第十六章 孤独を知る夜
二人の間の距離は、穏やかに残っていた。
昨日の城壁で、リゼットは明日話すと言った。セレネも、待っていますと答えた。
それでも翌朝になってみると、その約束は思ったより重かった。
廊下で会えば挨拶をした。食事の時間が重なれば同じ部屋にいた。必要な連絡は届いた。しかし夕方に部屋を訪ねてくることも、小庭への誘いも、深夜の廊下での立ち話も、まだ戻っていなかった。
リゼットは訓練に打ち込んだ。
朝から夕まで体を動かした。剣技、走り込み、体幹の訓練。体を疲れさせれば、考える余裕がなくなる。それは正しい計算だったが、夜になって横になると、疲れた体とは別に、頭だけが冷静に動いていた。
セレネは仕事に没頭しているとイリスから聞いた。
聞いていないが、聞こえた。イリスが別の誰かに告げていた言葉が廊下に漏れていた。「殿下はここ数日、深夜まで執務室にいらっしゃいます」という言葉が。
意図的に漏らしていたのかどうかは、わからなかった。
そうした日が何日か続いたあと、ノエルが来た。
訓練場で一人剣を振っていたリゼットの前に、おずおずと現れた。資料を抱えていて、呼び止めていいのか迷っている顔をしていた。
「リゼット様」
「何か」
「今、よろしいですか」
今は一人でいたかった。しかしノエルの顔が、どうしても言わなければならない用事がある顔をしていた。
「何だ」
「その、直接の用件ではないのですが」
「直接でない用件か」
「はい。あの、一緒に歩きながら話しても、いいですか」
剣を収めた。ノエルと並んで訓練場の外に出た。城の外周に沿った道で、人が少ない。
しばらく歩いたが、ノエルは何も言わなかった。
「用件は」
「あの、セレネ殿下のことで」
「聞きたくない話なら」
「すみません、でもどうしても言いたくて」
ノエルが立ち止まった。リゼットも止まった。
「殿下は、ずっと孤独でした」
唐突な言い方だった。
「幼い頃から、魔術の才が高くて、それで恐れられていました。王家の人間は才を利用したがって、でも本人には近づきたくなかった。同年代の子どもたちも、殿下を怖がって避けていました」
「それを私に言う理由は」
「あの、理由があるというより」
ノエルが少し考えた。
「殿下がリゼット様と初めて会った時の顔を、私は見ていたんです」
「どんな顔だった」
「驚いた顔でした。出迎えの場で、殿下が驚く顔は珍しくて。私はずっとそばにいましたが、殿下が人に対して驚いた顔をしているのを、ほとんど見たことがなかった」
「何に驚いていた」
「わからないです。でも、あの後から、殿下が変わりました。細かいことですが、仕事の合間に部屋を抜けるようになりました。以前はそういうことをしない方でした」
リゼットは黙って聞いた。
「殿下は欲しいものは先に囲う、という方です。イリス様もご存じの通りです。それは小さい頃から覚えたことで、先に手を出さないと奪われるから、という理由でした。周りが全部敵ではないですが、信用できる人間が少ない中で育ちました」
「そういう生き方をしてきた、と言いたいのか」
「はい」
「だからといって、秘密にしていたことは」
「それを許してほしい、という話ではないです」
ノエルがはっきりと言った。珍しく、迷いのない声だった。
「殿下のやり方が正しかったとは思いません。リゼット様が怒るのは当然だと思います。ただ、殿下がなぜそうしたのかを、リゼット様に知ってほしかった。それだけです」
リゼットは城の壁を見た。石の色がヴァルディスの灰白色で、アルヴェインの金色とは違う。来た頃は気になっていたが、今は慣れていた。
「ノエル」
「はい」
「あなたはなぜ私に言いに来た」
「セレネ殿下が好きだからです。殿下が孤独なのを見てきたので、孤独でない方向に向かってほしいと思っています」
「それが私に話した理由か」
「はい。リゼット様が関係していると思ったので」
ノエルは真っ直ぐな目で言った。小心者のくせに、こういう時だけ目が逃げない。
「わかった」
「怒りましたか」
「怒っていない」
「そうですか」
ノエルが少し安堵した。それからまた困った顔をした。
「あの、もう一つだけ」
「なんだ」
「リゼット様も、孤独でしたよね」
リゼットは答えなかった。
答えなかったが、ノエルは続けた。
「英雄で、竜殺しで、国の切り札で。でも生活は誰も気にかけなくて、水を飲み忘れて、剣の手入れの途中で寝てしまう。そういう方だと聞いています」
「フィグから聞いたのか」
「フィグ様と、イリス様から少し」
フィグめ、とリゼットは思った。しかし怒る気にはなれなかった。
「似た者同士、とは言いたくないですが」
「言っているな」
「すみません」
ノエルが小さくなった。リゼットはため息をついた。
「気にするな。言いたいことはわかった」
「本当に怒っていないですか」
「怒っていない。ただ、考える」
「考えてください」
ノエルは礼をして、資料を抱えたまま小走りで去った。
その背を見ながら、リゼットは少し立っていた。
ミレイユに声をかけられたのは、その翌日だった。
訓練場で稽古をつけてほしいと言われた。これまでのような形式も観客もない、単純な稽古の依頼だった。
「いいが、なぜ私に頼む」
「あなた以上に強い相手がここにいないからです」
「率直だな」
「率直でない理由がありません」
稽古を始めた。
ミレイユは前回より動きが変わっていた。一度当たって、修正してきた。それだけで次の課題に移れる速度が、この騎士の優秀さだ、とリゼットは思った。
三合打ち合ってから、少し距離を取った。
「今日は本気ではないですね」
ミレイユが言った。
「本気に近い」
「先週とは違います」
「体が疲れている」
「疲れとも違う」
リゼットは返事をしなかった。
「殿下と何かありましたか」
「なぜそう思う」
「殿下の顔が違います。この数日、仕事をしている時の顔が、以前と変わっています」
「どう変わった」
「集中しているのに、どこかが空いている顔です」
ミレイユは剣を下げた。稽古を続ける顔ではなくなっていた。
「わたくしから言えることは少ないですが」
「言いたいなら言え」
「殿下は信頼している人間が少ない。本当に少ない。イリスは別格ですが、それ以外となると、かなり限られます」
「それが私とどう関係する」
「あなたが来てから、殿下の動き方が変わりました。仕事の隙間の使い方が変わりました。あの方が仕事以外で時間を使うことは、わたくしが仕えてから、それほど多くなかった」
リゼットは剣を持ったまま、石畳を見た。
「ミレイユ」
「なんですか」
「あなたは最初、私を歓迎していなかった」
「そうです」
「今は」
「今は、まだわかりません。ただ」
ミレイユは少し間を置いた。
「殿下の隣に立つ人間は、生き残る覚悟を持っていてほしい。それだけは変わりません」
「生き残る覚悟」
「あなたは死ぬことを怖がらない人だと見えます。それは強さですが、弱さでもあります」
強さが弱さでもある、という言い方を、ミレイユはあっさりとした顔で言った。感情的ではなく、武人として見た評価として言った。
「殿下の隣に立つなら、生きていてください」
それだけ言って、ミレイユは稽古の構えに戻った。
「続けますか」
「続けよう」
稽古は夕方まで続いた。
夜、廊下でセレネとすれ違った。
互いに気づいて、足が止まった。
廊下には二人だけだった。イリスもフィグも、今この廊下にはいない。
「訓練はどうでしたか」
セレネが先に言った。
「悪くなかった」
「ミレイユと稽古をしたと聞きました」
「彼女は伸びる」
「そうですね」
短い会話だった。話す言葉がなかったわけではない。しかし何から話せばいいかが、まだわからなかった。
セレネが先に動こうとした。
「セレネ殿下」
「なんですか」
呼び止めてから、何を言うか決まっていなかった。
「ノエルから、話を聞いた」
「そうですか」
「あなたの子供の頃の話を、少し」
セレネは少し止まった。
「ノエルには、余計なことを言わないように言っておきます」
「余計ではなかった」
セレネが振り返った。
廊下の灯の中で、セレネの顔が読めない距離だった。近すぎず、遠すぎず。
「私も似たようなものだった。切り札として扱われた。英雄として称えられたが、生活を気にかける者はいなかった。水を飲み忘れ、剣の手入れの途中で寝た。それを誰も気にしなかった」
リゼットは言った。
「……知っています」
「似た者同士だとは思わない。あなたの孤独と私の孤独は種類が違う。ただ」
言葉が少し詰まった。
「ただ、全く知らないわけでもない、ということが、言いたかった」
セレネはしばらく動かなかった。
長い沈黙があった。廊下の灯が揺れた。
「リゼット」
「何か」
「今日は、それだけですか」
「今日は、それだけだ」
「そうですか」
セレネがまた動こうとした。
「セレネ殿下」
「また呼び止めますか」
「あなたが泣いたと、フィグから聞いた」
セレネが止まった。今度は完全に止まった。
振り返らなかった。
「……フィグには口止めをしておくべきでした」
「フィグは私の精霊だ。止められない」
「そうですね」
セレネは振り返らないまま、少し間を置いた。
「見られたくはなかったです」
「イリスには見られた」
「イリスは別格です」
「そうらしいな」
また短い沈黙があった。
「まだ怒っていますか」
セレネが聞いた。
「まだ怒っている」
セレネがわずかに動いた。振り返りかけて、止まった。
「おやすみなさい、リゼット」
返事をする前に、セレネが歩いていった。廊下の角を曲がって、見えなくなった。
リゼットはその場に少し立っていた。嫌いになったわけではない。
この数日、その確認が自分の中で何度かあった。怒っている。受け入れられないことがある。しかしその怒りの根に、嫌悪はなかった。
むしろ、近づけないことの方が苦しかった。
その事実が、今夜ここに立って、はっきりした。
フィグが肩の上に来た。いつの間にそこにいたのか。
「似た者同士じゃ、と言ったじゃろ」
「言うな」
「言わんかった。思っただけじゃ」
廊下の灯が揺れた。
セレネが曲がった角の向こうは、もう静かだった。




