第二十章 兄上の国、魔女姫の檻
ガイゼルがヴァルディスに到着したのは、書簡が届いてから一週間後だった。
表向きは外交調整のための訪問だった。封印崩壊への両国共同対処を協議する、という名目で、随行の外交官と護衛を連れてきた。
城の正門で出迎えた時、ガイゼルはいつもと変わらない顔をしていた。穏やかで、整っていて、王太子らしい顔だった。
「リゼット」
「兄上」
名前を呼ばれた。政治的な呼びかけではなく、兄が妹を呼ぶ声の出し方だった。それがかえって、リゼットの中で何かを複雑にした。
「顔色がいい」
「そうか」
「ヴァルディスの生活は合っているようだな」
「それなりに」
ガイゼルの視線がセレネに移った。セレネが一歩前に出た。
「ガイゼル王太子殿下、ようこそヴァルディスへ。セレネ・ヴァルディスです」
「セレネ殿。噂にたがわぬ方ですね」
「光栄です。どうぞごゆっくり」
二人が挨拶をしている間、リゼットは横で見ていた。
ガイゼルはセレネを値踏みしていた。丁寧に、穏やかに、しかし確実に。セレネはその視線を受けながら、完璧な笑みで応じていた。
どちらも底が見えない、とリゼットは思った。
夕食は正式な晩餐の形を取った。
ガイゼルとセレネ、それぞれの側近が同席する形で、大広間より小さな晩餐室が使われた。リゼットはセレネの隣に座った。ガイゼルはセレネと向かいの位置だった。
最初の一刻は当たり障りのない話だった。
ヴァルディスの秋の気候、アルヴェインの収穫の話、両国の交易の近況。ガイゼルは話し上手で、場を温める話題の選び方が自然だった。
しかし一刻が過ぎた頃、ガイゼルが話題を変えた。
「封印崩壊について、率直に話させてください」
「もちろんです」
「アルヴェインとしては、封印の維持が最優先事項です。古竜の復活は、両国だけでなく周辺国にも影響します。協力して対処したい」
「ヴァルディスも同じ立場です」
「では、対処策については合意の方向で動けますか」
「対処策の内容によります」
セレネの答えは短かった。ガイゼルが続けた。
「封印媒介案については、アルヴェインとしても検討に値すると考えています」
「媒介に使われる人間の意思は」
「本人の意思を確認した上で、という前提です」
「本人の意思を確認した結果、断った場合は」
「それは」
ガイゼルが少し間を置いた。
「断らないと思っています」
「なぜですか」
「リゼットは国のために戦うことを選んできた。今回も同じ選択をすると、兄として信じています」
信じています、という言葉の重さを、リゼットは晩餐室の空気の中で感じた。
ガイゼルは嘘をついていなかった。妹を案じる声と、国のために使う声が、同じ響きをしていた。
晩餐が終わった後、ガイゼルがリゼットに個別に時間を求めた。
セレネが同席しようとした。
「二人で話させてもらえますか」
ガイゼルが穏やかに言った。セレネが少し止まった。
「リゼットさえよければ」
「私は構わない」
セレネが出ていった。
二人きりになった。ガイゼルが椅子に座った。リゼットも座った。
「顔色がいいと言ったが、本当にそう思った」
「ありがとう」
「ここでの生活は」
「悪くない」
「そうか」
ガイゼルは少し間を置いた。
「話が難しいことは分かっている。ただ、兄として話させてほしい」
「聞く」
「リゼット、おまえのことが心配だ」
「心配してくれるなら、封印媒介案を推すことはしないはずだ」
「心配しているから、考えている。おまえが自分で選ぶ形にしたい。強制ではなく」
「強制ではなく、選ばせる形で同じ結論に誘導したいということか」
ガイゼルが少し黙った。
「……そう聞こえたか」
「そう聞こえた」
「言葉が足りなかった。誘導するつもりではなかった」
「しかし封印媒介案を推している」
「国として、最善策を検討しているだけだ」
「その最善策の中に、私の命がある」
ガイゼルは目を伏せた。否定しなかった。
「リゼット、おまえが嫌なら」
「嫌かどうかではない。この話は、私が嫌かどうかで終わる話ではなくなっている」
「どういう意味だ」
「両国の上層が動いていて、宗教勢力も動いていて、時間が迫っている中で、私一人の嫌という言葉がどこまで機能するかの話だ」
ガイゼルは答えなかった。
しばらく沈黙があった。
「おまえを大切に思っている。本当に」
「知っている」
「国のためだけに言っているわけではない」
「それも知っている」
「では」
「だから難しいんだ、兄上」
リゼットは窓の外を見た。ヴァルディスの夜の灯が石畳に落ちていた。青みがかった光が、いつもより少し遠く見えた。
「大切に思っていて、同時に国の論理で動く。どちらも本当のことだ。それが問題なんだ」
「国を守ることとおまえを大切にすることは、矛盾しない」
「今回は矛盾している」
ガイゼルが何かを言おうとした。しかし言葉が出てこなかった。
初めて見る顔だった。ガイゼルが言葉を失う場面を、リゼットは今まで見たことがなかった。
「私は自分で考えて、自分で決める。それだけは言える」
「リゼット」
「今夜はそれだけだ、兄上」
リゼットは立ち上がった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「アルヴェインのことを、嫌いになったわけではない」
「……そうか」
「それだけは伝えたかった」
扉を閉めた。
廊下に出ると、セレネがいた。
少し離れた場所の壁際に、イリスと一緒に立っていた。通りかかっただけ、という顔ではなかった。
「終わりましたか」
「終わった」
「お疲れ様でした」
三人で廊下を歩いた。
しばらく歩いてから、セレネが伝えた。
「明日、ガイゼル殿下と正式な協議があります」
「わかっている」
「その前に、一つ伝えておきたいことがあります」
「何か」
「協議の場で、わたくしはリゼットの返還を求める主張に応じません。明示的にお伝えしておきます」
「返還を求める主張が来るとわかっているのか」
「来ます。既に書簡で示唆されています」
リゼットは少し考えた。返還。アルヴェインに戻る、ということだ。戻って、封印媒介として使われる。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「あなたが私を返さないのは、なぜだ」
「返したくないからです」
「政治的な理由ではないのか」
「政治的な理由もあります。ただ、主な理由は返したくないからです」
「返したくない理由は」
セレネが歩きながら、少し間を置いた。
「命を道具として扱う場所に、あなたを返せません」
「それは私のためか、あなたのためか」
「両方です」
廊下の灯が揺れた。
「正直だな」
「あなたには嘘をつきたくないと言いました」
「言った。覚えている」
イリスが少し先を歩いていた。気を遣っているのか、自然な速度でそうなったのか、わからなかった。
「リゼット」
「何か」
「今夜、眠れそうですか」
「わからない」
「眠れなければ、来てください。部屋で書類を見ています」
「迷惑ではないか」
「迷惑なら誘いません」
それだけだった。
リゼットは自分の部屋に戻った。
フィグがいた。台の上で丸くなっていた。
「兄上との話はどうじゃった」
「難しかった」
「そうか」
「悪い人間ではない。それが難しい」
「悪い人間なら、わかりやすかったということじゃな」
「そうだ」
フィグが伸びをした。
「ぬしは、自分がどうしたいかは決まっているか」
「まだ全部ではない。ただ、決まっていることが一つある」
「何じゃ」
「他人に決めさせない。それだけは決まっている」
フィグが少し黙った。
「それが決まっていれば大丈夫じゃ」
「そうか」
「残りは後から決まる」
リゼットは窓の外を見た。
眠れない気がしたが、セレネの部屋に行く気にもなれなかった。行きたい気持ちはあった。しかし今夜は、一人で考える時間が必要な気もした。
兄の手も、魔女姫の檻も、どちらも自分を離してくれない。
だが、どちらを選ぶかとは違う話だ。
どちらかを選ぶのではなく、自分で決める。その決め方を、まだ探していた。
翌朝、正式な協議が始まった。
晩餐室より広い部屋で、両国の外交担当と高官が並んだ。ローヴァンも来ていた。
最初は、外交的な前置きが続いた。両国の関係の確認、封印崩壊への共同認識の確認。
そのあと、ようやく本題に入った。
「対処策として、封印媒介案が最も現実的な選択肢であると、アルヴェインは考えています」
ガイゼルの外交官が言った。
「ヴァルディスとしては、別の手段を模索しています」
セレネが返した。
「別の手段の具体的な内容は」
「現在調査中です」
「調査中ということは、確立していない」
「そうです。しかし封印媒介案には問題があります」
「問題とは」
「リゼット殿の意思の問題と、媒介後の生存可能性の問題、そして代替手段が存在する可能性が排除されていない問題です」
「時間がありません」
ガイゼルの外交官が食い下がった。
「時間がないことと、最善でない手段を急いで取ることは別です」
そこへ、ガイゼルが直接言った。
「セレネ殿。あなたは妹を国から奪おうとしているのですか」
晩餐室が静かになった。
セレネはガイゼルを正面から見た。
「いいえ」
「では」
「国がリゼットから命を奪おうとしているのです」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
ガイゼルが固まった。外交官たちが互いに視線を交わした。ローヴァンだけが表情を変えなかった。
「感情的な発言ですね、セレネ殿」
ガイゼルが穏やかな声で言った。
「感情的な発言です」
セレネが認めた。
「認めますか」
「認めます。そして感情的な発言であることと、正確な発言であることは、矛盾しません」
ガイゼルは少し間を置いた。
「リゼット本人の意思は」
「今ここで聞いてください」
セレネがリゼットを見た。
全員の視線がリゼットに向いた。
リゼットは少し考えた。今ここで答えるべきことは何か。封印媒介案への賛否ではない。今この場で、自分が言うべきことは。
「私は自分で決めます。アルヴェインにも、ヴァルディスにも、他の誰にも、決めさせません。時間をください」
「時間は」
「三日だ」
ガイゼルが少し考えた。
「三日で答えを出せるか」
「出す」
「わかった。三日待つ」
セレネが何も言わなかった。何も言わなかったが、リゼットの方を見た。一瞬だけ、計算のない目で。
それから、また外交の顔に戻った。
協議はその後も続いたが、リゼットにはほとんど聞こえなかった。
答えは出るかどうか、まだわからなかった。
しかし兄の手も、魔女姫の檻も、どちらも自分を離してくれない中で、リゼットは初めて、自分の手で扉を開けようとしていた。
協議室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
扉の向こうでは、まだ外交官たちの声が続いている。封印、国境、共同管理、責任。どの言葉も正しい。正しいからこそ、リゼット一人の命は、その中に簡単に組み込まれてしまう。
アルヴェインのために。
ヴァルディスのために。
世界のために。
どれも、聞き慣れた言葉だった。
リゼットは、その言葉で剣を抜いてきた。間違っていたとは思わない。守れたものもある。救えた人もいる。
けれど、それだけで終わるなら、自分は最後まで誰かの剣でしかない。
「小娘」
肩の上で、フィグが小さな声で呼んだ。
「なんだ」
「顔が怖いぞ」
「そうか」
「迷っておる顔ではないな」
リゼットは少しだけ黙った。
「まだ迷っている。ただ、ひとつ増えた」
「何がじゃ」
「生きて答えを出す、ということだ」
言葉にしてから、胸の奥が少し静かになった。
封印媒介になるかならないか。アルヴェインに戻るか、ヴァルディスに残るか。セレネの手を取るか、兄の命令を退けるか。
それらはまだ決まっていない。
けれど、死ぬことで答えにするつもりはなかった。
誰かに使われて終わるために、竜を斬ったわけではない。
誰かに守られて眠るためだけに、ここに来たわけでもない。
自分で生きて、自分で選ぶ。




