最終章 竜殺しの姫は、今日も隣国の魔女に飼われている
旧戦場の空は、前に来た時よりも明るかった。
夜明け前の緊急出撃ではない。今回は、全員が準備を整えてここに来ていた。
古竜は、眠りに近い状態で旧戦場の中心に沈んでいた。一時封印の術式が、まだ効いている。
一時封印から、半月以上が過ぎていた。
ローヴァンが提供した百年前の記録をもとに、ノエルとセレネは術式の骨格を組み直した。旧戦場で得た計測結果と、リゼット自身の感覚も加わった。
ようやく、完全討滅の道筋が見えた。
出撃は、一度だけだった。
誰かを差し出すためではない。
全員で、終わらせるための出撃だった。
セレネが術式を展開した。リゼットが核に触れた。今回は、前より長かった。核に触れている間、胸の奥から何かが細く引き出され続けた。
術式が古竜の残滓に入り込んだ。百年前の契約の核心に届いた。
リゼットは感じた。自分の中にあった竜の引っ張る感触が、根元から断ち切られていくのを。消耗ではなかった。解放に近い感触だった。
古竜が、今度は完全に消えた。
地脈の揺れが止まった。旧戦場の空気が変わった。百年間そこにあった重さが、なくなった。
リゼットは立っていた。
消耗はあった。しかし今回は、膝をつかなかった。
「終わりましたか」
セレネが尋ねた。
「終わった」
「確かに」
「感じる。もういない」
ノエルが術式の反応を読んだ。しばらくしてから、顔を上げた。
「封印核の反応がゼロです。古竜の残滓が検出されません。完全です」
誰も声を上げなかった。
声を上げるよりも、穏やかに確認する方が、この場に合っていた。
フィグが肩の上で言った。
「終わったな、小娘」
「終わった」
「どんな気持ちじゃ」
リゼットは少し考えた。
「まだわからない」
「そうか」
「ただ、体が軽い」
「それなら大丈夫じゃ」
戦後処理は時間がかかった。
両国の間で外交的な整理が必要だった。封印崩壊への対処がどのような形で成立したかを記録に残す作業、それに伴うリゼットの立場の再定義、ローヴァンの記録の扱い、旧戦場の今後の管理体制。
ガイゼルはヴァルディスに一週間留まってから帰国した。
帰国の前日、ガイゼルとリゼットが話す時間があった。晩餐の後、二人で庭に出た。
「おまえが正しかった」
ガイゼルが言った。
「結果論かもしれない」
「そうだとしても、言いたかった」
「兄上」
「なんだ」
「帰国後、アルヴェインとしての報告はどうなる」
「竜殺しの英雄が、ヴァルディスとの共同作戦で古竜を完全討滅した、という形になる」
「私の立場は」
「しばらくはヴァルディスに留まることになるだろう。両国の共同特務として、という形が整いつつある」
「それはセレネ殿下と相談して決まったことか」
「外交担当同士で調整した。おまえの意向を確認する前に動いてしまったが」
「今回は構わない」
「そうか」
庭の夜の灯が石畳に落ちていた。アルヴェインの金色とは違う、ヴァルディスの青みがかった光だった。
「リゼット」
「何か」
「幸せにしてもらえ」
予想していない言葉だった。
「兄上」
「言えることはそれだけだ」
ガイゼルが先に歩き出した。
リゼットはしばらく庭に立っていた。
幸せにしてもらえ、という言葉が、夜の空気の中に残っていた。
両国の整理が落ち着いたのは、さらに半月後だった。
リゼットの立場は、両国共同の特務顧問という名目に落ち着いた。実質的には独立した立場で、どちらの国の直接の指揮下にも入らない。ヴァルディスに居を置く形になった。
正式な書類が出来上がった日、イリスが持ってきた。
「署名をお願いします」
「これで正式にヴァルディス在住になるのか」
「書類上は、そういうことになります」
「実質上は」
「以前と変わりません」
「そうか」
署名した。
イリスが書類を受け取った。それから、珍しく少し間を置いた。
「リゼット様」
「なんだ」
「おめでとうございます」
「何が」
「生きていることと、ここにいることが、ご自身の選択になったことです」
リゼットは少し考えた。
「ありがとう、イリス」
「どういたしまして」
イリスが出ていった。
フィグが台の上から言った。
「ぬし、イリスにお礼を言えるようになったのか」
「以前も言えた」
「言える機会がなかっただけじゃ、と言いたいのか」
「そういうことだ」
「そうかの」
フィグが伸びをした。
それから一ヶ月が経った。
ヴァルディスの城の日常は、戦いの前と比べて落ち着いていた。封印崩壊の脅威がなくなり、両国の外交的な緊張も薄れた。宮廷の空気が変わった。
リゼットの日常も変わった。
客将としての任務の形式が変わったため、軍事的な任務は減った。代わりに、両国の連絡役としての仕事が増えた。書類は山のように積まれ、会議の席にも引き出されるようになった。
「私は書類仕事が得意ではない」
ある朝、リゼットは率直に言った。
「知っています」
イリスが答えた。
「なら別の担当に変えられないか」
「リゼット様の署名が必要な書類です。他の方では代わりになりません」
「なぜ私の署名が必要な書類が増えているんだ」
「立場が定まったからです。署名できる立場の人間には、署名の仕事が来ます」
「それはわかるが」
「殿下も同じ量の書類を処理しています」
「セレネ殿下は得意だろう」
「得意かどうかと、量の問題は別です」
リゼットは書類を見た。
「フィグ、手伝え」
「妾に手伝えることはない」
「励ませ」
「頑張れ」
「それだけか」
「それだけじゃ」
役に立たない、とリゼットは思った。しかし書類に向かった。
昼の後、セレネが来た。
今日も書類を持っていた。しかし部屋に入って、書類をテーブルに置いた後、窓の外を見た。
「今日は天気がいいですね」
「そうだな」
「小庭に出ませんか」
「書類があるが」
「後でいいです」
「あなたが言うと説得力がある」
「後でいいと思っているからです」
小庭に出た。
石畳の間に花が植えられた庭だった。秋になって、夏の花が終わり、別の種類の花が咲いていた。白と薄紫に加えて、橙色の小さな花が増えていた。
セレネが椅子に座った。リゼットも座った。フィグが来て、菓子の台を探した。
「今日は菓子を出していませんよ」
セレネが言った。
「なぜじゃ」
「先に言ってくれれば用意しましたが」
「これは不手際ではないか」
「フィグが来ることを予告してくれれば用意します」
「わかった。次からはイリスに伝える」
「お願いします」
フィグが仕方なさそうに台の横で丸くなった。少ししてから、イリスが菓子を持って来た。
「フィグ様、どうぞ」
「む。用意していたのか」
「殿下が今日は出しておかないようにと言いましたので、こうなりました」
「からかったのか」
「少し」
フィグが菓子を食べながら、セレネを睨んだ。セレネは笑顔だった。
「ぬし、やはり腹黒い」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めておらん」
リゼットは二人のやりとりを聞きながら、茶を飲んだ。
小庭の花が風に揺れた。秋の風だった。少し冷たかった。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「ここに来てから、しばらく経ったな」
「そうですね」
「長く感じるか」
「あなたは?」
「短くも長くもない」
「どちらでもない、という感触ですか」
「ここにいることが当たり前になってきた、という感触だ」
セレネが少し笑った。
「それはいいことです」
「そうか」
「そうです。最初はそうではなかったでしょう」
「最初は警戒していた」
「知っています」
「今は」
「今は、と言いますか」
「今はどうか、と聞いている」
セレネが茶を置いた。
「今は、ここにあなたがいることが当たり前になっています。わたくしも」
「お互いに当たり前になったのか」
「そのようです」
フィグが口の中で菓子を転がしながら言った。
「ぬしら、何を言い合っておるんじゃ」
「普通の会話だ」
「普通ではない顔をしておるぞ」
「顔は関係ない」
「大いに関係ある」
セレネが小さく笑った。声に出た笑いだった。計算のない笑い方だった。
リゼットはその笑い方を見た。
初めてここに来た日、城門の前で見た笑みとは全く違う笑い方だった。あの日の笑みは完璧で、冷たく、底が見えなかった。今日の笑い方は、少し力が抜けていた。
底が見える、という言い方は違う。しかし今日の笑い方には、何かが見えた。
楽しい、という感触が見えた。
それに気づいて、リゼットも少し笑いそうになった。笑いそうになって、笑った。
「なぜ笑っているのですか」
「あなたが笑ったからだ」
「それで笑うのですか」
「移ったのかもしれない」
セレネが少し間を置いた。
「うつりやすい人なのですか、あなたは」
「そうでもないと思っていたが」
「そうでもなかったのに、うつりましたか」
「そうなるらしい」
セレネがまた笑った。今度はもう少し長く笑った。
フィグが呆れた顔をした。
「ぬしら、もう少し真面目に話せないのか」
「真面目だ」
「真面目ではない顔じゃ」
「真面目な話は全部済んだ」
「全部済んだとはどういうことじゃ」
「古竜の件は終わった。立場の整理も終わった。言うべきことも言った。残っているのは日常だ」
フィグが少し止まった。
「日常、か」
「そうだ」
フィグが菓子をもう一粒食べた。
「そうか」
それだけ言った。
何か言いたいことがありそうだったが、言わなかった。今日のフィグは珍しく口数が少なかった。
夕方になった。
小庭の花に影が伸びた。石畳が冷えてきた。茶が二杯目になった。書類はまだテーブルの上にあった。
「書類、後でします」
セレネが言った。
「私もそうする」
「明日にしてもいいですか」
「明日になる書類か」
「半分はなります」
「残りの半分は」
「今夜します」
「では今夜手伝う」
「手伝えますか」
「内容による。署名だけでいいものなら」
「それが半分以上あります」
「なら署名する」
セレネが頷いた。
イリスが小庭の出口の方から言った。
「では、夕食の後で執務室に書類をまとめておきます」
「ありがとうございます」
夕食に向かう時間になった。
リゼットたちは小庭を出た。
廊下を歩きながら、セレネが言った。
「今日は小庭が気持ちよかったですね」
「そうだな」
「秋になると、花の色が変わります」
「橙色の花が増えていた」
「気づいていましたか」
「春はなかった」
「秋にしか咲かない種類です。来年の春にはまた白と薄紫になります」
「来年の春もここにいる」
言った。
言ってから、それが宣言だったと気づいた。意図していたわけではなかった。しかし出てしまった言葉だった。
セレネが少し止まった。
「来年の春も、ということは」
「ここにいる。来年も」
「その先も、ということですか」
「その先も、だ」
セレネが少し間を置いた。
「……わかりました」
「わかりましたとはどういう答えだ」
「わかったということです」
「それだけか」
「それだけでは足りませんか」
「少し足りない」
セレネが少し考えた。
「では」
廊下の灯の中で、セレネがリゼットを見た。
「わたくしも、その先もここにいます」
「それならいい」
「これで足りましたか」
「足りた」
フィグが肩の上で言った。
「ぬしら、廊下で止まっておるぞ」
「今行く」
「夕食が冷める」
「冷めない」
「冷めるわ」
歩き始めた。
廊下の灯が揺れた。夕食の匂いが遠くから来た。
夕食の後、執務室で書類をやった。
リゼットは署名のものを担当した。セレネは内容の確認が必要なものを担当した。イリスが分類した書類を順番に渡した。フィグは文机の隅で丸くなって、時々起きては口を挟んだ。
「その書類の宛先が違うぞ」
「フィグ、見えているのか」
「見えておる」
「では手伝え」
「妾は手がない」
「口で言え」
「言っておる。宛先が違う」
「どこが違う」
「三行目の名前が逆じゃ」
イリスが確認した。
「正しいです」
「そうか。では間違いではなかった」
「フィグ、いい加減にしろ」
「退屈じゃったんじゃ」
セレネが笑った。今日は何度か笑った日だった。
「殿下、次の書類です」
「ありがとうございます」
リゼットは署名をした。次の書類を受け取った。また署名をした。
書類仕事は得意ではなかった。しかし今夜は、そこまで苦痛ではなかった。
セレネが隣にいたからかもしれなかった。あるいは、こういう夜が続くのだという実感があるからかもしれなかった。
半刻ほどで今夜の分が終わった。
「お疲れ様でした」
イリスが書類を片づけた。
「ありがとう、イリス」
「殿下こそ、お疲れ様でした」
イリスが出ていった。
執務室に二人と一匹が残った。
「今日は小庭から書類まで付き合わせてしまいました」
「構わない」
「疲れましたか」
「少し。悪い疲れではない」
「悪い疲れと良い疲れがあるのですか」
「ある。今日のは、何かをやった後の疲れだ。消耗の疲れではない」
セレネが少し考えた。
「わたくしにも、同じ感触があります」
「そうか」
「今日は、そういう一日でした」
「そうだな」
フィグが台の上で目を開けた。
「ぬし、今日のセレネ殿下のことをどう思う」
「唐突だな」
「答えよ」
「……今日はよく笑っていた」
「それだけか」
「それだけだ」
フィグが目を細めた。
「そうか」
「そうだ」
セレネが何か言おうとした。
「今日はよくお世話させてくださいね」
言った。
リゼットが少し止まった。
「今日は、もう終わりかけているぞ」
「それは知っています」
「では今日というのは」
「明日のことです」
「明日をいつから今日と言うんだ」
「寝る前から言います」
「そういう用法があるのか」
「ここでは使います」
フィグが鼻を鳴らした。
「ぬしが断ればいいだけじゃ」
「断るつもりはない」
「では何が問題じゃ」
「問題はない」
「なら受け取れ」
リゼットは少し考えた。
「わかった」
セレネが頷いた。
「では、明日もよろしくお願いします」
「よろしく頼む」
「今日もお疲れ様でした」
「お疲れ様」
フィグがひとつ大きな欠伸をした。
「ぬしら、今夜はここまでか」
「そうだ」
「では妾は先に帰る」
フィグが飛んで、扉の隙間から出ていった。
執務室に二人だけ残った。
リゼットは閉じた扉を見た。
「フィグは何を考えているんだ」
「わかりません」
「本当に」
「本当です。ただ」
セレネが少し笑った。
「だいたいの意図はわかります」
「どういう意図だ」
「少しだけ、二人でいる時間を作ろうとしているのだと思います」
「二人でいる時間のために、わざわざ退場するのか」
「フィグなりの気遣いだと思います」
リゼットは少し考えた。
「その気遣いは必要だったのか」
「必要かどうかはわかりません。ただ、悪くはなかったと思います」
「そうか」
「そうです」
執務室の灯が、夜の明るさで揺れていた。
窓の外に、ヴァルディスの夜の灯が見えた。青みがかった光が石畳に落ちていた。
リゼットは最初の夜を思い出した。この城に来た夜、城門の前でセレネと初めて会った時、その笑みが檻の鍵に見えた。
今もこの城にいる。しかし今は、鍵の意味が変わっていた。
閉じ込められているのではなく、ここにいることを選んでいる。
その違いは、小さいようで全てだった。
「セレネ殿下」
「なんですか」
「あなたに飼われている、と最初に思ったことがある」
「最初から」
「最初から。そう言おうとしているのではなく」
「続けてください」
「今もそう言えるかもしれない。ただ、意味が変わった」
「どう変わりましたか」
「管理されている、という意味ではなくなった」
「では」
「選んだ、という意味になった」
セレネが少し間を置いた。
「わたくしもです」
「何が」
「最初は囲い込もうとしていた。あなたをここに置くことを、管理していた。今は違います」
「今は」
「今は、あなたがここにいることを、選んでいただいていると思っています。それがわたくしにとって、以前の何より大切なものになっています」
リゼットはその言葉を聞いた。
大切なものになっている、という言い方が、セレネらしかった。直接的すぎず、しかし曖昧でもない。
「飼われている、で構わない」
「いいのですか」
「ただし、私も飼っている」
「どういう意味ですか」
「お互いに、ということだ」
セレネが少し目を細めた。
「……それは、今まで聞いた言葉の中で、一番変わった言い方です」
「そうか」
「そうです。ただ」
セレネが立ち上がった。リゼットの方に少し近づいた。
「一番気に入りました」
「そうか」
「そうです」
フィグが廊下から声だけを飛ばしてきた。
「ぬしら、そろそろ帰れ。妾が眠れん」
「うるさい」
「まったくです」
二人とも同時に言った。
廊下からフィグの鼻を鳴らす音が聞こえた。
執務室を出て、廊下を歩いた。
フィグが待っていた。
「遅かったな」
「そうでもない」
「随分かかったぞ」
「そうでもない」
「ぬしらの時間感覚はおかしい」
二人と一匹で廊下を歩いた。
夜の灯が揺れた。
竜殺しの姫は、今日も隣国の魔女に飼われている。
飼われている、という言葉の意味が、最初とは全く違う形になっていた。
それは支配ではなく、選び合ったことの名前だった。
ヴァルディスの城の廊下が、夜の光の中で続いていた。
その先に、明日があった。
(了)




