第十七章 触れればほどけるもの
調査任務が入ったのは、セレネとの距離が戻りきらないまま十日が経った頃だった。
旧戦場から南に三里ほどの場所で、瘴気の濃度が局所的に上昇しているという報告が入った。旧戦場の調査と同じ系統の案件だと、ノエルが判断した。
セレネが編成を決めた。
前回と同じ顔ぶれに、今回は騎士を二人増やした。ノエルが事前の資料調査を済ませていて、現地での滞在は短くて済むはずだという見通しだった。
リゼットは参加を申し出た。申し出る前に、セレネから声がかかった。
「来てもらえますか」
「行く」
「体調は」
「問題ない」
二人の会話は短くなっていた。怒りがまだ残っていた。しかし十三日前の廊下でのことが、何かを少し変えていた。完全に溶けたわけではないが、硬い部分に小さな隙間ができていた。
出立の朝、フィグが肩の上で言った。
「無理をするな」
「するつもりはない」
「するつもりがなくてもする、それがぬしじゃ」
「わかっている」
「わかっていない顔じゃ」
返事をしなかった。
現地は旧戦場よりこぢんまりとした場所だった。
かつて小さな集落があったらしく、石の基礎だけが草の中に残っていた。瘴気の発生源は、その集落跡の中央にある古い井戸の周辺だった。
「古い封印符が劣化しています」
ノエルが井戸の縁を調べながら言った。
「この井戸、地脈の枝脈に近い場所にあります。旧戦場の封印核から伸びた枝脈が、ここにも影響しているようです」
「修復はできるか」
「簡単な修復なら今日できます。根本的な解決は旧戦場の封印核の問題に繋がるので、別途対応が必要です」
「ではここの修復を先にお願いします」
「はい」
セレネがノエルと作業に入った。リゼットは周囲の警戒に回った。騎士たちと分担して、集落跡の外周を確認する。
一周したが、異常は見当たらなかった。瘴気の濃度は高いが、魔獣の反応はない。
戻ろうとした時、足が止まった。
気配があった。
方向は北。旧戦場の方角だ。瘴気ではない。もっと直接的な、地脈の揺れのような感触。旧戦場の封印核が、また動いた。
「セレネ殿下」
戻りながら声をかけた。
「何ですか」
「北の方角、旧戦場の方向から反応がある。封印核の揺れに近い感触だ」
セレネがノエルを見た。ノエルが計測器を出した。
「……出ています。先週より強い数値です」
「封印符の修復を急いでください」
「はい」
ノエルが作業を加速した。セレネが結界の補助に回った。
リゼットは北の方角を見ていた。旧戦場は見えない。しかし感触がある。前回より鮮明だった。距離があるのに、鮮明だった。
自分の中の何かが、またそちらに引っ張られていた。
無理をするな、とフィグに言われた。するつもりはない、と答えた。
するつもりはなかった。
しかし感触が強くなっていく。引っ張られる強さが増している。封印核が揺れるたびに、自分の中の何かが応答している。
意識して遮断しようとした。剣の柄を握った。感触を手の平の感触で上書きしようとした。
できなかった。
封印核が大きく揺れた。
今度は波ではなかった。
脈動だった。
一回、大きく。
リゼットの視界が白くなった。膝に力が入らなかった。地面に手をついた。右手が石の感触を掴んだ。左手が胸を押さえていた。
胸の奥で、何かが燃えていた。燃えながら、崩れていた。
声が聞こえた。名前を呼ぶ声が聞こえた。
意識が戻った時、城の天井があった。
自分の部屋ではなかった。どこかの医療室だった。白い壁、薬の匂い、窓から夕暮れの光が入っていた。
帰ってきたのか、とリゼットは思った。
体を起こそうとした。右腕が思ったように動かなかった。力が入らないのではなく、誰かが掴んでいた。
視線を下げると、セレネがいた。
椅子に座って、うつ伏せになっていた。テーブルに頭を乗せて眠っていた。右腕を両手で持っていた。眠りながら、離さなかった。
礼装のままだった。着替えていなかった。
起こすべきか、と思った。
思いながら、起こせなかった。
セレネが眠っている顔を、正面から見たのは初めてだった。完璧な姫の顔ではなかった。計算も含みも策略もない、ただ眠っている顔だった。疲れた顔だった。
どのくらい、ここにいたのだろう、とリゼットは思った。
「起きましたか」
声がして顔を向けると、イリスが扉の近くにいた。いつからいたのか、気配がなかった。
「いつ戻った」
「夕方です。現地から馬で、かなり急いで戻りました」
「気を失っていたか」
「はい。意識が戻らないまま帰城しました」
意識が戻らないまま、ということは、自分が帰路を覚えていないのは当然だった。
「体は」
「発熱があります。かなり高い熱です。魔力の過剰消耗に加えて、体への負荷が大きかった」
「セレネ殿下は」
「現地からこちらまで、ずっとそこにいらっしゃいます」
「ずっと」
「馬の上でもリゼット様の傍を離れませんでした。戻ってからも、一度も席を立っていません」
リゼットは視線をセレネに戻した。
礼装が皺になっていた。黒髪が少し乱れていた。眠りながらも、右腕を離さなかった。
言葉ではなく、そこにいることで伝わるものがあった。
「どれくらいだ」
「帰城してから、ずっとです」
夕暮れの光が、窓から斜めに入っていた。
フィグがどこかにいる気配があった。しかし声はしなかった。
しばらく経って、セレネが目を覚ました。
最初に手の感触を確認して、次に顔を上げた。リゼットと目が合った。
セレネの表情が、一瞬で変わった。眠りから覚めた顔から、何かに気づいた顔へ。それから、少しだけ力が抜けた顔へ。
「起きましたか」
「起きた」
「熱は」
「イリスから聞いた。高い熱だと」
「今夜は安静にしてください」
「わかった」
セレネがリゼットの腕を離した。離してから、自分が離したことに気づいたような顔をした。
立ち上がった。姿勢を整えた。すぐに完璧な顔に戻った。
しかし目の下が少し暗かった。
「何か必要なものがあれば」
「待ってくれ」
「何か」
「まだ帰らなくていい」
セレネが止まった。
リゼットは自分が何を言ったか、言いながら把握していた。引き留めている。意図してそうしていた。
「意識がない間、何か言ったか」
「はい」
「何を」
セレネは少し考えた。
「怖い、と言いました」
「私が」
「はい」
リゼットは少し黙った。
そんなことを言ったのか、と思った。意識がない間に。怖い、という言葉が自分の口から出たということが、少し意外だった。
「他には」
「フィグの名前を呼んでいました。それから」
セレネが少し止まった。
「それから、帰りたくない、と言いました」
「帰りたくない」
「はい」
「どこへ帰りたくないという話だったか」
「わかりません。意識がない状態での言葉でしたので」
リゼットは天井を見た。帰りたくない。アルヴェインへ帰りたくない、という意味だったのか。それとも別の何かか。意識がない状態での言葉に、論理的な意味があるかどうかも分からなかった。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「座ってくれ。まだいてほしい」
セレネはしばらく立ったままだった。
それからゆっくりと、椅子を引いた。寝台の横に座った。今度は向かいに座るのではなく、横に。手の届く距離に。
部屋が静かになった。
夕暮れの光が、窓の角度が変わって消えかかっていた。
リゼットは目を半分閉じた。体が重かった。熱があるせいか、あるいは疲弊のせいか。
「怖かったか」
自分でも意外な質問が出た。
「何が、ですか」
「私が倒れたことが」
セレネはすぐに答えなかった。
長い沈黙だった。窓の外で鳥が鳴いた。夕暮れの鳥の声だった。
「はい」
答えた時の声が、低かった。
「怖かった」
「そうか」
「あなたが地面に手をついた時、何も考えられませんでした」
「魔女姫が何も考えられなくなる場面があるのか」
「あります」
セレネが少し間を置いた。
「あなたに関することでは、何度かそういう場面がありました」
「何度か」
「祝宴の夜の呪詛の時。旧戦場で波に飲まれた時。そして今日」
三度、とリゼットは数えた。
「あなたを失うくらいなら」
セレネが言った。
続きを待った。しかし続かなかった。言いかけて止まった、というより、止めた、という感触だった。
「あなたを失うくらいなら、何か」
「……国などどうでもいい」
言い切った後で、セレネが少し固まった。
リゼットは目を開けた。
セレネの横顔が見えた。窓の外を見ていた。外を見ながら、さっきの言葉を取り消すことも、付け加えることも、しなかった。
あなたを失うくらいなら、国などどうでもいい。
その言葉が、薬の匂いのする部屋の中に残った。
策略ではなかった。政治的な言葉ではなかった。計算があれば、もっと違う言い方をする。この人間は計算がある時は、絶対に言葉を選ぶ。今の言葉には選んだ跡がなかった。
それが演技でないことを、リゼットは理解した。
理解して、何を言えばいいかわからなかった。
「セレネ殿下」
「……今の言葉は、忘れてください」
「忘れない」
「忘れてください」
「忘れないと言った」
セレネが少し動いた。しかし立ち上がらなかった。
「あなたが困るなら」
「困っていない」
「困っていませんか」
「困っているかどうか、まだわからない。ただ忘れない」
セレネが窓の外から視線を下げた。
テーブルの上を見た。自分の手を見た。
「リゼット」
「何か」
「今夜は、ここにいてもいいですか」
リゼットは少し考えた。
考えたが、答えはすぐに出た。
「いてくれ」
セレネが頷いた。
椅子の背にもたれた。先ほどまでの完璧な姿勢ではなく、少し力の抜けた座り方だった。
イリスが部屋の灯を落とした。夜の明るさになった。
リゼットは目を閉じた。
今夜は眠れる気がした。
あれが嘘ならよかった、と思った。嘘だったなら、この胸の重さも、意味を持たなかった。
しかし嘘ではなかった。嘘ではないから、胸が苦しかった。
苦しかったが、それでも今夜は眠れる気がした。
セレネがそこにいるから、という理由で。




