第十八章 姫君は誰のために剣を振るう
熱が引いたのは三日後だった。
その三日間、セレネは毎晩部屋に来た。深夜まで仕事をしてから来ることもあった。来て、椅子に座って、本を読むか書類を見るかして、リゼットが眠るまでいた。
リゼットは二日目に気づいた。
セレネが来る時間が、深夜より少し前になっていた。仕事を切り上げて来ている、とイリスから聞いた。聞いていないが、廊下でイリスが誰かに説明していた言葉が聞こえた。
「殿下が仕事を定時に切り上げることは、珍しいことです」
という言葉が。
三日目の夜、セレネが来た時、リゼットはもう熱がなかった。
「今日は顔色がいい」
「熱が引いた」
「そうですか」
セレネが椅子に座った。書類を出さなかった。本も出さなかった。
「回復したら、またうるさいことを言いますか」
「言う」
「そうですね」
セレネが少し笑った。力の抜けた笑い方だった。
「覚悟はしています」
「今夜ではない。体が戻ってから、改めて話す」
「わかりました」
その夜は静かだった。二人とも、多くは話さなかった。しかし沈黙は重くなかった。十日前、まだ距離が開いていた頃の沈黙とは違う、重さのない静けさだった。
セレネが帰る前に言った。
「明日から訓練を再開してもいいと、医師が言っています」
「そうか」
「無理はしないでください」
「わかっている」
「本当にわかっていますか」
「……少しはわかっている」
「少し、という正直な答えに、今日は留めておきます」
扉が閉まった後、フィグが言った。
「ぬし、変わってきておるな」
「どう変わった」
「前は無理をしないと言ったら、全部わかっていると言っておった。今日は少しはわかっていると言った」
リゼットは答えなかった。答えなかったが、フィグの言っていることは正確だった。
訓練を再開して二日が経った頃、ミレイユが来た。
今回は挑戦状も形式もなかった。訓練場の端で、腕を組んで立っていた。
「体は戻りましたか」
「だいぶ戻った」
「では稽古をつけてもらえますか」
「いいが、今日は私が動きを抑える」
「なぜ」
「本調子ではないから、全力で受けると相手が崩れる。それでは稽古にならない」
ミレイユは少し考えた。
「正直な方ですね、相変わらず」
「嘘をつく理由がない」
「そうですか。では、わたくしに課題を出してもらえますか。抑えた動きの中で、どこを修正すべきか」
「それでいい」
稽古が始まった。
リゼットは動きを七割程度に絞った。その範囲で、ミレイユの動きを見た。前回より足の運びが整っていた。重心の移し方が滑らかになっていた。短い間に修正してくる速度は、確かに優秀だった。
五合打ち合って、距離を取った。
「右の防御が上がっていない。打ち込んだ後の戻りが遅いから、右が空く」
「わかりました」
「それと、踏み込む前に重心が前に出る癖がある。読まれやすい」
「重心が前に」
「試してみろ」
ミレイユが踏み込んだ。自分でも確認できたらしく、立ち止まった。
「本当に出ています」
「無意識の癖だから、直すには時間がかかる。意識するより、踏み込む前の一呼吸の間を習慣にする方が早い」
「一呼吸の間を」
「踏み込む直前に、一度重心を後ろに置く。それから出る。それを繰り返せば、そのうち自然になる」
ミレイユがしばらく練習した。何度か繰り返して、少し頷いた。
「続きは次回にします」
ミレイユが剣を下げた。それから、直接リゼットを見た。
「先日のことを聞いていいですか」
「何か」
「倒れた後、殿下がずっと傍を離れなかったと聞きました」
「そうらしい」
「そうらしい、とは」
「意識がなかったから、自分では知らない。後から聞いた」
ミレイユは少し黙った。
「殿下がそういうことをするのは、見たことがありませんでした」
「そう言われてもどう答えればいいかわからない」
「答えなくていいです。ただ」
ミレイユが石畳を一度見てから、リゼットを見た。
「以前言ったことを、もう一度言います」
「何を」
「殿下の隣に立つなら、生き残る覚悟を持ってください」
「それは聞いた」
「もう一度言いたかった。倒れた後に言いたかった」
リゼットは返事をしなかった。
ミレイユの言葉は、先日より少し意味が違って聞こえた。先日は武人への言葉として聞いた。今日は、それだけではない何かを含んでいた。
「ミレイユ」
「なんですか」
「あなたはセレネ殿下のことを、どう思っている」
ミレイユが少し驚いた顔をした。そういう質問が来るとは思っていなかったらしい。
「忠誠を尽くしています」
「それはわかっている。感情として、という話だ」
「……大切な方です。ただ」
ミレイユが少し間を置いた。
「殿下は、ご自分を大切にしない。他者を囲い込む一方で、自分は誰にも囲わせない。孤独でいることを、当然だと思っているふしがある」
「そう見えるか」
「そう見えます。だからわたくしは、ずっと傍にいることを役目としてきました」
「今もそれは変わらないか」
「変わりません。ただ、状況が変わってきた、とは思っています」
「どう変わった」
「殿下の孤独が、少し前より薄くなっています。この数週間で」
ミレイユはそれ以上言わなかった。言う必要がない、という顔だった。
リゼットは石畳を見た。
稽古を再開した。今度は少し、動きを上げた。
その夜、リゼットは自分の部屋で剣を手入れした。
いつもなら途中で眠くなるが、今夜は眠くならなかった。布で刃を拭いながら、考えていた。
誰のために剣を振るうか、という問いが、最近自分の中にあった。
アルヴェインのため。国のため。役目のため。それが答えだった。それしか考えたことがなかった。竜を討った時も、戦場に出た時も、誰のためかと問われれば、国のためと答えていた。
その答えが、今はすんなり出てこなかった。
国のために死ぬことを役目だと言った。セレネが怒った。そんな言い方をしないでください、と。
あなたを失うくらいなら、国などどうでもいい、と言った。
その言葉と、自分の言葉が、今も並んでいた。
どちらが正しいかという話ではない。しかし、国のためなら死んでもいいという自分の考えと、あなたを失いたくないというセレネの言葉は、同じ一人の人間に向いていながら、全く違う方向を向いていた。
フィグが言った。自分の命を軽く見すぎていると。
ミレイユが言った。生き残る覚悟を持てと。
ノエルが頷いた。知っておいた方がいい、という頷き方で。
セレネが言った。死ぬなら役目だという言い方は二度としないでほしいと。
全員が、同じ方向を指していた。
リゼットは剣の柄を握った。
この剣で、古竜を討った。国を救うために。英雄と呼ばれるために、ではなく、それが役目だから。役目だから、自分の命が削れてもそれは対価だと思っていた。
今も、その考えが全部間違いだとは思えなかった。国のために戦うことは、正しいことだと思っていた。
しかし。
しかし、と思った瞬間に、顔が浮かんだ。
一人だけ、浮かんだ。
黒髪に白い肌の、完璧な笑みを持つ魔女姫の顔が。
ずっと、傍を離れなかった人間の顔が。
あなたを失うくらいなら、国などどうでもいいと言った人間の顔が。
その顔を守るために剣を振るうなら、それは国のためではなかった。役目のためでもなかった。命令でもなかった。
自分の意志だった。
初めて、自分の剣で守りたい顔が一人だけ浮かんだ。
その事実に、リゼットは少し戸惑った。戸惑いながら、否定しなかった。否定する言葉が出てこなかった。
「フィグ」
「なんじゃ」
「剣の手入れが終わった」
「終わったか。今日は途中で寝なかったな」
「ああ」
「変わったな」
「そうかもしれない」
フィグが台から降りてきた。リゼットの膝の横に座った。剣を見た。
「その剣で、誰を守りたいと思うようになったのじゃ」
リゼットは答えなかった。
しかしフィグは答えを聞くつもりもなさそうだった。ただ、知っているという顔をしていた。
翌朝、リゼットはセレネの部屋へ向かった。
扉を叩いた。
開いた。セレネが朝の仕事を始めていた。
「リゼット、どうしましたか」
「話がある」
「今日も怒りをぶつけに来ましたか」
「それも含まれるが、今日は違う話が先だ」
セレネが書類を置いた。リゼットは椅子に座った。今日は自分から座った。
「体の件について、話を聞かせてほしい」
「……今日はいいのですか」
「今日がいい。先延ばしにするほど、お互いに不本意な時間が増える」
セレネが少し間を置いた。それから、小さく頷いた。
「わかりました」
「全部話してくれ。整理ができていなくても構わない。私も一緒に整理する」
「怒りますか」
「怒るかもしれない。ただ、怒りながらでも聞く」
セレネが窓の外を一度見た。それから、リゼットを見た。
「竜殺しの代償について、わかっていることをお話しします」
「頼む」
「全部話した後で、リゼットにも聞きたいことがあります」
「何を聞きたい」
「生きていたいか、どうかを」
リゼットは少し止まった。
生きていたいか。
一週間前なら、答えが出なかったかもしれない。あるいは、役目として生きると答えたかもしれない。
しかし今日の朝、セレネの部屋の扉を叩いた理由が、そのままその問いへの答えになっていた気がした。
「話してくれ。聞いた後で答える」
セレネが話し始めた。
窓から朝の光が入っていた。今日は晴れていた。
リゼットは聞いた。全部聞いた。怒りながら、しかし聞いた。聞きながら、初めて自分の剣の重さを、別の意味で理解し始めた。




