第十四章 あなたは、知っていたのか
セレネに問い詰めに行ったのは、翌日の朝だった。
一晩、考えた。考えたというより、眠れなかっただけかもしれない。天井を見て、剣を見て、窓の外の灯が消えて夜明けの光に変わるのを見ていた。
フィグは何も言わなかった。夜通し寝台の端にいた。
朝になって、着替えて、水を飲んで、廊下に出た。セレネの執務室の前まで来た。扉を叩いた。
「どうぞ」
入った。
セレネは書類の前にいた。朝の仕事を始めていた。リゼットを見て、一瞬だけ目が止まった。何かを読んだ目だった。
「リゼット」
「少し時間をほしい」
「もちろんです」
セレネは書類を置いた。イリスが壁際に立っていた。椅子を引こうとした。
「立ったまま話す」
イリスが動きを止めた。セレネが小さく頷いた。イリスは元の場所に戻った。
リゼットはセレネの前に立った。
「昨日、廊下で話を聞いた」
「どこまで」
「命を削る、という言葉と、次の封印の器、という言葉を聞いた」
セレネは表情を変えなかった。ただ、少し息を吸った。
「知っていたのか」
問いかけた。声が思ったより平坦だった。怒鳴ろうとしていたわけではないが、平坦すぎた。それがかえって、自分の中に何かが固まっている感触を示していた。
「はい」
セレネは答えた。
「いつから」
「あなたが来た時から、疑っていました。確信に変わったのは、旧戦場の調査の後です」
「それから今日まで、何日だ」
「十日ほどです」
「十日間、私に言わなかった」
「はい」
はい、と言い続けた。言い訳をしなかった。リゼットはその誠実さを、今は少し腹立たしく思った。言い訳をしてくれた方が、怒りやすかった。
「なぜ言わなかった」
「言い方を間違えたくなかったからです。情報が整う前に話すと、あなたを余計に傷つける可能性があった」
「それはあなたの判断だ」
「そうです」
「私が自分の体のことを知る権利を、あなたが判断で決めたということだ」
セレネは少し間を置いた。
「……そう言われれば、そうです」
「利用するためではないと言うか」
「言います。利用するためではありません。生かす方法を探していました」
「生かす方法を探しながら、私に黙っていた」
「はい」
「それが問題だと」
「問題だとわかっています」
わかっています、という答えが出るたびに、リゼットの中で何かが硬くなった。全部受け入れる。全部認める。しかし変えない。そういう答え方だった。
「私はここへ、役に立つために来た」
「知っています」
「役に立てなくなるなら、話が違う」
「役に立てなくなる、とは言っていません」
「命を削るということは、いつか尽きるということだ」
「それを早めないための方法を探しています」
「そういう話ではない」
リゼットは声を上げなかった。しかし言葉が強くなっていた。
「そういう話ではないと言った。命がいつか尽きることより、あなたが知っていて言わなかったことの話をしている」
セレネが少し動いた。書類机から一歩出て、リゼットの方に向いた。正面から向いた。
「なぜ言わなかったのかは、言いました」
「言い方を間違えたくなかった、というのは理由になっていない。あなたが準備できるまで待つことと、私が知らないでいることは別の話だ」
「……そうです」
「そうです、と言ってばかりだ」
「反論できないからです」
「反論できないならなぜそうした」
セレネは答えなかった。
答えない、ということが答えの一つだとリゼットは思った。理由はある。しかしその理由を今は言わない、という選択をしている。
「私は役に立つためにここへ来た」
もう一度言った。
「死ぬならそれも役目だ」
言ってしまった。
言ってから、フィグに昨夜言われたことが浮かんだ。自分の命を軽く見ている、という言葉が。しかし出てしまった言葉は戻らなかった。
セレネが変わった。
表情が変わった。穏やかな顔が消えた。笑みが消えた。含みのある目が消えた。
代わりに出てきたのは、リゼットが一度も見たことのない顔だった。
「そんな言い方をしないで」
声が、低かった。穏やかではなかった。怒りだった。これまでのセレネの怒りとは種類が違った。祝宴での怒りは冷たかった。あれは計算のある怒りだった。しかし今の怒りは、計算がなかった。
「そんな言い方を、しないでください」
繰り返した。
イリスが壁際で静止した。
「死ぬならそれも役目だと、あなたはそう言いましたね」
「言った」
「それは、あなた自身の言葉ですか」
「……そうだ」
「誰かに言わされた言葉ではなく」
「誰も言わせていない。自分の言葉だ」
「そうですか」
セレネの声が、さらに低くなった。怒りが沈んでいく方向の声だった。爆発するのではなく、内側に凝縮していく怒りだった。
「あなたを封印の器に使おうとしている人間がいます。あなたの命を消耗品として数えている人間がいます。わたくしはそれを止めるために動いています」
「知っている」
「知っている上で、死ぬならそれも役目だと言いますか」
「それは」
「あなたを道具にしようとしている人間と、あなた自身が、同じことを言っている」
その言葉が、刃のように入ってきた。
反論しようとした。しかし言葉が出なかった。
セレネが言ったことは正確だった。道具として扱う者と、道具として扱われることを受け入れる自分。その二つが同じ方向を向いているという指摘は、否定できなかった。
「わたくしが黙っていたことを怒るなら怒ってください。それは正当な怒りです。しかし、死ぬなら役目だという言い方は、二度としないでください」
「なぜだ」
「なぜ」
セレネが少し動いた。一歩、前に来た。
「なぜ、というのは本気で聞いていますか」
「本気で聞いている」
「……今は、答えられません」
また答えられない、という言葉が出た。リゼットの中で何かが切れた。
「また答えられないと言う」
「はい」
「あなたはいつも、肝心なことを答えない」
「そうですね」
「そうですね、と言うだけで何も変わらない」
「今は変えられないことがあります」
「それもあなたの判断か」
「そうです」
リゼットは一歩下がった。踏み込んでいた距離から、退いた。
「わかった。今日は引き下がる」
「リゼット」
「言いたいことは言った。あなたが知っていて言わなかったことに、私は怒っている。それだけだ」
「……はい」
「それと」
扉の方へ向かいながら、振り返らずに言った。
「死ぬなら役目だという言い方は、二度としない。それは約束できる」
セレネが何か言おうとした気配があった。しかしリゼットは扉を開けて、出た。
廊下は静かだった。
歩きながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。怒りだろうか、消耗だろうか、どちらかわからなかった。両方かもしれなかった。
どこへ行くか決めていなかった。足が訓練場の方へ向いていた。
行きかけて、やめた。
今剣を振ることは、フィグが昨夜言ったことの逆方向だ。消耗する方向だ。わかった上でやめることが、今できる小さな変化かもしれなかった。
代わりに、城の東庭に出た。
朝の光が石畳に落ちていた。花の香りがあった。人がいなかった。
石のベンチに座った。
セレネが感情を乱した。あの顔は計算のある顔ではなかった。怒りだった。本物の怒りだった。
なぜあの人が、自分の死に対してあれほど怒るのか。
利用する駒が失われることへの怒りではなかった、とリゼットには分かった。それならあんな顔にならない。もっと冷たい、計算のある怒りになる。
ではなんだったのか。
フィグが来た。いつの間にか庭に入っていた。ベンチの横に座った。
「小娘」
「なんだ」
「ぶつかったか」
「ぶつかった」
「そうか」
フィグは少し黙った。庭の花を見た。
「セレネ殿下は泣いておったぞ」
リゼットが顔を向けた。
「泣いていた」
「執務室で、ぬしが出た後で。イリスが困っておった」
それは知らなかった。想定していなかった。
「……それは」
「妾も驚いた。あの魔女娘が泣くとは思っておらんかった」
リゼットは庭の石畳を見た。
秘密にされたことへの怒りは変わらなかった。受け入れられない、という感触も変わらなかった。しかしその隣に、今はっきりしなかった何かが生まれていた。
「守ろうとした秘密が、いちばん深く相手を傷つけていた」
フィグが言った。
「それはどちらへの話だ」
「両方じゃ」
そうかもしれなかった。
リゼットは東庭の花を見た。白と薄紫の、名前を知らない花だった。
セレネが泣いた。
その事実は、執務室でのどんな言葉よりも、リゼットの中で長く残った。




