第二章 魔女姫の城で飼われはじめる
客将として通されるのは軍施設だと思っていた。
兵舎の一角か、せめて城内の来賓用区画か。アルヴェインでも他国からの軍人を受け入れる時はそうした。戦力として迎えるなら、戦力として扱う場所に置く。それが常識だ。
だからリゼットは少し困惑した。
案内された部屋は、軍施設とは程遠かった。
城の東翼、セレネの宮に近い区画。廊下の石畳は磨き上げられ、壁には精緻な織物が掛かっている。天井が高く、夕暮れの光が縦長の窓から長く差し込んでいた。案内された部屋の扉を開けると、寝台が中央に据えられ、文机、書架、暖炉、洗面台が過不足なく揃っていた。衣装箪笥の上には、リゼットの体格に合わせたらしい夜着が既に畳まれている。
既に。
「こちらでお過ごしいただきます」
案内役の侍女が言った。濃紺の髪をきっちりまとめた長身の女性で、無表情だが所作が美しい。名をイリス・ノクテュアと紹介された。セレネの筆頭侍女だという。
「軍の区画ではないのか」
「客将殿のお立場は、軍属というより外交賓客に近うございます。それに相応した部屋をご用意いたしました」
「……城の東翼は、セレネ殿下の宮に近い区画だと聞いた」
「左様でございます」
イリスの表情は変わらなかった。変わらないが、何かを含んでいるような気もした。
リゼットはもう一度、部屋の中を見渡した。書架には本が並んでいる。抜いてみると、アルヴェインの剣術書だった。隣には同じくアルヴェインで刊行された地誌。その隣には、リゼットが好んで読む種類の歴史書の、ヴァルディス語訳と思われる本。
どう見ても、事前に好みを調べた上で選んだ本だ。
「フィグのための菓子も用意してございます」
イリスが言った。視線は壁際の小さな台に向いていた。そこには小皿に盛られた砂糖菓子が置かれている。
「……妾の名を、なぜ」
フィグが肩の上で身を乗り出した。尊大な口調だが、目が少し砂糖菓子に向いている。
「こちらへいらっしゃることは事前に伺っておりましたので、ご準備いたしました」
「ふん」
フィグはほんの少し踏みとどまった。それからするすると肩を降りて、台の上に飛び乗り、砂糖菓子を一粒口に入れた。
「……まあ、悪くはない」
「光栄でございます」
全く役に立たない、とリゼットは思ったが口には出さなかった。
「食事の時刻と内容も、可能な範囲でお好みに合わせております。何か不都合があればお申しつけください」
「確認させてほしいのだが」
「はい」
「ここでの私の役割は何か。客将として来たなら、軍事的な任務があるはずだ。その内容と指揮系統を早急に確認したい」
イリスはわずかに間を置いた。
「詳細は明日、殿下より直接ご説明があります。本日はお疲れでしょうから、どうかゆっくりお休みください」
そう言って深く礼をした。扉が静かに閉まる。
リゼットはしばらくその扉を見ていた。
夕食は部屋に運ばれてきた。
広い食堂に通されるのかと思ったが、そうではなかった。小さなテーブルに二人分の席が設けられ、セレネが部屋に来た。
「驚きましたか」
セレネは窓際の椅子に座りながら言った。夕闇の中で、黒髪が光を吸っている。
「賓客を部屋で迎えるのは、ヴァルディスの慣例ではありません。ただ、今日は長旅の後でしょう。公式の場は明日からにしようと思いまして」
「……お気遣いなく」
「気遣いたいのです」
簡単に言う。リゼットは向かいの椅子に座った。食事の内容はアルヴェインの料理に近かった。根菜を煮込んだ温かな皿は、王宮でよく出たものに似ている。塩も香草も、ヴァルディスの料理にしては控えめだった。完全に同じではないが、食べ慣れた味に寄せてある。
「私の好みを調べたのか」
「当然です。大切なお客様をお迎えするのに、何も知らないままでいるのは失礼でしょう」
「剣の癖まで把握しているとも聞いた」
「そうも言いましたか」
セレネは少し笑った。否定はしない。
「では正直に申しましょう。あなたのことは、かなり詳しく調べております。体格、利き手、好きな食べ物、苦手な音。剣は下段からの引き技を得意とすること、視野が広く死角への反応が速いこと。睡眠は短く、早朝に目が覚める習慣があること」
「……」
「驚きますか」
「不快だ」
率直に言った。セレネは表情を変えなかった。
「そうですね。調べられることは不快でしょう。ただ、わたくしはあなたを雑に扱いたくないのです。知らないまま扱うことの方が、よほど失礼だと考えています」
「知ることと、監視することは違う」
「ご指摘はごもっとも」
あっさりと認めた。
「では、これから先は直接聞きます。調べるより聞く方が確かですから。教えてくださいますか、リゼット」
呼び捨てだ、と思った。城門で出迎えられた時にも気になった。王族に呼び捨ては無礼だとアルヴェインでは教わった。しかしヴァルディスの礼儀がどうかは知らない。文句を言うのも角が立つ。
リゼットは返事をせず、代わりに食事を一口とった。
味は悪くなかった。思ったより良かった。それがまた、微妙に癪だった。
その夜、湯浴みの支度はすでに整えられていた。湯の温度も、使う布も、何もかも過不足がない。頼んだ覚えはない。けれど旅の埃を落とすと、体が思った以上に疲れていたことに気づいた。
寝台は柔らかすぎず、硬すぎなかった。
眠れないと思った。
しかし、窓の外の青い灯を見ているうちに、いつの間にか眠っていた。
それから数日が経つと、リゼットはいくつかのことを把握してきた。
まず、セレネが城の中でどういう存在かということ。ヴァルディス公国の魔女姫は、名目上は公爵家の姫君だが、実質的に宮廷の魔術・外交の多くを取り仕切っている。病弱そうに見えるが、朝から深夜まで書類と来客をさばいている。体が弱いのか弱くないのかよくわからない。
次に、自分の立場についての明確な説明がまだないということ。客将として迎えられたと聞いたが、具体的に何をするのかは「ゆっくり慣れてから」と先延ばしにされている。
そして、この部屋の生活が完全に管理されていること。
「今日の訓練は午前のみにしてください。午後は殿下との面会が入っています」
「朝食の後に薬湯をお持ちします。長旅の疲れが残っているとのことで、殿下がご指示を」
「こちらの軍装は洗いに出しました。代わりにこちらをご用意しております」
イリスが毎朝のように告げる内容が、リゼットの一日を決めていく。食事の時間も訓練の時間も、使う部屋の順序まで。気づけば自分の行動のほとんどが整えられていた。
「フィグ」
「なんじゃ」
「私は今、管理されているのか」
「今さら気づいたのか、小娘」
フィグは菓子を齧りながら答えた。いつの間にか、セレネから毎食後に菓子を渡されるのが習慣になっていた。全く懐柔されている。
「ぬしが入城した時から、妾には分かっておった。あの魔女娘、手回しが速い」
「管理されるのは不本意だ」
「ならばなぜ断らぬ」
「おまえも菓子を断っていないだろう」
「菓子は別じゃ」
リゼットは答えられなかった。
断れないわけではない。食事の内容に異議を申し立てることも、訓練の時間を自分で決めることも、できるはずだ。しかし実際には、あてがわれた日程を受け入れている。
なぜかを考えると、少し不快な答えが出た。
悪くないから、だ。
アルヴェインでは、リゼットの日常は概ね本人任せだった。英雄として称えられているが、称えている者たちは英雄の生活に興味がない。訓練の時間も食事も、好きにしろということだった。好きにした結果、フィグに言わせれば水を飲み忘れ、剣の手入れの途中で寝落ちする生活になった。
ここでの生活は、それより整っている。
それを認めたくないが、事実だった。
その日の夕刻、セレネが部屋に来た。手には書類がなかった。仕事のついでではないらしい。
「少し散歩をしませんか」
「散歩?」
「城の西庭です。夕暮れがきれいな場所なので」
連れ出される理由がわからなかったが、断る理由もなかった。
西庭は石畳の道が木々の間を通っていて、確かに夕暮れの光の入り方がよかった。セレネはゆっくりと歩く。体が弱いからか、足元に気を遣っている。
「窮屈ではありませんか」
唐突に聞かれた。
「城の生活が、という意味か」
「そうです」
リゼットは少し考えた。窮屈か、と言われれば、窮屈ではある。しかし予想していたより不快ではない。その二つを正直に言うと、余計な話が長くなる気がした。
「慣れない部分はある。しかし不満というほどではない」
「そうですか」
セレネはそれだけ言って、少し間を置いた。
「あなたはそういう人ですね」
「どういう人だ」
「不満があっても、それを不満と認めにくい人」
正確すぎて、返事に困った。
「ヴァルディスの生活が合わないことがあれば、言ってください。わたくしはあなたに無理をさせたいわけではありません」
「なぜそこまで気を遣う」
「お客様ですから」
「客将だ。客ではない」
「同じことではないのですか」
セレネは立ち止まって、庭の木を見た。どこかの鳥が鳴いている。
「アルヴェインでは、あなたはどういう扱いを受けていましたか」
質問の意図が読めなかった。
「英雄扱いだ」
「そうではなくて」
セレネが振り返った。夕暮れを背にした逆光で、表情が読みにくい。
「日常の、という話です。食事は誰かが用意しましたか。体調を気にかける者がいましたか」
「……自分でした」
「そうですか」
それ以上は言わなかった。また歩き始めた。リゼットはその背を見ながら、この女が何を考えているのかを測ろうとした。
測れなかった。
「私は政治的に囲われているのだと思う」
部屋に戻ってから、リゼットはフィグに言った。
「今さら」
「わかっていた。ただ口に出したかった」
「そうか」
フィグは欠伸をした。暖炉の前で丸くなっている。
「あの魔女娘は、ぬしを手放す気がない。何のためかはまだ分からんが、囲い込む気であることは確かじゃ」
「わかっている」
「わかっていて居心地が悪くないのか」
「……それも、わかっている」
フィグが片目を開けてリゼットを見た。何か言いたそうな目だったが、何も言わなかった。
リゼットは窓の外を見た。城の夜の灯が、石畳の上に長く落ちている。
アルヴェインとは光の色が違う。魔術の灯は、炎より少し青みがかっている。その光が妙に穏やかで、落ち着く、と思った自分に気づいた。
夜が深くなった頃、扉を叩く音がした。
イリスだった。手に薄い布を持っている。
「殿下よりお預かりしました」
「何か」
「膝掛けです。夜は冷えますので」
「いらない」
「左様でございますか」
イリスは膝掛けを文机の端に置いて、扉の前で一礼した。
「おやすみなさいませ、リゼット様。殿下もそのように申しております」
扉が閉まった。
リゼットは膝掛けを見た。薄い、しかし丁寧に織られた布で、触れると細かい魔術の結が感じられた。防寒のための魔術か、あるいは別の何かか。
「捨てないのか」
フィグが話しかけた。
「捨てない。もったいない」
「そうか」
フィグはそれ以上言わなかった。リゼットも言わなかった。
翌朝、目が覚めた時、膝掛けが膝の上にあった。夜中に寒くなって、無意識に手を伸ばしたらしかった。
客将のはずなのに、気づけば寝台の位置まで決められていた。
そして今朝の自分は、それをさほど不快に思っていない。
その事実の方が、よほど不穏だとリゼットは思った。




