第一章 竜殺しの姫、売られるように隣国へ
竜を殺した姫の末路が、隣国への厄介払いだとは思わなかった。
いや、正確には、思っていなかったわけではない。
リゼット・アルヴェインは、自分がそういうふうに使われる人間だと、ずっと前から知っていた。国境に現れた古竜を討った日から、王宮の人間は彼女を見るたび誇らしげな顔をした。同時に、とても都合のいい切り札を見るような顔もした。
だから兄のガイゼル王太子が玉座の間で、隣国ヴァルディスへ客将として赴いてもらう、と告げた時も、驚きはしなかった。
ああ、次はそう使うのか、と思っただけだ。
「返事は」
「お受けします、兄上」
言う前から、断るという選択肢はなかった。
アルヴェイン王国の玉座の間は、朝の光が差し込むと石の柱がほんのり白く輝く。少女の頃からリゼットが好きだった光景だ。英雄などと呼ばれる前から、剣の素振りを終えた早朝にひとりで来て、その光の中に立つのが好きだった。
今もその光は変わらない。ただ立っている自分の意味だけが変わった。
「正式な辞令は三日後になる。その前に、側近と荷物の整理を」
ガイゼルの声は穏やかだった。いつもそうだ。この兄は怒鳴らない。命令を怒鳴り声で下す必要がない人間というのは、たいていの場合すでに充分な権力を持っている。
「わかりました」
「リゼット」
名を呼ばれて振り向くと、ガイゼルは柔らかく微笑んでいた。金髪に朝の光を受けて、絵のように整った顔をしている。兄妹だから似ているはずなのに、こうして並ぶと彼の方が王族らしく見える。自分はただの剣の柄、と思うのは、考えすぎだろうか。
「おまえが行ってくれることで、多くのものが守られる」
「存じております」
「不満があるなら聞く」
リゼットは少し考えた。不満があるかと言われれば、ないとは言い切れない。しかし不満を言ったところで何かが変わるとも思えなかった。ヴァルディス公国との関係は今が均衡の瀬戸際で、アルヴェインが単独で維持できる状態ではない。竜殺しの名を持つ自分を送ることで、相手に示せる誠意がある。それは理解できる。理解した上で、行くと言った。
「不満はありません」
「そうか」
ガイゼルの微笑みがわずかに陰った。本当に不満がないとは思っていない顔だ。それでも追及しないのが、この兄の賢さだとリゼットは知っていた。
「小娘よ、ぬしは本当に便利に使われすぎじゃ」
廊下に出た瞬間、肩の上から声が降ってきた。
いつの間にか、フィグが革の腕当てに前足をかけて座っていた。モモンガに似た耳の大きな小動物で、飛膜を広げればリゼットの肩から書架の上まで滑空できる。その小さな目が、いかにも不満そうにリゼットを見上げている。
「聞いていたのか」
「聞いておらずとも察せる。顔に書いてあった」
「何が」
「諦め、とな」
リゼットは答えなかった。廊下の先、中庭に面した窓から風が入ってくる。春の終わりの、少しだけ草の匂いを含んだ風だ。この国の春はいつも短い。
「フィグ」
「なんじゃ」
「あなたは来なくていい。ヴァルディスまで連れていくのは、精霊を連れ歩く習慣のない国に迷惑をかけかねない」
「阿呆を言うな」
フィグは毛を逆立てた。怒ると耳の先まで膨らんで、手のひらに乗るくらいの体積が倍になる。
「妾がいなくてぬしに何ができる。昨日も訓練の後で三刻も水を飲み忘れておったではないか。前の晩は剣の手入れを途中で寝落ちして、起きたら刃に布が巻いたままであったではないか。ぬしは有能な戦士で愚かな生活者じゃ、妾なしで生きていける道理がない」
「……それはその通りだが」
「文句は言わせぬ。妾は行く」
胸を張る、という動作を小動物がすると少し滑稽に見える。けれどフィグの言葉が、廊下の石の冷たさより少しだけ温かかったことは、リゼットの胸の中だけに収まった。
出立は一週間後に定められた。
その間、リゼットは忙しかった。引き継ぎの書類、装備の選定、随行の騎士の選抜。客将という立場は軍属でも外交官でもないため、何をどこまで持っていけばいいのか判断が難しい。剣は当然として、鎧は軽装にするべきか、礼装は何着必要か。ヴァルディスの気候はアルヴェインより湿度が高いと聞いた。
合間に、何人かの臣下や貴族が別れの挨拶に来た。彼らの顔には共通したものがあった。惜しむような、しかし引き止める気はない、という顔だ。英雄が去ることは惜しいが、英雄が去る理由は正しい。そう思っている顔。
フィグはそういった挨拶のたびに肩の上でひそかに毛を立てていたが、声には出さなかった。
出立前日の夜、リゼットは母妃の部屋を訪ねた。母妃は体が弱く、玉座の間には来ない。白いベッドの中で、昔より細くなった手をリゼットの手の上に乗せて、「気をつけて」と言った。それだけだった。もっと何かを言いたそうな顔をしていたが、言葉にはならなかった。リゼットも、それ以上は聞かなかった。
朝が早かった。
馬車の列が城門の前に揃う頃、空はまだ青白かった。見送りの列は長く、城門から広場まで続いている。旗を持つ者、花を投げる者。竜殺しの英雄が国を旅立つのだから、それなりの人出になるのは当然だ。
リゼットは馬上から見下ろした。見知った顔がいくつかある。世話になった厩番、剣の稽古をつけた下士官の一人、市場でよく会った菓子売りの老婦人。彼らの顔には本物の惜別があった。それだけは、政治的な思惑とは無関係だとわかった。
ガイゼルが馬を寄せてきた。
「体に気をつけろ」
「はい」
「ヴァルディスのセレネ殿下は、手強い相手だ。油断するな」
「了解しています」
「それと」
ガイゼルは少し間を置いた。馬が石畳を踏む音が、広場の人の声の中に紛れる。
「おまえの力が必要だ、リゼット。アルヴェインのために」
その言葉を、リゼットはどう受け取ればいいかわからなかった。愛情だろうか。それとも確認だろうか。おそらくどちらも正しい。ガイゼルはリゼットを妹として案じている。同時に、妹の戦力を国家のために使うことも正しいと信じている。どちらかが嘘だとは思えない。それがより複雑な痛みになった。
「……わかっています、兄上」
出立の号令がかかった。馬が動き出す。城門をくぐる瞬間、リゼットは一度だけ後ろを見た。
ガイゼルがまだそこにいた。穏やかな顔で。愛情と政治が綺麗に同居した、王太子の顔で。
リゼットは前を向いた。
旅路は三日だった。
二日目の夜営の頃、フィグがリゼットの膝の上で唐突に言った。
「最近、ぬしの気が薄い」
「疲れているだけだ」
「疲れとは違う。竜を討った後から、こういう波がある。妾には分かる」
リゼットは返事をしなかった。焚火の炎が揺れている。フィグの目が炎を映して、ふだんより真剣な色をしていた。
「フィグ」
「なんじゃ」
「なんでもない」
なんでもない、ではなかった。竜を討った後から体の奥に時折焼けるような感覚があることは、リゼット自身も知っていた。剣を振るう時の切れ味が増した代わりに、何か別のものが削れていくような感覚。それが何を意味するのか、まだ深く考えたくなかった。
フィグはしばらくじっとリゼットを見ていたが、やがて何も言わずに丸くなった。
翌朝も、その話は出なかった。
ヴァルディス公国の国境を越えた瞬間、空気が変わった、とリゼットは感じた。気のせいかもしれない。ただ、木の種類が少し違う。森の色が濃い。道の石の組み方がアルヴェインより細かい。そういった小さな違いが積み重なって、異国に来たという実感を作っていた。
案内役の騎士が、都市への到着は夕刻になると告げた。
都市が見えてきたのは、太陽が西に傾きかけた頃だった。ヴァルディスの首都クラウゼンは城壁が高く、石の色が灰白色で、アルヴェインの金色がかった城とは印象が違う。魔術の都と呼ばれるだけあって、城壁に沿って細い魔力の灯が点々と続いているのが、夕暮れの中に浮かんで見えた。
城門の前に、出迎えの列があった。
整然とした護衛の騎士たちの中央、馬車の脇に立っているのが魔女姫だと、リゼットはすぐにわかった。
黒髪の、月光みたいに白い肌の女だった。二十過ぎのリゼットより年上に見える。体は細く、風が吹けば揺れそうなほど儚げなのに、立ち姿には乱れがなかった。
灰紫の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
遠い距離で視線が合った瞬間、リゼットは何かが背筋を撫でる感覚を覚えた。獲物を見る目、という言葉が脳裏をよぎった。
違う、と思い直す。そんなはずがない。
馬を下り、礼を取った。
「アルヴェイン王国第一王女、リゼット・アルヴェインです。此度の来訪、謹んで御礼申し上げます」
魔女姫は一歩前に出た。歩みは静かで、足音が聞こえない。
「ヴァルディス公爵家のセレネ・ヴァルディスです。ようこそ、リゼット」
呼び捨てだ、とリゼットは思ったが口には出さなかった。
「わたくしの国へ、よくおいでくださいました」
セレネは微笑んだ。それはひどく優雅な微笑みで、病弱そうな顔に不思議なほど似合っていた。
「ここでは、あなたを大事にいたします」
その言葉が、城壁の魔力の灯の下で静かに響いた。
大事にする。それは歓迎の言葉のはずだ。しかしリゼットの胸の中で、何かが微かに緊張した。慣れていないわけではない。歓迎の言葉を受けることは多い。英雄を迎える言葉は型が決まっている。
だが今の言葉は型ではなかった。
型ではない言葉が持つ重さが、大事に、という文字の中にあった。計られたような、しかし嘘でもないような、そういう重さ。
フィグが耳元でかすかに鼻を鳴らした。警戒の音だとリゼットにはわかった。
「……ありがとうございます、セレネ殿下」
言葉を返しながら、リゼットは気づいていた。
大事にする、と言う相手の笑みが、なぜか檻の鍵に見えた。




