第十九章 復活の鐘
封印崩壊が近いという報告が正式に上がったのは、セレネとリゼットの話し合いから五日後だった。
ノエルが計測データを持って執務室に来た時、その顔が答えを告げていた。データを見る前に、ノエルの目を見た時点で、セレネには分かった。
「数値を教えてください」
「はい」
ノエルが羊皮紙を広げた。
「旧戦場の封印核の劣化速度が、先週の計測と比べて一・七倍に上昇しています。このペースが続くと、封印が完全に解けるまでの時間は、最短で三ヶ月、最長でも半年以内です」
「先週から一・七倍」
「はい。調査中の事故の影響で、封印核に余計な負荷がかかったと思われます」
先週の事故、というのは現地でリゼットが倒れた件のことだ。ノエルは直接言わなかった。しかし誰もがわかっていた。
「対処策は」
「封印核を直接補修するか、古竜の完全な討滅を行うか、のどちらかが根本的な解決策です。ただし封印核の補修には、竜殺しの力が必要で」
「わかっています」
セレネはそれ以上聞かなかった。
ノエルが出ていった後、イリスが伝えた。
「殿下、報告が来ています」
「どこからですか」
「宮廷の軍部上層から。封印崩壊の情報は既に複数の筋に届いているようで、対処策の議論が非公式に始まっています」
「対処策の中に、リゼットの名前が出ていますか」
「出ています」
静寂な執務室で、その言葉だけが重かった。
「ローヴァン猊下からも書簡が届いています」
「内容は」
「封印の補修について、歴史的経緯と神学的見地から意見を述べたいとのことです。面会を求めています」
セレネはしばらく考えた。
「面会は受けます。ただし日程はこちらで決めます。今週ではありません」
「承知しました」
二日後、宮廷で臨時の会議が開かれた。
封印崩壊への対処を協議するための場で、軍部の上層、宮廷魔術師の長、外交担当の高官、それにローヴァンが出席した。セレネも出席した。リゼットは同席を求めていたが、今回は当事者として場に入れるべきか判断が難しい、という理由で保留になった。
会議の内容はイリスを通じてリゼットに報告された。
封印崩壊への対処策として、三つの案が出た。
一つ目は、封印核への直接介入。高度な魔術による補修作業で、竜殺しの察知能力を使って核の位置と状態を精密に把握しながら行う必要がある。これは時間がかかり、成功率が不確かだ。
二つ目は、古竜の完全討滅。封印ではなく、完全に消滅させる。しかしそれには、前回の竜殺しより大きな力が必要で、代償も大きくなる可能性がある。
三つ目は、新たな封印の構築。古い封印が解けかける前に、より強固な封印を上書きする。そのための媒介として、竜殺しの体が最も適しているという見解が出た。
「三つ目の案を、軍部と宮廷魔術師長が推しています」
イリスが告げた。
リゼットはその報告を聞いた。三つ目の案の意味は理解できた。新たな封印の媒介として、自分の体を使う。それは封印核を自分の体に移植するに近い行為で、命の削れを加速させる。最善の場合でも、余命を大幅に削ることになる。
「わかった」
「それだけですか」
「他に何が言える」
「……怒りは」
「ある。ただ、予想の範囲内だ」
イリスが少し間を置いた。
「セレネ殿下は、三つ目の案に反対しました」
「会議の場で」
「はい」
「どういう形で」
「穏やかに、しかし明確に。リゼット様を封印の媒介に使うことは、客将の扱いとして不適切であり、アルヴェインとの外交上の問題を引き起こす可能性があると述べました」
外交上の問題、という言い方を選んだのか、とリゼットは思った。感情ではなく、論理で反対した。それがセレネのやり方だ。
「それで押し切れたか」
「押し切れていません。軍部は一つ目と二つ目の案には消極的で、三つ目を前提とした議論を続けようとしています。今日の会議は結論を出さずに終わりました」
「次の会議は」
「三日後です」
翌日、ローヴァンが執務室を訪ねてきた。
セレネが日程をまだ決めていないにもかかわらず、直接来た。不意打ちに近い訪問だった。
「失礼を承知で参りました。急ぎお伝えしたいことがありまして」
セレネは表情を変えずに通した。
リゼットも同席した。ローヴァンの目が、一瞬リゼットを見た。祝宴の夜と同じ目だった。測っている目だ、とリゼットは思った。
「封印崩壊への対処について、宗教的見地からお伝えできることがあります」
「お聞きします」
「百年前の古竜封印は、竜殺しの力を媒介とした契約的な封印でした。つまり封印は、竜殺しが存在する間は保たれる構造になっています」
「それは把握しています」
「では、竜殺しが消耗していく場合、封印の劣化と速度が連動するということも」
「把握しています」
「そうですか。では本題です」
ローヴァンが少し姿勢を変えた。
「新たな封印の構築には、竜殺しの方の自発的な意思が必要です。強制では封印が機能しない。これは歴史的な記録から明確です」
「それは会議で提示されましたか」
「していません。今日ここで初めてお伝えします」
セレネが少し間を置いた。
「なぜ会議では言わなかったのですか」
「適切な場所でお伝えした方が効果的だと判断しました」
リゼットはローヴァンを見た。穏やかな笑みは変わらない。柔らかい声も変わらない。しかし今日の言葉には、構造がある。情報を出すタイミングを計算している。
「ローヴァン猊下」
リゼットが口を開いた。セレネが少し動いた。
「先日の祝宴でも聞きましたが、あなたは私の体調を気にかけていた」
「竜殺しは稀有な存在です。その状態は常に関心の対象です」
「関心ではなく、監視ではないですか」
ローヴァンの笑みが、わずかに変わった。笑みは消えなかったが、目が変わった。
「手厳しいですね」
「率直なだけです」
「リゼット殿の率直さは、聞いていた通りです」
聞いていた、という言葉が引っかかった。誰から聞いたのか。いつから関心を持っていたのか。
「封印の媒介として私を使うことが、あなたの目的の一部ですか」
直接聞いた。
ローヴァンは答えを返す前に、セレネを見た。
「殿下、この方は面白い」
「お答えください、猊下」
セレネの声が穏やかだった。低くはなかった。しかし退かない声だった。
「目的というより、最善の選択だと考えています。古竜の脅威は両国だけでなく、大陸全体の問題です。竜殺しの封印媒介は、歴史的に最も確実な手段です」
「一人の人間の命を消耗させる手段が、最善ですか」
「姫君一人の命と、大陸の安寧を天秤にかければ」
「天秤にかけさせません」
セレネの声は穏やかではなかった。硬い声だった。これまでの会議でも、廊下での一件でも使ったことのない種類の硬さだった。
「それはセレネ殿下の感情的な判断では」
「感情的な判断です」
ローヴァンが少し止まった。
「認めますか」
「認めます。感情的な判断と理性的な判断が一致しているとも思っています。ただ、仮に一致していなくても、今のわたくしの答えは変わりません」
「国家の論理より、感情を優先すると」
「一人の人間の命を道具として扱う論理を、国家の論理と呼ぶなら、そうです」
執務室が静かになった。
ローヴァンは少し考えた。笑みが戻ってきた。しかし先ほどまでとは質が違う笑みだった。面白い、と思っている笑みに見えた。
「わかりました。今日はここまでにしましょう」
「またいつでも」
「ええ。ただ、時間は限られています。それだけお伝えして失礼します」
ローヴァンが出ていった。
扉が閉まってから、リゼットはセレネを見た。
セレネは少し疲れた顔をしていた。隠さなかった。
「今日の言い方は、宮廷内での立場を危うくしませんか」
「危うくします」
「それでも言ったのか」
「言いたかったので」
言いたかった、という理由だけで言ったのか、とリゼットは思った。
感情的な判断と認めた。認めた上で変えなかった。
「世界を守る方法は一つだと言われた時、あなただけがそれを否定した」
リゼットが言った。
「否定は、していません。別の方法があると言いたい」
「別の方法とは」
「まだ探しています。しかし必ずあります」
「根拠は」
「わたくしがそう思うからです」
論理ではなかった。しかし嘘でもなかった。
リゼットはその答えを聞いて、少し笑いそうになった。こみ上げるものがあった。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「ありがとう」
今度は、言えた。
先日言えなかった言葉が、今日は出た。
セレネが少し止まった。
「……どういたしまして」
「似合わない顔をしているぞ」
「何の顔ですか」
「照れている顔だ」
「照れていません」
「そうか」
フィグが肩の上で鼻を鳴らした。面白がっている鼻の鳴らし方だった。
執務室に、少し柔らかい空気が戻ってきた。
しかしその夜、ガイゼルからの書簡が届いた。
内容は短かった。
封印崩壊の情報はアルヴェインにも届いている。国として対処策を協議したい。リゼットの意向を確認したい、という内容だった。
最後の一文が、長かった。
国のために力を貸してくれるなら、それが最善だと、兄として信じている。
リゼットはその一文を、二度読んだ。
封印の綻びが決定的となり、残された時間が少ないことが改めて示されていた。
世界を守る方法は一つだと言われた時、セレネだけがそれを否定した。
その事実が、書簡を持つ手の中で、重かった。




