第十三章 竜殺しの代償
朝に診断術式を終えてから、夜になってもリゼットの部屋には落ち着かない空気が残っていた。
リゼットが眠ってから起き出したのか、あるいは眠らずにいたのか、どちらかはわからない。ただセレネの執務室の扉が深夜に叩かれた時、中にいたのはセレネとイリスだった。二人ともまだ起きていた。
フィグが入ってきた。
肩に乗る小動物が、深夜に一人で執務室を訪ねてくる。その事実が、言葉より先に何かを告げていた。
「殿下」
フィグの声は、いつもの尊大な口調ではなかった。
「妾は今夜、ぬしに話をしに来た」
セレネは書類を置いた。イリスが扉の前に立った。
「聞かせてください」
「リゼットには聞かせるな。今は眠っておる。だがいつまでも眠り続けるわけではない。時間がない」
「わかっています」
「どこまでわかっておる」
セレネは答えなかった。代わりにイリスが椅子を引いた。フィグが台の上に乗った。
「話してください、フィグ」
「妾は契約精霊じゃ。竜殺しに付随する存在として、リゼットが古竜を討った時に生まれた」
「存知ております」
「ならば、妾がリゼットの命の削れ具合を感知できることも知っておるな」
「はい」
「今夜、話しに来たのはそのことじゃ」
フィグは少し間を置いた。台の上で、足先を揃えた。
「削れている」
短く言った。
「竜を討った後から、少しずつ削れておる。剣技を使うたびに、瘴気を察知するたびに、戦闘で限界に近い動きをするたびに、削れる速度が上がる。旧戦場での波の後、速度が上がった。妾には感知できる」
「どの程度の速度ですか」
「今の速度が続けば、三年から五年。何か大きな消耗が加わればもっと早い」
執務室が静かになった。
深夜の城の静けさの中で、その数字だけが残った。
「ただし」
フィグが続けた。
「これは今の速度が続いた場合の話じゃ。速度が変われば数字も変わる。それと、妾の感知は精度に限界がある。正確な診断は魔術師の仕事じゃ」
「ノエルに計測を依頼しています。ただ、フィグが直接感知できる情報は、術式では測れない部分をカバーできます」
「知っておる。だから来た」
イリスが書き留めていた。羽根ペンが走る音が静かに続いた。
「フィグ」
セレネが呼んだ。
「リゼットは、自分の状態についてどの程度把握していると思いますか」
「感じてはおる。感じているが、考えたくない。考えたくないから、疲れだと言う」
「……そうですね」
「ぬしも知っておるな」
「はい」
「なぜまだ言わん」
セレネは少し間を置いた。
「言い方を間違えたくないからです。伝える内容が正確でない状態で話すと、リゼットを余計に傷つけます」
「それはぬし自身の都合ではないか」
「そうかもしれません」
認めた。フィグはその答えを聞いて、少し黙った。
「ぬしはリゼットをどう思っておる」
突然の質問だった。
「政治的な話ではなく、じゃ」
セレネはすぐに答えなかった。イリスが顔を上げた。
「……今は、まだ答えない方がいい質問です」
「答えられないのか、答えたくないのか」
「どちらもです」
「どちらも、か」
フィグが鼻を鳴らした。
「妾はぬしが信用できるかどうか、まだ判断しておらん。ただ今夜話しに来たのは、妾一人で抱えておくよりも、ぬしが知っておいた方がリゼットのためになると思ったからじゃ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。ただ、一つ約束してくれ」
「なんですか」
「リゼットが自分の状態を知った時、一人にしないでくれ」
セレネが答えるまでに、少し時間がかかった。
「約束します」
フィグは頷いた。台から降りて、扉の方へ歩いていく。
セレネが呼び止めた。
「ひとつだけ聞かせてください、フィグ」
「なんじゃ?」
「速度を遅らせることは、できますか?」
「できるかもしれん。ただしリゼット自身の選択が要る。妾の力でどうにかなるものではない」
「そうですか」
「ぬしの魔術は役に立つかもしれんがな」
それだけ言って、フィグは扉を出た。
廊下を歩いて、リゼットの部屋に戻った。扉をゆっくりと開けると、リゼットはまだ眠っていた。
フィグは寝台の端に乗った。リゼットの顔を見た。
眠っている時は、英雄の顔ではなかった。竜殺しの顔でも、客将の顔でもなかった。ただの、疲れた若い人間の顔だった。
妾は心配しておる、とフィグは思った。口には出さなかった。
翌日は何も変わらなかった。
訓練があった。昼にセレネとの時間があった。夕方に書類の補助をした。フィグはいつもの尊大な口調で菓子をねだった。セレネはいつもの穏やかな顔で一日を過ごした。
ただリゼットには、セレネの目が昨日より少し違う気がした。
気がした、という程度だった。何が違うかと言えば言葉にならない。視線が少し長い、とか、話す時の間が少し慎重になった、とか。そういった細かいことだった。
気のせいかもしれなかった。
しかし気のせいではない気もした。
その夜、眠れなかった。
理由は明確ではなかった。体は疲れていた。しかし頭が冷静にならなかった。
旧戦場での波の感触が、また浮かんできた。竜を討った時の記憶。地脈の残滓と自分の内側の何かが共鳴した感触。
竜殺し。代償。継承。
資料室で見た三つの言葉が、また浮かんだ。
セレネが本を閉じた。今は知らなくていいことです、と言った。
ノエルが頷いた。知っておいた方がいい、という頷き方で。
フィグが言った。ただの疲れではない、と。
それらがひとつの形を作り始めていた。まだ輪郭が曖昧だが、何かが見えかけていた。
リゼットは寝台の上で起き上がった。暗い部屋の中、剣が壁に立てかけてある。入城してからも、剣だけは常に手の届く場所に置いていた。
剣を手に取った。
鞘ごと、膝の上に置いた。重さを確認するように、両手で持った。
この剣で、古竜を討った。
その日のことを思い出した。竜が墜ちた瞬間、達成感があった。国が救われた、という感触があった。しかし同時に、何かが自分の中から流れ出した感触もあった。あの時は疲弊だと思った。戦闘の消耗だと思った。
今もそう思いたかった。
しかし思えなくなってきていた。
「眠れないのか」
フィグの声がした。台の上から来て、寝台に飛び乗った。
「フィグ」
「なんじゃ」
「何か、私に言っていないことがあるか」
暗い部屋の中で、フィグの目だけが光っていた。賢い目だった。何かを知っている目だった。
長い沈黙があった。
「ある」
フィグは答えた。
「言えないのか」
「今夜は言えん」
「なぜ」
「順番がある。妾が先に言うべきことではない」
順番。セレネも同じ言葉を使った。
「私に関わることか」
「ある」
「深刻か」
また沈黙があった。
「深刻かどうかは、ぬし次第じゃ」
それはどういう意味か、と問いかけようとした。しかしフィグが、珍しく先に言った。
「小娘」
「なんだ」
「ぬしは自分の命を、軽く見すぎておる」
穏やかな言い方だった。叱責でも心配でもなく、ただ事実として言った。
「……軽くはない」
「軽いとは言っておらん。軽く見ている、と言った」
その区別が、リゼットには少し刺さった。
「役に立つためなら死んでもいい、とは思っていない」
「思っておらんかもしれん。しかしぬしは、自分が死ぬことを可能性の一つとして許容しておる。役目のためなら仕方がない、と思っておる。それを妾は、軽く見ている、と言っておる」
答えられなかった。
否定できなかった。
竜を討った日も、今日この城にいる日も、自分が死ぬことへの拒否感は、他人への拒否感より薄かった。国のため、役目のため、という言葉が、自分の死を正当化する理由として機能していた。それをおかしいと思っていなかった。
「フィグ」
「なんじゃ」
「あなたは、今夜なぜそれを言いに来た」
「心配だからじゃ」
迷わずに答えた。
「ぬしが自分の命を道具だと思い続けている間は、どんな情報を渡しても、ぬしは正しく受け取れない。だから先に言っておきたかった」
「どんな情報、というのは」
「続きはある。ただし今夜ではない」
リゼットは剣を膝の上に置いたまま、少し考えた。
フィグが言ったことは、正確だった。自分の命を道具だと思ってはいない。しかし道具に近い扱いを受け入れてきた。その受け入れ方が、自分の命への軽さと繋がっていたかもしれない。
「……考える」
「考えよ」
「すぐに答えは出ない」
「出なくていい。ただ、考え始めることが要る」
フィグは寝台の端で丸くなった。眠る気なのか、いるだけなのか、わからない。
リゼットは剣を壁に戻した。
寝台に横になった。天井を見た。ヴァルディスの城の天井は、アルヴェインより高い。
眠れないまま、長い時間が過ぎた。
翌朝、セレネとイリスとフィグが、廊下で話していた。
リゼットが訓練から戻ってきた時、三人は廊下の曲がり角にいた。話し込んでいた。気配に気づいていなかった。
足音を立てないように歩いてきたわけではない。しかし三人が話に集中していたから、気づかれなかった。
「速度が上がっています。旧戦場の後から、フィグの感知でも明らかに」
イリスの声だった。
「ノエルの術式では」
「昨日の計測では、想定より速い。今の状態が続けば」
「わかっています」
セレネの声が、低かった。
「封印の器として使われれば、加速します。そうなる前に手を打たなければ」
「はい」
「リゼットに話すのは」
「もう少し待ってください。言い方を考えています」
そこで、廊下の向こうに人の気配がした。
リゼットは反射的に一歩下がった。見つかった、と思った。
その一歩が、曲がり角の手前だった。
三人はまだ気づいていなかった。
リゼットには続きが聞こえた。
「命を削る」とイリスが言った。
「次の封印の器」とセレネが繰り返した。
それだけだった。
近づいてきた足音に気づいたのか、三人はそこで話を止めた。
リゼットは曲がり角の手前で立っていた。
三人がリゼットに気づいた時、全員の顔が少し変わった。
どこまで聞いたか、を考えている顔だった。
「リゼット様、訓練はいかがでしたか」
イリスが尋ねた。
「普通だった」
セレネがリゼットを見た。目が、少し、何かを測っていた。
「昼食にしましょう」
セレネがそう言うと、
「そうだな」
リゼットはそう答えた。
廊下を一緒に歩きながら、リゼットは昼食の話をした。セレネも昼食の話をした。フィグが菓子の話をした。
全部、普通の会話だった。
誰も、廊下での話には触れなかった。
昼食の後、リゼットは自分の部屋に戻った。
剣を手に取った。壁から外して、膝の上に置いた。昨夜と同じ動作だった。
命を削る。
次の封印の器。
言葉の意味はわかった。理解した、ということではない。ただ、意味はわかった。
竜を討った代償が、自分の命を少しずつ削っているということ。そしてそれが、次の封印に使われる可能性があるということ。
英雄ではなく、死に向かう器かもしれないということ。
その可能性を、セレネとイリスとフィグが知っていて、自分に言っていなかったということ。
誇りだと思っていた剣が、死刑宣告の証明のように重かった。
フィグが来た。扉をどうやって開けたのかわからないが、音もなく入ってきた。
「小娘」
「……」
「聞いたのじゃな」
リゼットは答えなかった。答えなかったが、フィグには伝わった。
フィグは寝台に乗って来た。リゼットの膝の横に座った。剣の鞘を見た。
「何か言いたいことがあるなら聞く」
フィグが言った。
リゼットは少し考えた。
何か言いたいことが、あるかどうか。
英雄だと思っていた。役に立つために戦う人間だと思っていた。竜を討ったことを誇りだと思っていた。
それが今、少し、違う形で見えていた。
英雄の剣ではなく、消耗品の刃。役に立つためではなく、使い切られるための存在。誇りではなく、契約の代償。
しかし、と思った。
それを知った上で、どうするかは、まだわからなかった。
死ぬことへの拒否感は、フィグに言われるまで薄かった。今も、昨日より強くなったかどうかはわからない。
ただ一つだけ、浮かんだことがあった。
セレネの顔だった。
昨夜ではなく、今朝の廊下での顔。命を削る、という言葉の後、セレネの声が低かった。何かを抑えている声だった。
あの声が、今も耳に残っていた。
「フィグ」
「なんじゃ」
「何も言えない。まだ言葉がない」
「それでいい」
「何がいいんだ」
「言葉がない、とわかっておることがいい。わからないふりをするより、ずっとましじゃ」
リゼットは剣を膝に置いたまま、長く動けなかった。




