で入室されるのは少々不安でございます」
「落としません。今のは言葉の癖です」
ノエルはそう言い直して、慎重に部屋へ入った。
リゼットは窓際に立っていた。朝の訓練はセレネから止められている。昨日の件があったからだ。胸の奥の熱はもう引いている。剣を振れないほどではない。だが、体の底に薄く残る疲労はあった。
それを認めることが、ひどく不本意だった。
「診断か」
「はい」
ノエルは小さく頷いた。
「殿下から許可をいただいています。もちろん、リゼット様が嫌なら中止します」
「嫌なら中止、か」
「はい。強制ではありません」
強制ではない。
その言葉が、この城に来てから何度か出てきたことを、リゼットは思い出した。セレネは囲い込む。日程を整え、食事を整え、部屋を整え、リゼットが拒む前に必要なものを置く。
けれど最後の一線では、いつも聞いてくる。
嫌なら断ってください、と。
それが余計に、断りにくかった。
「診断で何がわかる」
「正確には、わかるかもしれない、です」
ノエルは文机の上に道具を並べ始めた。細い銀糸を円形に置き、石片を四方に配置する。魔術の図形としては簡素に見えたが、糸の一本一本に細かな文字が刻まれていた。
「竜を討った後から、リゼット様の体内に残っている魔力の流れを読みます。普通の魔力とは違う反応があれば、記録できます」
「竜の残滓、ということか」
「その可能性があります」
ノエルの声はいつもより低かった。怯えているのではなく、慎重になっている声だった。
「ただ、先に言っておきます。これは治療ではありません。今日できるのは、あくまで状態の確認です」
「治せるかどうかは、まだわからない」
「はい」
正直な答えだった。
リゼットはその方がいいと思った。できるとも、できないとも言わない。わからないことを、わからないまま置く。その誠実さは、戦場の報告に似ていた。
フィグが寝台の端で丸くなっていた。眠っているように見えるが、耳だけは完全に起きている。
「フィグ」
「なんじゃ」
「寝ていないのか」
「この状況で寝られるほど、妾は図太くない」
「菓子があれば寝るだろう」
「ぬしは妾を何だと思っておる」
「菓子に弱い精霊」
「否定はせぬが、今それを言うでない」
ノエルが少しだけ笑った。緊張が一瞬ゆるんだ。
それで、リゼットはようやく椅子に座った。
「何をすればいい」
「右手を、この円の中に置いてください」
言われた通りにした。銀糸の円の中心に手を置く。冷たかった。魔力を帯びた金属の冷たさだ。
「痛みはありません。少しだけ、体の内側を撫でられるような感覚があるかもしれません」
「わかった」
「それから、途中で気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「わかった」
「我慢しないでください」
「わかった」
「本当に、我慢しないでください」
「ノエル」
「はい」
「三度言われると、逆に信用されていない気がする」
「あっ、すみません」
ノエルは慌てて頭を下げた。銀糸が少し揺れた。
「ただ、リゼット様は我慢しそうなので」
「……」
否定しようとして、できなかった。
フィグが鼻を鳴らした。
「ほれ見ろ。見習い魔術師にも見抜かれておる」
「黙っていろ」
「黙らぬ。ぬしは戦場では賢いが、自分の体のことになると急に愚かになる」
「フィグ」
「これは事実じゃ」
返す言葉がなかった。
ノエルは小さく息を吸った。銀糸の端に指を触れる。石片が淡く光った。
「始めます」
術式が動いた。
光は弱かった。攻撃魔術のような激しさはない。結界術のような圧もない。ただ、細い針のような魔力が、手のひらから腕へ、腕から胸の方へと静かに伸びてくる。
確かに痛くはなかった。だが、気分のいいものでもなかった。体の中にある見えない傷を、他人の指でなぞられているような感覚だった。リゼットは無意識に奥歯を噛んだ。
「リゼット様」
ノエルがすぐに声をかけた。
「痛みますか」
「痛くはない」
「では、嫌な感じがしますか」
「……する」
言ってから、自分で少し驚いた。
いつもなら、たいしたことはない、と答えていた。痛くないなら問題ない、と言っていた。だが今は、嫌な感じがすると言った。
ノエルも少し驚いた顔をした。けれどすぐに頷いた。
「では、少し弱めます」
銀糸の光が細くなった。体内を撫でる感覚が、わずかに遠のく。リゼットは息を吐いた。息を止めていたことに、その時になって気づいた。
「今のでいいですか」
「ああ」
「続けます」
ノエルは術式を調整しながら、石片に視線を落とした。透明だった石片の中に、淡い赤い線が浮かび始めている。血の色に似ていた。いや、竜の炎の色かもしれない。
リゼットはそれを見ないようにした。
見ないようにしたが、見えてしまう。
自分の体の中にあるものが、他人の前に形を持って現れている。それが妙に落ち着かなかった。
剣の傷なら見せられる。折れた骨も、裂けた皮膚も、戦場で負ったものなら説明できる。どこで受けた傷か、どう処置したか、次に同じ攻撃を受けた時はどう避けるか。全部、戦術の言葉にできる。
けれどこれは違った。竜を殺した後から胸の奥にある熱。剣を振るたびに、命の内側が少し薄くなるような感覚。疲れとは違う。痛みとも違う。言葉にしないまま、ずっと放置してきたもの。
それが今、赤い線になって石の中に浮かんでいる。
「……こういうふうに見えるのか」
思わず言った。ノエルが顔を上げた。
「はい。正確な解釈は、まだ後で確認しないといけません。でも、通常の魔力反応とは違います」
「通常ではない」
「はい」
ノエルはそこで言葉を止めた。余計な推測を言わないためだろう。
沈黙が落ちた。その沈黙の中で、扉が静かに叩かれた。
「入っても?」
セレネの声だった。
ノエルがリゼットを見る。リゼットは少し迷ってから頷いた。
「どうぞ」
扉が開いた。
セレネは部屋に入ってすぐ、文机の上の術式を見た。それからリゼットの手を見て、石片に浮かぶ赤い線を見た。表情は変わらなかった。いつもの穏やかな顔だった。
だが、目だけが変わった。
ほんの少し、冷えた。
「途中ですか」
「はい。今、第一層の読み取りをしています」
ノエルが答えた。
「異常反応があります。まだ断定はできませんが、竜由来の残滓と見ていいと思います」
「そうですか」
セレネは短く答えた。
それだけだった。責めない。驚かない。取り乱さない。
けれどリゼットには、その静けさがかえって重く感じられた。
「セレネ殿下」
「何ですか」
「まだ、何かが決まったわけではない」
「ええ。わかっています」
「なら、そんな顔をしなくていい」
セレネは一瞬だけ黙った。
「どんな顔をしていますか」
「……怒っているように見える」
「怒っています」
即答だった。
リゼットは言葉に詰まった。ノエルも目を丸くした。フィグだけが、やはりな、という顔で尻尾を揺らした。
「誰に」
「あなたをそういう状態にしたものに」
穏やかな声だった。
「古竜に。竜殺しという名に。あなたを便利な切り札として使ってきた国に。それから、そう扱われることに慣れてしまったあなたに」
最後の言葉だけ、少しだけ痛かった。
リゼットは視線を落とした。銀糸の円の中にある自分の手を見る。戦うための手だ。剣を握る手。竜を殺した手。国を守った手。
その手を、セレネは今、道具ではなく傷ついたものとして見ている。
「私は、自分で選んだ」
「そうでしょうね」
「竜を討ったことも、ここに来たことも」
「ええ」
「なら、それは私の責任だ」
「責任と、使い捨てにされていいことは別です」
セレネの声は荒くなかった。むしろ、いつもより丁寧だった。丁寧だからこそ、逃げ道がなかった。
「あなたが選んだことを否定するつもりはありません。あなたが守ったものも、あなたの強さも否定しない。けれど、選んだからといって、全部一人で背負う必要はないはずです」
リゼットは返事をしなかった。
言われている意味はわかる。
わかるが、体がまだ追いつかなかった。
戦場では、一人で立てなければ死ぬ。一人で判断できなければ誰かが死ぬ。だから、限界を人に見せないことは正しいことだった。少なくとも、今まではそうだった。
だが今、銀糸の円の向こうにノエルがいて、扉の近くにセレネがいて、寝台の端にフィグがいる。
誰も、リゼットを戦わせるために見ていない。
それが、わからなかった。わからないまま、少しだけ苦しかった。
「リゼット様」
ノエルが控えめに言った。
「続けても大丈夫ですか」
リゼットは頷こうとした。
その前に、フィグが言った。
「声に出せ」
「……」
「頷くだけで済ませるな。大丈夫なら大丈夫と言え。嫌なら嫌と言え。妾は今日、そこを見張るためにここにおる」
「おまえは本当にうるさい」
「うるさい精霊が必要な主じゃからな」
リゼットは小さく息を吐いた。
それから、ノエルを見た。
「続けてくれ。今のところ、大丈夫だ」
「はい」
ノエルが術式に触れた。
銀糸の光が再び強まる。赤い線が石片の中で枝分かれした。胸の奥がわずかに熱を持つ。リゼットはそれを感じながら、今度は息を止めなかった。
大丈夫だ、と言った。
だから、大丈夫でいるために、息をする。
それは今までのリゼットにはない考え方だった。
少しして、ノエルが術式を止めた。
光が消える。銀糸がただの銀糸に戻った。石片の中には、赤い線が残っている。記録された反応だ。
「終わりました」
「わかった」
「詳しい解析には時間がかかります。今日中に一次結果をまとめます」
「頼む」
リゼットが手を引こうとした時、指先がわずかに震えた。
ほんの一瞬だった。隠せる程度の震えだ。
だが、セレネが見ていた。
「リゼット」
「大丈夫だ」
「今の大丈夫は、どちらですか」
「どちら、とは」
「本当に大丈夫なのか、大丈夫ということにしたいのか」
リゼットは黙った。
答えを探して、見つからなかった。
セレネは近づいてきた。リゼットの隣に立つ。手を伸ばしかけて、止めた。
「触れても?」
そう聞かれた。リゼットは少しだけ驚いた。
セレネなら、そのまま手を取ることもできたはずだ。膝掛けも、食事も、訓練時間も、いつの間にか整えてしまう人だ。
けれど今は聞いた。触れてもいいか、と。
「……構わない」
セレネの指が、リゼットの手に触れた。
冷たかった。いや、自分の手が熱を持っているだけかもしれない。セレネはリゼットの指先を包むように持った。力はほとんど入っていない。逃げようと思えば、すぐに抜ける。
その弱さが、かえってリゼットを動けなくした。
「震えています」
「少しだ」
「少しでも、震えています」
「戦闘に支障はない」
「今、戦闘の話はしていません」
リゼットはまた黙った。
この城に来てから、何度この沈黙をしただろうと思った。言い返せない沈黙。正論で押し負けたのではない。セレネの言葉が、リゼットの中の見ないふりをしていた場所に触れるから、言葉が出なくなる。
「今日はもう訓練を禁止します」
「それは命令か」
「お願いです」
「お願いなら断れるな」
「断れます」
セレネはそう言った。
「でも、断らないでください」
ずるい言い方だと思った。
命令なら反発できる。指示なら従うかどうか判断できる。だが、お願いと言われると、剣を向ける場所がなくなる。
リゼットは手元を見た。セレネの手が、まだ自分の指先に触れている。
「……わかった」
セレネの目が少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「わたくしにとっては、礼を言うことです」
ノエルが石片を片づけ始めた。イリスがそっと布を差し出す。フィグは寝台の上で大きく伸びをした。
「では、妾は菓子を所望する」
「なぜ今その話になる」
「重い話ばかりでは腹が減る」
「おまえは本当に」
「それに、今日は小娘が逃げなかった祝いじゃ」
リゼットは一瞬、返す言葉を失った。
逃げなかった。竜から逃げなかったことはある。敵兵から逃げなかったこともある。戦場で退かなかったことなら、いくらでもある。
だが、自分の体の異常から逃げなかったことを、誰かにそう言われたのは初めてだった。
「……祝いではない」
「祝いじゃ。妾が決めた」
フィグは胸を張った。
「逃げぬことにも、いろいろある。今日はそのうちの一つじゃ」
セレネが微かに笑った。ノエルも、少しだけ笑った。
リゼットは窓の外を見た。朝の光が、城の石壁を照らしている。アルヴェインとは違う、少し青みを帯びたヴァルディスの光だった。
この国に来た時、その光は檻の鍵に見えた。
今も、囲われている感覚はある。
けれど、その囲いの中にいる人間が、自分を使うためだけにここへ置いているのではないことを、リゼットはもう知っている。
守ろうとしている。たぶん、不器用なほどに。
「ノエル」
「はい」
「解析結果が出たら、私にも説明してくれ」
「もちろんです」
「難しい言葉は減らしてくれ」
「努力します」
「努力ではなく、実行してくれ」
「あ、はい。実行します」
ノエルが慌てて頷いた。
セレネがリゼットの手を離した。離れた指先が、少しだけ冷えた。
「リゼット」
「何だ」
「逃げないでくれて、ありがとうございます」
また礼を言われた。
今度は否定しなかった。
「まだ逃げないと決めたわけではない」
「それでも、今日は逃げなかった」
「……そうだな」
リゼットは自分の手を見た。
竜を殺した手。剣を握る手。
そして今日、初めて誰かに震えを見られた手。
それを恥だとは思わなかった。まだ、誇れるわけでもない。ただ、隠さなくても部屋の空気が壊れなかった。そのことが、少しだけ不思議だった。
フィグが菓子皿の方へ歩きながら言った。
「小娘」
「なんだ」
「次に大丈夫ではない時は、大丈夫ではないと言え」
「努力する」
「実行せよ」
「……実行する」
フィグは満足そうに頷いた。
セレネが穏やかに笑った。ノエルが石片を抱えて、慎重に部屋を出ていく。イリスがその後ろについていった。
部屋には、リゼットとセレネとフィグだけが残った。
朝の光はまだ明るい。
けれどリゼットの胸の奥には、朝に似合わない赤い線が残っている。石片に映った、竜の残滓の色。あれが何を意味するのかは、まだわからない。
わからないまま、リゼットは息をした。
今度は、ひとりで抱え込むためではなく。
誰かに説明するために。
誰かと一緒に、次の答えを探すために。




