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竜殺しの姫は、今日も隣国の魔女に飼われている  作者: 明石竜


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第二十三章 国よりも、あなたを

 旧戦場に着いた時、夜明けが始まっていた。

 空の東側が薄く白んでいた。その白さの中に、旧戦場の上空で何かが動いていた。

 大きかった。

 遠目でもわかった。翼を広げた影が、夜明けの空に黒く浮かんでいた。完全な復活ではないと報告にあったが、翼は機能していた。地上に降りているのではなく、低空を旋回していた。

 フィグが肩の上で、声を立てずに毛を逆立てた。

「感じるか」

 セレネが馬を並べて言った。

「感じる。前回より強い。ただし完全ではない。まだ覚醒しきっていない部分がある」

「その間に動きます」

「ノエルの術式は」

「現地に着いてから展開します。時間はかかりません」

 セレネの声は落ち着いていた。出発の前から落ち着いていた。恐怖がないのではなく、恐怖の置き場所を知っている人間の落ち着き方だとリゼットは思った。

 ミレイユが騎士団を左右に展開した。アルヴェインの騎士はガイゼルの指揮下で右翼を担当した。イリスが後方の補助線を管理する位置に入った。

「古竜が地上に降りた場合、直接の戦闘になります」

 ミレイユが告げた。

「騎士団は前衛で道を作ります。術式の展開に必要な時間を稼ぎます」

「どのくらい必要だ」

「ノエルと殿下が準備を整えるまでです。長くはありませんが、古竜を前にすれば充分に長い」

「そうだな」

 ミレイユが短く頷いた。

「では、できるだけ稼ぎます」

   

 最初の時間が、最も難しかった。

 古竜は低空の旋回から降下してきた。完全な覚醒ではないため動きは鈍かったが、それでも古竜だった。翼が一度振られただけで、空気が潰れた。

 瘴気が喉に入る。騎士の一人が咳き込み、馬が首を振って後ずさった。

 誰かの鎧が鳴った。恐怖で動いた音だった。

 リゼットは前に出た。

 瘴気の中で感覚が乱れる。それはわかっていた。乱れさせないために、感覚を一点に絞った。古竜の動きだけを見る。翼の角度、頭の向き、足の位置。戦闘の前に情報を集めることだけを考えた。

 古竜が地上へ落ちてきた。

 着地の衝撃が地面を揺らした。騎士の馬が数頭、後退した。

 古竜が口を開いた。

 音が来る前に、空気が震えた。

 咆哮が旧戦場を打ち、騎士たちの列がわずかに乱れた。

 リゼットは踏みとどまった。馬ではなく、地面に足をつけて立っていた。馬の上では古竜との距離の調整が難しい。地上の方が制御できる。

「リゼット」

 後ろからセレネの声がした。

「術式の展開を始めます。時間をください」

「わかった」

 ミレイユの騎士団が動いた。左右から挟む動きで、古竜の注意を分散させた。アルヴェインの騎士が右から圧力をかけた。

 古竜が右を向いた。

 その瞬間にリゼットが踏み込んだ。

 翼の付け根、鱗の薄い部分を狙った。剣先が入った。完全には入らなかったが、古竜が反応した。右翼が引かれた。その動きが、ミレイユの騎士団に向かった。

「左へ」

 ミレイユが声を上げた。騎士団が散開した。翼が空を切った。当たった者はいなかった。

 術式の光が、まだ細い。

 古竜は本格的に覚醒し始めていた。動きが速くなった。瘴気の濃度が上がった。

 リゼットの胸の奥で、何かが燃え始めた。

 以前から続いている感触だ。竜の残滓と自分の中の何かが共鳴する感触。今回はその強さが、これまでと比べ物にならなかった。

 押し返そうとした。感覚を絞って、剣だけを見た。

 古竜が首を下げた。口を開いた。

 瘴気の集中した息が来た。

 リゼットは横に跳んだ。間に合った。地面に着地した瞬間、膝に力が入らなかった。一瞬だけ片膝をついた。

 立ち上がった。

「核の輪郭が出ました!」

 ノエルの声が後ろから聞こえた。

「あと少し、お願いします!」 


 古竜が向き直った。

 赤い目が、リゼットだけを見た。

 背筋が冷えた。

 竜殺しを見つけたのだ。

 ならば、こちらを見ていろ。

 セレネの方を見るな。

「フィグ」

「おる」

「後ろに行け」

「嫌じゃ」

「危ない」

「妾はぬしの傍におる。それが契約じゃ」

 言い合いをしている場合ではなかった。

 古竜が踏み込んだ。地面が揺れた。リゼットは横に移動しながら剣を構えた。引きつけながら、翼の方向を確認した。

 翼が上がった。

 リゼットは止まった。翼が下りてくる軌道を読んだ。右に一歩。翼の先端が地面を叩いた場所から、二歩分の距離だった。

 その隙間を抜けて、古竜の側面に入った。

 鱗の合わせ目を探した。右側の腹部に入り込んで、剣を押し込んだ。古竜が反応した。大きく動いた。

 弾き飛ばされた。

 地面が背中に来た。息が抜けた。

 転がった先で、剣だけは離さなかった。

 立て。

 膝が遅れて、体が遅れて、それでもリゼットは立った。

 胸の奥が燃えている。視界の端が白い。

 まだだ。

 まだ、倒れる場所ではない。

 背後で術式の光が太くなった。

 ノエルの声が震えながらも、止まらず続いている。

 もう少しだ。

 その「少し」が、遠かった。

 古竜が再び向き直った。

 リゼットは剣を正面に出した。体が重かった。消耗していた。しかし立っていた。

「リゼット」

 セレネの声が聞こえた。前より近かった。

「術式の核が安定しました。後は展開するだけです」

「何が必要だ」

「あなたに、術式の核に触れてもらいます。竜殺しの気配を鍵として使います。触れるだけでいい。戦闘は不要です」

「触れるとどうなる」

「封印の回路が起動します。古竜の力を封じ込める結界が展開されます」

「私への負荷は」

「あります。ただし、媒介として使う場合よりはるかに小さい。短時間の集中的な負荷です」

「短時間とはどのくらいだ」

「息を十ほど数える間です」

「わかった」

「近づいてください」

 古竜が動いた。

 タイミングが悪かった。セレネに近づこうとした瞬間、古竜が前に出た。

 ミレイユが横から入った。古竜の注意を引いて、左に引きつけた。ガイゼルの騎士が右から圧力をかけた。

 その隙間を使ってリゼットはセレネのところまで走った。

 セレネが術式の核を持っていた。小さな光の塊だった。リゼットの手のひらほどの大きさで、青白く輝いていた。

「これに触れてください」

「両手で持つか」

「片手で充分です。ただし、感じることに抵抗しないでください。体に入ってくるものを、遮断しないで」

「遮断しない」

「怖くなるかもしれない」

「構わない」

 右手を伸ばした。

 核に触れた瞬間、感触が来た。

 熱、ではなかった。引力だった。何かが自分の中から引き出されていく感触だった。竜を討った時に何かが流れ出た感触と、種類が似ていた。しかし方向が違った。あの時は外に向かって流れ出た。今回は、核の中に向かって流れていた。

 入れている、と思った。引き出されているのではなく、自分が注いでいる。

 長く感じられた。

 セレネが術式の言葉を唱えた。古い言語だった。意味はわからなかったが、音の連なりが地面に染み込んでいくような感触があった。

 核が光を増した。

 青白い光が広がった。旧戦場全体に広がった。

 古竜が動きを止めた。

 光の中で、古竜が動けなくなっていた。翼が広がったまま固まっていた。首が下がっていた。

 封印が機能していた。

 しかしそれは、完全ではなかった。

 術式の光が安定しかけた瞬間、古竜の体が沈んだ。封印に抗うためではない。最後に、核を壊すための動きだった。

 尾が来た。速かった。

 巨体に似合わない速さで、光の中から黒い影が走った。

 狙いはリゼットではない。

 セレネだ。

 考える前に、体が動いていた。

 リゼットは核から手を離し、セレネの前に入った。

 剣を立てる。受ける。受けきれない。

 衝撃が腕を抜け、肩を抜け、胸の奥まで叩きつけてきた。

 体が浮いた。地面が来た。転がった。

 起き上がろうとして、腕が動かなかった。

それでも、目だけはセレネを探した。

 セレネは立っていた。

 核を持ったまま、術式の言葉を続けていた。声は震えていない。

 イリスが横に入り、セレネの前に立った。

 ミレイユがさらに前へ出た。古竜の首元へ剣を突きつける。

 ノエルの補助術式が、青白い線になって地面を走った。

 全員が、それぞれの場所にいた。

 誰も、リゼットだけを差し出していなかった。

 術式の光が完成した。

 青白い光が旧戦場全体を包んだ。古竜が光の中に沈んでいった。完全な封印ではなかった。しかし力を大きく削いだ。覚醒した古竜が、再び眠りに近い状態に戻っていくのが、リゼットには感じられた。

 地面の揺れが止まった。

 瘴気の濃度が下がっていった。

 騎士たちが立ち止まった。

 静けさが来た。

   

 セレネが走ってきた。

 核を置いて、走ってきた。リゼットの傍に来て、膝をついた。

「リゼット」

「立てる」

「立てなくていい」

「立てると言った」

「今は立てなくていい」

 珍しく、押し返されなかった。

 横になったまま、空を見た。夜明けの空が、戦闘の前より明るくなっていた。

 消耗していた。これまでで最大の消耗だった。体が重かった。

 しかし生きていた。

「術式は機能したか」

「しました。完全ではありませんが、古竜の力を大幅に削ぎました。完全討滅には至っていませんが、当面の封印は成立しています」

「当面とはどのくらいだ」

「ノエルが計算します。ただし数ヶ月から数年の範囲だと思います」

「それで問題ないか」

「根本的な解決は別途必要です。ただし今日の危機は乗り越えました」

 リゼットは息を吸った。

 消耗していたが、昨日まで感じていた竜の引っ張る感触が、少し薄くなっていた。封印の術式が、竜殺しと古竜の間の回路を部分的に断ったのかもしれなかった。

「セレネ殿下」

「なんですか」

「あなたが傍にいれば三割を四割に縮められると言ったが」

「はい」

「縮まったか」

「縮まりました。七割が成功しました」

「七割のままか」

「七割で充分でした」

 リゼットは少し笑った。横になったまま笑った。体が重くて、声は出なかったが。

 セレネが、リゼットの手を握った。

 今まで何度か、傍にいた。肩を掴んだことも、手を持ったまま眠ったことも、あった。しかし今回は、セレネから握ってきた。

「国よりも、あなたを」

 セレネが言った。

 昨夜の話の続きが、ここで来た、とリゼットは思った。

「今日の選択は、国を捨てた選択ではありません。ただ、選択に迷った時に、何を優先するかは決まっています」

「決まっているのか」

「決まっています。あなたです」

 空が明るくなっていた。

 フィグが来た。リゼットの胸の上に乗った。軽かった。

いつもなら着地と同時に文句の一つも言うはずなのに、今日は爪を立てる力も弱かった。

「生きておるな、小娘」

「生きている」

「それでいい」

「それだけか」

「それだけじゃ」

 フィグが丸くなった。リゼットの胸の上で、小さく温かかった。

 ミレイユが来た。

「殿下、リゼット殿。騎士団の被害を報告します」

「後でいいです」

 セレネがそう言うと、

「後で」

 ミレイユが少し止まって、珍しく笑った。

「承知しました」

 そう言って去っていった。

 イリスが遠くから見ていた。何も言わなかった。

 少し離れた場所でアルヴェインの騎士たちに指示を出していたガイゼルが、こちらへ歩いてきた。

「リゼット、怪我は」 

「消耗が大きい。怪我はたいしたことはない」

「そうか」

 ガイゼルは少し沈黙した。

「今日の術式は、アルヴェインが想定していた手段ではなかった」

「そうだ」

「結果として機能した」

「そうだ」

「……おまえが選んだことを、信じるべきだったな」

 それ以上は言わなかった。

「兄上も来てくれた」

「当然だ」

「ありがとう」

 ガイゼルが少し止まった。

「どういたしまして」

 穏やかに去っていった。

   

 しばらく、リゼットは地面に横になっていた。

 セレネが手を握ったままだった。

 空が完全に明るくなっていた。朝の光が旧戦場に差し込んでいた。百年前の古竜の痕跡が残る地形に、今日の戦いの跡が加わった。

 しかしその地面の中で、封印が機能していた。竜の残滓が、今日の術式によって少し形を変えていた。

 リゼットは自分の中を確認した。

 竜の引っ張る感触が薄くなっていた。完全になくなったわけではなかった。しかし今日の術式が、回路の一部を変えていた。

「体の感触が変わっている」

「気づきましたか」

「術式の影響か」

「そう期待しています。竜殺しと古竜を繋ぐ回路の一部が、封印の術式によって変質した可能性があります。消耗の速度が変わるかもしれません」

「確認はいつできる」

「数日かけて計測します」

「数日待てる」

 セレネが少し笑った。

 竜を殺す剣が、はじめて誰かを生かすために振るわれた。

 そう思った瞬間、それは違う、とリゼットは思い直した。

 誰かを生かすために振るったのではなかった。

 自分が生きるために振るった。

 その二つが、今日初めて重なっていた。

 セレネが手を握ったまま、空を見ていた。朝の光の中で、黒髪が光を反射していた。

「セレネ殿下」

「なんですか」

「今日、生きて戻れた」

「はい」

「あなたのおかげだ」

「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」

「どちらだ」

「今日は、全員のおかげです。ただ」

 セレネが少し間を置いた。

「あなたが生きていることは、わたくしにとっては、あなたのおかげです」

「どういう意味だ」

「生きようとしてくれたから、です」

 リゼットはその言葉を聞いた。

 生きようとしてくれた。

 その言葉が、今朝の空気の中に残った。

 消耗していた。体が重かった。しかし今日は、消耗の底に何かが残っていた。

 生きている、という感触が、以前より確かだった。


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