第十五章 言えなかったことの翌日
翌朝、リゼットはいつもより早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。眠った感覚はある。だが、眠りが浅かった。何度も目が覚め、そのたびに昨日の会話を思い出した。
セレネは、知っていた。
竜殺しの力が命を削る可能性を、最初からではないにせよ、リゼットより先に知っていた。
隠していた。その言葉だけを取り出せば、責める理由になる。怒っていい。問い詰めていい。信じられないと言ってもいい。
けれど、リゼットの胸の中にあるものは、それほど単純ではなかった。
セレネは隠した。だが、使うために隠したのではない。少なくとも、今のリゼットにはそう思えなかった。もし利用するつもりなら、診断を急がせる必要も、訓練を止める必要も、あんな顔をする必要もない。
だから厄介だった。
怒りきれない。それなのに、傷ついていないわけでもない。
その中途半端な感情が、リゼットには扱いづらかった。
「朝食でございます」
イリスがいつもの時間に部屋へ来た。
盆の上には、パンと温かいスープ、果物、それから薬湯があった。いつも通りだった。いつも通りであることが、少しだけ落ち着かなかった。
「今日は訓練の予定は」
「午前は空いております」
「では、訓練場を使う」
「承知いたしました」
イリスは止めなかった。
少し意外だった。
「止めないのか」
「リゼット様の体調は、今朝の時点では安定しているとノエル様から伺っております。無理のない範囲であれば問題ないとのことです」
「セレネ殿下の指示か」
自分で言ってから、声が硬くなったことに気づいた。
イリスも気づいたはずだ。だが、表情は変えなかった。
「殿下は、今日はリゼット様の判断を優先するように、と」
「……そうか」
「はい」
それだけだった。
リゼットはスープを口に運んだ。味は変わらない。いつも通り、体に入れやすい温度だった。
その気遣いを今は少し重く感じる。重いと思うことが、さらに自分を落ち着かなくさせた。
訓練場には、人が少なかった。
朝の早い時間だったからだ。数人の騎士が木剣で型の確認をしている程度で、広い場所のほとんどが空いている。
リゼットは剣を抜かなかった。
今日は真剣ではなく、訓練用の木剣を選んだ。軽すぎる。重心も違う。けれど、今はその違和感の方がよかった。慣れた剣を持つと、いつもの自分に戻ってしまう気がした。
素振りを始めた。
一度。二度。三度。
体は動く。胸の奥に熱はない。手の震えもない。足運びも乱れていない。
問題はない。そのはずなのに、剣が少し重かった。
木剣なのに。
「いつもの剣ではないのですね」
声がした。
ミレイユだった。
訓練場の入口に立っていた。軍装ではなく、軽い訓練着姿だ。腰には木剣を下げている。偶然通りかかった顔ではなかった。
「ミレイユか」
「はい」
「セレネ殿下に言われて来たのか」
「いいえ」
即答だった。
「殿下は、わたくしに何も命じておりません。むしろ今日は、リゼット殿のことをそっとしておくように、と」
「なら、なぜ来た」
「わたくしが気になったからです」
ミレイユはまっすぐ言った。
こういうところは嫌いではない、とリゼットは思った。ミレイユは警戒も敵意も隠さない。好意も隠さない。遠回しな社交より、よほどわかりやすい。
「相手をしてくれるのか」
「必要であれば」
「では頼む」
二人は向かい合った。
礼をして、構える。
ミレイユの構えは堅実だった。守りに偏りすぎず、踏み込みの余地を残している。セレネの近衛として鍛えられているだけあって、間合いの取り方が丁寧だ。
リゼットは先に動いた。軽く踏み込み、右から打つ。ミレイユは受けた。硬い音が響く。すぐに返しが来る。リゼットは半歩引いて流した。
三合、四合。
体は動く。だが、いつもより一呼吸遅い。
理由はわかっていた。体ではない。思考の方が遅れている。
セレネは知っていた。隠していた。守るためだった。でも、言わなかった。言ってほしかったのか。
自分は、本当にそう思っているのか。
考えた瞬間、木剣が弾かれた。
ミレイユの一撃が、リゼットの肩口の手前で止まる。
「一本です」
「……ああ」
リゼットは木剣を下ろした。
ミレイユはすぐには構えを解かなかった。こちらを見ている。勝ったことを誇る顔ではない。むしろ、少し困っている顔だった。
「集中が乱れています」
「わかっている」
「体調の問題ですか」
「違う」
「では、殿下のことですか」
リゼットは返事をしなかった。
沈黙が答えになった。ミレイユは木剣を下ろした。
「少し歩きませんか」
「訓練ではないのか」
「今のリゼット殿と打ち合っても、訓練になりません」
「はっきり言うな」
「嘘を言う理由がありません」
やはり、わかりやすい。
訓練場の外には、小さな水場があった。騎士たちが訓練後に手を洗う場所だ。石の水盤に細く水が流れている。リゼットはそこで手を冷やした。木剣を握っていただけなのに、手のひらが熱を持っていた。
ミレイユは少し離れて立っていた。
「殿下を責めていますか」
唐突に聞かれた。
「責めている、とは少し違う」
「では、怒っていますか」
「それも、少し違う」
「では」
「わからない」
リゼットは水盤を見た。
水面に、自分の顔が揺れて映っている。いつも通りの顔に見えた。だが、どこか違って見えた。竜殺しの姫でも、客将でもない、ただ判断に迷っている人間の顔だった。
「わからないんだ。セレネ殿下が間違っていたのか、私が傷ついただけなのか。どちらなのか、まだ決められない」
ミレイユはしばらく黙っていた。
「どちらも、ではないでしょうか」
そう言われ、リゼットは顔を上げた。
「どちらも」
「殿下は、言うべきことを言えなかったのかもしれません。けれど、リゼット殿が傷ついたことも事実です。どちらか片方だけを正しいことにしなくてもよいのでは」
意外な言葉だった。
ミレイユなら、セレネを全面的に庇うと思っていた。
「セレネ殿下を庇わないのか」
「庇っています」
「今のがか」
「はい。殿下を、間違えない方のように扱わないことも、庇うことだと思います」
リゼットは返事に詰まった。
ミレイユは水盤の方を見た。視線が少し遠い。
「殿下は、多くのことを先に考えます。危険を予測し、誰が傷つくかを考え、何を伏せれば場が保つかを考える。そうしなければ、この国の宮廷では生き残れなかった方です」
「……」
「ですが、それは時々、人を置いていきます。本人に悪意はありません。それでも、置いていかれた側は傷つく」
ミレイユの声には、責める響きがなかった。
知っている者の声だった。
「あなたも、置いていかれたことがあるのか」
「あります」
短い答えだった。
「殿下はわたくしの身を案じて、危険な任務から外したことがあります。理由はわかります。近衛としてではなく、個人として案じてくださったことも、今ならわかります。ですが、その時は、信頼されていないのだと思いました」
「セレネ殿下は、何と言った」
「何も。理由を言わずに、ただ配置を変えました。後で問い詰めたら、三日ほど気まずくなりました」
「三日」
「はい。殿下は、そういうところがあります」
ミレイユが淡々と言うので、リゼットは少しだけ息が抜けた。
セレネは完璧ではない。
そんな当たり前のことを、今さら確認した気がした。
「その後、どうなった」
「謝罪されました」
「セレネ殿下が?」
「はい。非常に丁寧に」
「想像できる」
「その後、二度と同じことはしないと言われました。ですが、似たようなことは何度かありました」
「直っていないではないか」
「少しずつ直っています」
ミレイユは真面目な顔で言った。
「殿下は、誰かを守ろうとすると、言葉より先に手配をしてしまう方です。それが殿下の強さでもあり、悪い癖でもあります」
リゼットは、胸の奥に何かが落ちるのを感じた。
言葉より先に手配をする。確かにそうだ。部屋も、食事も、薬湯も、膝掛けも、診断術式も。いつも、リゼットが自覚する前に整えられていた。
それが心地よかった時もある。
だが今は、言ってほしかった。その二つは矛盾しないのかもしれない。
「ミレイユ」
「はい」
「私は、何を言えばよかったんだろうな」
「昨日、ですか」
「ああ」
「わたくしにはわかりません。ただ」
ミレイユは少しだけ表情を緩めた。
「言えなかったことがあるなら、まだ遅くはないと思います」
リゼットは水盤から手を離した。
水滴が指先から落ちた。朝の光を受けて、小さく光る。
「すぐには無理だ」
「それでよいのでは」
「いいのか」
「はい。殿下も、すぐ答えを出されるより、考えた上で言われた方が逃げられないと思います」
「逃げられない」
「殿下は言葉が上手いので」
ミレイユの声が少し真面目すぎて、リゼットは一瞬だけ笑いそうになった。
笑わなかったが、胸の固さがほんの少しだけ緩んだ。
昼前、リゼットは部屋に戻った。
セレネは来なかった。
いつもなら、何らかの形で予定が入る時間だった。茶の時間か、短い面会か、書類の確認か。だが今日は、何もなかった。
そっとしておく、とイリスが言っていた通りだった。
部屋は静かだった。フィグは窓辺にいた。丸くなっているが、眠ってはいない。
「戻ったか」
「一本取られた」
「ミレイユにか」
「ああ」
「それは重症じゃな」
「うるさい」
フィグは鼻を鳴らした。だが、からかいきる声ではなかった。
「少しは整理できたか」
「少しだけ」
「ならよい」
「フィグ、私は、セレネ殿下に怒っているのか」
「それを妾に聞くのか」
「わからないから聞いている」
フィグは窓の外を見た。
城の中庭が見える。セレネがよく通る小道も見える。今日はそこに姿はなかった。
「怒っておる部分もあるじゃろう」
「そうか」
「傷ついておる部分もある」
「……そうか」
「それから、わかってしまう部分もある」
リゼットは黙った。それが一番近い気がした。
怒っている。傷ついている。でも、わかってしまう。
セレネがなぜ隠したのか。なぜ言えなかったのか。なぜ、いつも先に整えようとするのか。
わかりたくないのに、わかってしまう。だから余計に、行き場がなかった。
「妾はな」
フィグが言った。
「セレネのしたことを全部よしとは思わぬ」
「珍しいな。おまえはセレネ殿下を気に入っているだろう」
「気に入っておる。菓子もよい」
「菓子で判断するな」
「菓子は大事じゃ」
フィグは真顔で言った。
「だが、ぬしの命に関わることを伏せたのは、褒められたことではない。理由があっても、ぬしが傷ついたなら、それは残る」
「……」
「ただ、あの魔女娘は、ぬしを傷つけたことから逃げぬと思う」
「なぜそう思う」
「逃げる者の顔ではなかった」
リゼットは昨日のセレネの顔を思い出した。
知っていたのか、と聞いた時の顔。責められることを恐れている顔ではなかった。いや、恐れてはいたのかもしれない。けれど、それ以上に、受け止める覚悟をしている顔だった。
リゼットは椅子に座った。剣を膝に置く。何か言いたいことがあるなら聞く、と昨日フィグに言われた。けれど、まだ言葉がなかった。
今も、完全にはない。ただ、昨日より少しだけ、輪郭があった。
「言ってほしかった」
小さく言った。フィグがこちらを見た。
「それか」
「ああ」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「私は、知りたかった。命を削っているかもしれないことを、早く知りたかったのかどうかは、わからない。知ったところで何ができたのかもわからない。だが」
リゼットは膝の上の剣を見た。
「セレネ殿下の口から、聞きたかった」
それを言った瞬間、ようやく自分の傷の形がわかった。
隠されたことそのものよりも。
自分のことなのに、自分が後回しにされたことよりも。
セレネが一人で抱えたことが、嫌だった。
「……そうか」
フィグはそれだけ言った。珍しく、余計なことを言わなかった。
午後、イリスが来た。
「リゼット様」
「何か」
「殿下より、こちらをお預かりしております」
差し出されたのは、小さな紙だった。
封はされていない。折りたたまれているだけだ。手紙というより、短い伝言に近い。
リゼットは受け取った。開く。文字は短かった。
今日は、こちらからは伺いません。
ですが、必要であれば、いつでも呼んでください。
それだけだった。
謝罪も、説明も、言い訳もない。
来ない、という選択。
でも、呼べば行く、という言葉。
セレネらしいようで、少しだけセレネらしくなかった。いつものセレネなら、もう少し整った文章にしたはずだ。もっと綺麗に、もっと隙のない言葉で伝えたはずだ。
この短さは、たぶん迷った結果だ。
「返事は必要か」
「いいえ。殿下は、不要とおっしゃっていました」
「そうか」
イリスは一礼して出ていった。
リゼットは紙を見たまま、しばらく動かなかった。
「行くのか」
フィグが聞いた。
「今は行かない」
「そうか」
「だが、捨てない」
「そうか」
フィグはそれ以上聞かなかった。
リゼットは紙を文机の上に置いた。膝掛けの横だった。以前、いらないと言いながら結局使った膝掛けの横。
その並びが少しだけおかしくて、少しだけ痛かった。
夕方、リゼットはもう一度訓練場へ行った。
今度は一人だった。
剣を振るためではない。歩くためだった。城の中にいると、どこにいてもセレネの気配がある。用意された部屋、整えられた食事、窓から見える庭。全部に、セレネの手が触れている気がした。
それが嫌なわけではない。
ただ、今日は少しだけ離れたかった。
訓練場の奥には、城壁に続く階段があった。上ると、城下が見えた。夕暮れのヴァルディスは、青みがかった魔術の灯が少しずつともり始めている。
リゼットはそこで足を止めた。
城下の灯は、初めて来た夜にも見た。あの時は、セレネの言葉が檻の鍵に見えた。大事にする、という言葉が、歓迎ではなく囲い込みに聞こえた。
今は違う。囲い込みではなかった、と言い切ることはできない。セレネは実際に、リゼットの生活を整え、行動を管理し、手元に置こうとした。
けれど、それだけでもなかった。守りたかったのだ。
不器用に。先回りしすぎて。言葉を置き去りにして。
「……面倒な人だ」
独り言だった。
しかし、すぐ後ろで声がした。
「誰のことですか」
振り向いた。
セレネが階段の下に立っていた。黒髪が夕暮れの光を受けている。白い顔はいつも通り静かだったが、少しだけ緊張しているようにも見えた。
「今日は来ないのではなかったのか」
「こちらからは伺わない、と書きました」
「では、これは何だ」
「城壁の見回りです」
「一人でか」
「……偶然です」
「セレネ殿下は嘘が下手ではないはずだ」
「あなたの前では、少し下手になるようです」
リゼットは返事をしなかった。
セレネも、それ以上は近づいてこなかった。階段を上りきらず、数段下に立っている。その距離が、今の二人にはちょうどよかった。
「謝りに来たのか」
「はい」
セレネは迷わず答えた。
「ただ、今すぐ許してほしいとは言いません」
「そうか」
「昨日も謝りました。でも、たぶん足りませんでした。言葉の問題ではなく、わたくしが何を間違えたのか、まだ全部わかっていなかった」
「今はわかったのか」
「少しだけ」
セレネの声は穏やかだった。
「あなたの命に関わることを、あなたより先に判断してしまったことです。伝える時期も、伝え方も、わたくしが決めてしまった。あなたのためだと思っていました。でも、それはあなたを守ることと、あなたから選ぶ機会を奪うことの境目を越えていたのだと思います」
リゼットは城下を見た。
灯が増えていく。
「……私は、言ってほしかった」
ようやく言えた。
「あなたの口から」
セレネが息を止めたのがわかった。
リゼットは続けた。
「早く知りたかったのかは、わからない。知ったところで、たぶん私は同じように剣を振った。無理もした。だから、結果は変わらなかったかもしれない」
「それでも」
「ああ。それでも、あなたから聞きたかった」
セレネは黙っていた。
リゼットは振り向かなかった。振り向くと、言葉が止まりそうだった。
「あなたが一人で抱えたことが嫌だった。私のことなのに、私を置いていったことも嫌だった。だが、それ以上に」
少しだけ、言葉を探した。
「あなたが、それを一人で抱える相手に、私を入れてくれなかったことが嫌だった」
言ってしまうと、胸の奥が熱くなった。
怒りではなかった。
たぶん、寂しさに近かった。
セレネが階段を一段だけ上った。
「リゼット」
「まだ近づくな」
セレネの足が止まった。
「はい」
素直に止まった。そのことに、リゼットは少しだけ救われた。
「私はまだ、全部許したわけではない」
「はい」
「怒っているのかも、傷ついているのかも、まだよくわからない」
「はい」
「だが、話さないままでいるのは、もっと嫌だ」
セレネの目が揺れた。
夕暮れのせいかもしれない。けれど、リゼットにはそう見えた。
「では、話してもいいですか」
「今でなくていい」
「……はい」
「今は、そこにいろ」
セレネは少し驚いた顔をした。
「そこに、ですか」
「ああ。近づかなくていい。離れなくてもいい」
自分で言って、不器用な言葉だと思った。
だが、今のリゼットにはそれが精一杯だった。
セレネはその言葉を受け止めるように、ゆっくり頷いた。
「わかりました」
それから二人は、しばらく城下を見ていた。
近くはない。触れられる距離でもない。
けれど、完全に離れてもいない。ヴァルディスの灯が、城下にひとつずつともっていく。青みがかった光が、石畳を照らす。初めて来た夜には檻のように見えた光が、今は少し違って見えた。
閉じ込めるものではなく。帰る場所を示すもののように。
「セレネ殿下」
「はい」
「今日は、これでいい」
「はい」
「明日、話す」
セレネは穏やかに息を吐いた。
「待っています」
「待たなくていい。仕事をしていろ」
「では、仕事をしながら待っています」
「結局待つのか」
「はい」
リゼットは少しだけ呆れた。その呆れが、昨日から胸の中にあった硬いものを、ほんの少しだけ崩した。
完全に戻ったわけではない。何もなかったことにはならない。
けれど、明日話すことはできる。
そのくらいの距離には、戻れた。
リゼットは城下を見下ろしたまま、そっと息をした。
言えなかったことの翌日は、まだ答えではなかった。
ただ、答えから逃げないための一日だった。




