第二十五章 竜殺しの姫は、誰にも差し出さない
夜が明けきる頃、リゼットは回復用の部屋に移されていた。
旧戦場から戻った後、作戦室で夜を明かしたせいで体はまだ重かった。医師の診立ては数日の安静。リゼットは不満を言いかけたが、セレネとフィグとイリスに同じ顔で見られて、結局頷くしかなかった。
昼前、ローヴァンが来た。
セレネから聞いていなかったが、来た。イリスもセレネも、この時間は作戦室にいた。ノエルとともに、昨日の記録を読み直しているはずだった。
ローヴァンは椅子に座ると、いつもの穏やかな顔で切り出した。
「昨日の戦い、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
「あなたは、かなり難しい選択をしましたね。封印媒介案を避けながら、古竜の力を削ぐ道を選んだ」
「選んだのは私だけではありません」
「ええ。だからこそ、次の選択肢をお伝えしに来ました」
リゼットは黙って続きを待った。
「より確実な封印の方法があります」
「完全討滅ではなく?」
「封印です。あなたの中に残る竜殺しの契約を媒介にすれば、古竜をより長く眠らせることができる」
「私の体を使う、ということですか」
「言い方を選ばなければ、そうなります」
「それは封印媒介案と同じことではないか」
「より洗練された形です」
「私の体を使うという点では同じだ」
「代償は昨日の術式より大きいですが、封印の強度も大幅に上がります」
「その代償とは」
「命を削る速度が、大幅に上がります」
静かな部屋で、その言葉だけが残った。
「つまり、昨日の術式で変わった状況を、元に戻すどころか悪化させることになる」
「国家的な観点では、封印の強度が最優先事項です」
「国家的な観点の話をしているのか」
「そうです」
リゼットは少し考えた。
「ローヴァン猊下」
「なんですか」
「あなたは、個人の命を歴史や秩序のために使うことを、正当化できる人間だと思っています」
「理解していただけていますか」
「理解した上で、断ります」
ローヴァンが少し止まった。
「理由を聞かせてもらえますか」
「死ぬことを役目として受け入れていた時期がありました。しかしその考え方が、間違っていたとは言えないが、全部正しくもなかった、ということを、最近わかってきました」
「それは感情的な判断では」
「感情と理性の両方から出た判断です。昨日の術式が証明しています。別の手段を探せば、別の手段があった。最初から一択だと思い込む必要はない」
「昨日の術式は当面の対処です」
「わかっています。続きを探します」
「時間がかかります」
「かかってもいい。かかる時間の中で、私は生きています」
ローヴァンが少し黙った。
「強くなりましたね」
「そうかもしれません」
「以前のあなたなら、役目として受け入れていたかもしれない」
「そうかもしれません」
「変わった理由は」
リゼットは少し考えた。
「慣れてきたからです」
「何に」
「大事にされることに」
ローヴァンが目を細めた。笑みが変わった。
「そうですか」
「それが答えです」
「…わかりました」
ローヴァンが立ち上がった。
「一つだけ言わせてください」
「何ですか」
「あなたとセレネ殿下が選んだ方向性は、容易ではありません。時間と労力と、いくつかの危険が伴います。それでも続けるのであれば、協力できることがないわけではありません」
「協力とはどういう形ですか」
「古い契約の記録を持っています。百年前の竜殺し本人が残した手記に近いものです。術式の設計図ではありませんが、当時の契約がどう結ばれたかを知る手がかりにはなるはずです」
「なぜ今まで出さなかったのですか」
「必要とされる状況を待っていました」
必要とされる状況を待っていた。つまり、最初から持っていた。
「ローヴァン猊下」
「なんですか」
「あなたは、どちらの結果になっても構わない人間だ」
「どういう意味ですか」
「封印媒介案でも、別の手段でも、どちらでも目的が達成できれば構わない。ただし、どちらに転んでも自分の関与が残る形を選んでいる」
ローヴァンは、今度は違う種類の笑みを見せた。計算ではない笑みだった。
「正確な観察です」
「否定しないのか」
「否定できません」
「記録は提供してもらえるか」
「セレネ殿下を通じて渡します」
「直接ではないのか」
「殿下を経由する方が、あなたの利益になると思います」
そういう計算をする人間だ、とリゼットは改めて思った。敵でも味方でも、どちらとも言えない。しかし今は、使えるものは使う判断でいい。
「わかりました」
ローヴァンが扉に向かった。
「もう一つだけ」
扉の前で振り返った。
「昨日の戦いで、あなたは生きることを選んで戦いました。それが術式を機能させた理由の一つだと、わたくしは思っています」
「どういう意味ですか」
「百年前の封印が消耗を伴った理由は、術式の問題だけではありませんでした。当時の竜殺しが、死を覚悟して封印に臨んだからでもあります。死の覚悟が契約の形を変えた。昨日のあなたは違った」
「それを伝えたかったのか」
「記録の中に詳細があります」
ローヴァンが出ていった。
扉が閉まった。
リゼットは天井を見た。
死を覚悟するのではなく、生きることを選んで戦った。
それが百年前と違う点だとするなら、今の術式が当面の封印として機能した理由に繋がるかもしれなかった。そして完全討滅に向けた手段を探す上でも、その違いが鍵になるかもしれなかった。
フィグが来た。
「胡散臭い坊主は帰ったか」
「帰った」
「何を言いに来た」
「色々だ。ただ、記録を提供すると言った」
「使えるか」
「使えるかもしれない。ただし、セレネ殿下を通じて」
「賢い坊主じゃ。胡散臭いが」
フィグが台に乗った。
「ぬし、今日の顔は昨日と違うぞ」
「どう違う」
「昨日は消耗した顔だった。今日は、消耗しているが別のものがある顔じゃ」
「何があるように見える」
「さあの」
答えない、とリゼットは思った。しかしフィグが何を見ているかは、なんとなくわかった。
夕方、セレネが来た。
「ローヴァン猊下が来たと聞きましたが」
「来た。記録を提供すると言っていた。セレネ殿下を通じて渡すと」
「何の記録か聞きましたか」
「百年前の竜殺しの記録だ」
セレネが少し間を置いた。
「それは、ノエルが探していた記録の欠落部分かもしれません。資料室には断片しか残っていないと思っていましたが」
「猊下が持っていたらしい。使えるかどうかはわからないが、断る理由もない」
「受け取ります」
セレネが椅子に座った。今日は書類を持っていなかった。
「今日はどうでしたか」
「ローヴァン猊下以外は冷静だった。体は重いが、昨日よりいい」
「それはよかった」
「セレネ殿下」
「なんですか」
「あなたに話したいことがある」
「今ですか」
「今でいい」
セレネが少し身を整えた。
「昨日の話の続きだ」
「どの続きですか」
「誰かのために生きていたいと言った話だ」
セレネが少し止まった。
「続きがあったのですか」
「今日、ローヴァン猊下と話した後で、確認できたことがある」
「何が確認できましたか」
「死ぬことを覚悟して戦うのと、生きることを選んで戦うのでは、剣の意味が変わる。それが今日わかった」
「わかりましたか」
「わかった。そして生きることを選べたのは、理由があった」
「何が理由ですか」
リゼットは少し間を置いた。
「あなたが傍にいたからだ」
セレネが動かなかった。
「私が倒れた時、あなたはずっと傍を離れなかった。あなたが国よりも、と言った。あなたが望まなくても生かすと言った。全部、私が生きることを選ぶ理由になった」
「リゼット」
「慣れてきた、と昨日言った。慣れてきたから、今日言える」
「何を言えますか」
リゼットは少し息を吸った。
「あなたのそばにいたい。そう思っている」
部屋が静かになった。
窓の外で、夕方の風が木を揺らしていた。
セレネがゆっくりと、リゼットの方に手を伸ばした。寝台の端に手を置いた。リゼットの手の近くに。触れるか触れないかの距離に。
「わたくしも」
小さな声だった。
「あなたのそばにいます。ずっと」
ずっと、という言葉が静かに落ちた。
リゼットは手を動かした。セレネの手の上に、自分の手を重ねた。
フィグが台の上で、わざとらしく咳払いをした。
「ぬしら、妾がおるぞ」
「わかっている」
「存じております」
二人が同時に答えた。
フィグが鼻を鳴らした。面白がっている鼻の鳴らし方だった。しかし今日は、その下に別の何かがある音だった。
安堵の音だ、とリゼットは思った。
夕方の光が部屋に差し込んでいた。
もう誰にも差し出さない。
命も、心も、未来も。
その決意が、今日初めて言葉ではなく、感触として体の中にあった。
剣で守るのではなく、生きることで守る。
それが今日、リゼット・アルヴェインが選んだことだった。




