第二十一章 あなたを生かすためなら
三日、と言った。
けれどそれは、答えを出すためだけの猶予ではなかった。
答えに向かうための時間だ、とリゼットは部屋に戻りながら思った。
違いは小さいようで、大きかった。答えを出すのは、一人で考えて結論を作ることだ。答えに向かうのは、考えながら歩くことだ。
部屋に戻ってから、剣を手に取った。
膝の上に置いた。この動作が、最近の考える時の習慣になっていた。
フィグが来た。台から降りて、寝台に乗ってきた。
「今日はどうじゃった」
「兄上と、セレネ殿下と、両方に引っ張られた」
「それで」
「自分で決めると言った」
「協議の場で」
「ああ」
フィグが少し黙った。
「それは、すでに一つの答えじゃな」
「何が」
「他人に決めさせないと言った。それがぬしの答えの骨だ。肉はこれからつく」
骨と肉、という言い方が少し妙だったが、意味はわかった。
「フィグ」
「なんじゃ」
「生きたいと思うことと、誰かのために生きたいと思うことは、同じではないか」
フィグが目を細めた。賢い目だった。
「どういう意味じゃ」
「自分のために生きたいという気持ちが、まだはっきりしない。しかし誰かのために生きていたいという気持ちは、最近少しある」
「誰かとは」
「答えなくていいか」
「答えなくていい。ただ」
フィグが台の上で体を伸ばした。
「どちらが先でも、生きようとしている、という事実は同じじゃ。入口が違っても、向かっている方向は同じ」
「そうか」
「そうじゃ。妾はそれでよいと思っておる」
リゼットは剣の鞘を撫でた。金属の冷たさが指先に伝わる。
「フィグ」
「なんじゃ」
「ありがとう」
フィグが一瞬、止まった。
「礼を言われる場面か、これは」
「そうだろう」
「妾は別に何もしておらんが」
「している」
「……そうか」
フィグが毛繕いを始めた。照れた時の動作だと、リゼットは学習していた。
翌朝、セレネから呼ばれた。
執務室ではなかった。城の西翼にある小さな部屋で、日常的な仕事には使わない部屋だとリゼットは知っていた。
入ると、セレネが一人でいた。イリスもいなかった。窓の外に庭が見える部屋で、朝の光が斜めに入っていた。
「座ってください」
リゼットは座った。
「昨日の協議のことを話したいのか」
「違います」
「では」
「わたくしの話をします。今まで話せなかったことを」
リゼットは少し止まった。セレネが自分の話をする、という言い方が珍しかった。
「聞く」
「ありがとうございます」
セレネが窓の外を一度見た。庭の草が朝の風に揺れていた。
「わたくしはこの国で、長く一人でした」
穏やかな言い方だった。
「ノエルから、少し聞いた」
「そうでしょうね。あの子は、黙っていられない時があります」
セレネは少しだけ笑った。
「なら、同じ話を繰り返す必要はありませんね。魔術の才は、守りにもなりましたが、人を遠ざける理由にもなりました」
「それで、先に囲うようになったのか」
「はい。欲しいものは先に囲わないと奪われる。信用できない人間が多い場所では、先手を取ることが安全でした」
セレネは一呼吸おいて続ける。
「あなたのことを調べたのも、部屋を用意したのも、菓子を置いたのも、最初はそういう判断からでした。囲い込む前に情報を持つ。それが習慣でした」
「最初は、と言ったな」
「最初は、です」
セレネが少し間を置いた。
「いつ変わったかは、正確にはわかりません。ただ、気づいた時には変わっていた」
「何が変わった」
「計算で動いていた部分が、減っていきました。計算ではなく、ただそうしたいからする、という動き方になっていきました」
「いつ頃から」
「旧戦場から戻った夜の頃からだと思います。あなたが倒れた時、何も考えられなくなったと言いました。あれが最初の明確な変化だったと思います」
リゼットはその話を聞きながら、自分の中でいくつかのことが重なった。菓子。膝掛け。小庭での話。祝宴の夜の怒り。資料室での本を閉じた手。廊下でのすれ違い。医療室で、ずっと傍にあった手。
全部、最初は計算だったかもしれない。しかし全部が計算だったとも、今は思えなかった。
「なぜ今日、この話をするのか」
「昨日、あなたが自分で決めると言いました。三日で答えを出すと言いました」
「ああ」
「その三日の間に、あなたが判断するための情報として、わたくしのことを知っておいてほしかった。政治的な意図ではなく、個人として」
「個人として」
「はい」
セレネが窓から視線を戻した。リゼットを正面から見た。
「もう一つ話します」
「聞く」
「わたくしは、あなたに生きていてほしい」
穏やかな声が、朝の光の中に落ちた。
「国のためでも、封印のためでも、役目のためでもなく、ただあなたに生きていてほしい。それがわたくしの本音です」
「それが今日の話か」
「それが主なことです」
リゼットは少し考えた。
「姫君一人の感情で国は救えないと、ローヴァンに言われていた」
「そうですね」
「今の話は、まさにその感情だ」
「そうです」
「それを言いに来たのか」
「言いに来ました」
セレネが少し笑った。力の抜けた、珍しい笑い方だった。
「こんな話をする人間だとは、自分でも思っていませんでした」
「変わったと思うか」
「変わりました。あなたに会ってから」
「悪い変化か」
「良い変化です。ただ、少し困っています」
「何が困る」
「感情が、計算より先に動くようになりました。それがわたくしにとっては慣れない状態で」
「慣れなかったか」
「最初は慣れませんでした。今は、慣れようとしています」
リゼットはその答えを聞いて、少し笑いそうになった。笑わなかったが、こみ上げるものがあった。
慣れようとしている。慣れた、ではなく。その正直さが、この人間らしかった。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「一つ聞いていいか」
「なんでしょう」
「政治も国も全部捨てる覚悟があると言ったが、本当か」
セレネが少し止まった。
「言っていませんが」
「昨日の協議での言葉は、そういう意味に聞こえた」
「……そうですね」
「本当か」
「本当です」
短く答えた。迷わずに。
「それはヴァルディスの姫としては、失格に近い選択ではないか」
「近いです」
「それでも」
「それでも、です」
リゼットは剣を持っていなかった。今日は手ぶらで来ていた。手の置き場がなかった。テーブルの上に手を置いた。
「あなたが望まなくても生かします」
セレネの言い方は、半ば柔らかく、半ば確信のあるものだった。
「望まなくても、とはどういう意味だ」
「あなたが役目だと言って死を選ぼうとしても、わたくしは止めます。止めるための手段を探し続けます。望まれなくても、です」
「それは宣戦布告ではないか」
「そうかもしれません」
リゼットは少し間を置いた。
「フィグに言われた。生きていたいという気持ちが、最近少しある、と思っている」
「フィグに」
「あなたに伝えるべきことかもしれない、と思ったので言う」
セレネが少し動いた。椅子から、わずかに前に出た。
「誰かのために生きていたいという気持ちも、ある」
リゼットが言い切った。
言いながら、言ってしまったと思った。しかし取り消す気にはなれなかった。
セレネは、すぐには答えなかった。
長い間があった。
窓の外で、風が草を揺らした。
「誰かとは」
「答えなくていいか」
「答えてほしいです」
リゼットは少し考えた。
「答えは持っている。ただ、今すぐ言葉にすることが、まだ少し」
「まだ少し、何ですか」
「慣れていない」
セレネが少し笑った。
「わたくしと同じですね」
「そうかもしれない」
「慣れようとしていますか」
「慣れようとしている」
セレネが頷いた。
その頷き方が、今まで見た中で一番力の抜けた頷き方だった。
「それで充分です。今は」
「そうか」
リゼットはテーブルの上の自分の手を見た。
いつもは剣を持つ手が、今日は何も持っていなかった。何も持っていない手が、今日はそれほど落ち着かなかった。少し、ここにあっていい気がした。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「一つ、私を一人にしないでほしい」
「しません」
「三日の間も」
「しません」
「約束できるか」
「できます」
短く答えた。迷わずに。先ほど失格に近いと言った時と同じ速度で。
リゼットはその答えを聞いた。
「わかった」
それだけ言った。
その夜、フィグが来た。
「今日のセレネ殿下との話はどうじゃった」
「難しかった。しかし必要な話だった」
「決まってきたか、答えが」
「少し」
「どちらの方向に」
「生きる方向に」
フィグが少し止まった。
それから、何も言わなかった。
ただ、台から降りてきて、リゼットの膝の横に座った。丸くなった。
珍しく、何も言わなかった。
それが、フィグなりの答えだと、リゼットにはわかった。
次の日も、リゼットは答えを急がなかった。
訓練をし、体の奥に残る熱を確かめ、セレネと短い言葉を交わした。セレネは約束通り、リゼットを一人にしなかった。近づきすぎず、離れすぎず、そこにいた。
その距離の中で、答えは少しずつ形を持った。
封印媒介になるかどうかではない。まず、生きて戻る。その上で、自分の道を選ぶ。
そこまでは、もう決まっていた。
言葉にするのは、明日でいい。
そう思った夜に、報告が来た。
ノエルが青い顔で執務室に飛び込んできた。
旧戦場の封印核が、今夜大きく揺れた。計測器の数値が、これまでの最高値を超えた。
「封印崩壊まで、予測より早まる可能性があります。最短で一ヶ月を切るかもしれません」
セレネがリゼットを見た。リゼットはセレネを見た。
答えを言葉にする前に、世界の方が動き出した。
しかし今回は、世界が壊れても、一人ではなかった。
セレネが立ち上がった。
「イリス、全員を集めてください」
「承知しました」
「リゼット」
「わかっている」
「行きますか」
「行く」
二人で執務室を出た。
廊下が夜の灯に照らされていた。いつもと同じ、青みがかった光だった。
しかし今夜は、その光の中に、一人ではない重さがあった。




