買い物
扉が叩かれる。
「お嬢様、公爵様よりお手紙にございます」
差し出された封は他とは違った。飾りは最小限。だが、紙質と紋章だけで分かる。
(……家)
受け取る。わずかに重い。開く。
『数日後、晩餐を開く。出席せよ。』
短い。理由も、説明もない。
(……カイン)
紙を閉じる。断れない。最初から、選択肢がない。
「ご返事は」
「不要よ」
静かに置く。決まっている。
(……行くしかない)
「お召し物のご準備を」侍女の声に視線を上げる。晩餐、公爵家、集まる人間。適当では済まない。
(……必要)
「外に出るわ」
一瞬の間。
「仕立てに?」
「ええ」
侍女が小さく頷く。
「すぐにご用意いたします」
馬車が街へ入る。前とは違う。理由がある外出、目的がある行動。
(……違う)
窓の外を見る。人の流れ、音、視線。もう逸らさない。
店に入る。落ち着いた空間。選ばれた客だけが入る場所。布が並び、色が並ぶ。
「本日はどのようなご要望で」
「晩餐用に」
短く答える。視線を走らせる。
(選ぶ)
前は、用意されたものを受け入れていた。
でも——
「それを」
一着を指す。重みのあるシルクで仕立てられた、装飾を抑えた深い紺のドレス。光を吸うような色合いで、輪郭だけが静かに際立つ。
侍女がわずかに目を見開く。
「……かしこまりました」
合わせられていく。余計な飾りは足されない。ただ形だけが整えられていく。
鏡に映る。
黒に近い髪が、重く背に落ちる。光を返さないその色が、ドレスと溶け合う。
淡い灰の瞳は揺れず、表情はほとんど動かない。
整いすぎた顔。隙のない輪郭。
笑わなければ、冷たいだけの顔。
それでも——
目は逸らさない。
(……これでいい)
広がらない線。無駄のない影。立っているだけで、輪郭がはっきりとする。
(消えない)
わずかに息を吐く。
(……悪くない)
店を出る。そのとき、外の空気が揺れる。ざわめき、人の流れが乱れる。
「——待て!」鋭い声。誰かが走り、追う影。
(……事件)
足を止める。逃げない。ただ見る。
次の瞬間——一人の男が前に出る。無駄がない。速い。一歩で距離を詰める。
(……この間合い)
手が伸びる。終わる。あまりにも、あっさりと。
逃げていた男が地面に押さえつけられる。抵抗すら許されない。音が消える。
(……同じ)
喉の奥が、わずかに乾く。
男——騎士が立ち上がる。剣は抜かれていない。それでも分かる。
(抜く必要がない)
周囲が自然と道を空ける。そのまま通り過ぎる。
目が合う。
逸らさない。
ほんの一瞬。
(……この人は)
言葉が続かない。知っているはずのない感覚が、形だけ浮かぶ。
一歩。それだけで、届く距離。
(——終わる)
胸の奥が、わずかに軋む。それでも——逸らさない。
騎士の視線が、わずかに止まる。測るように、評価するように。
(……何)
次の瞬間、外れる。歩き去る。
「……今の方は」侍女が小さく声を落とす。
「王国騎士団の……ヴァルクス様かと」
(ヴァルクス)
名前だけが残る。遠ざかる背中を見る。
(……同じなのに)
違う。何も起きていない。ただ、それだけなのに。
指先が、わずかに冷たい。ゆっくりと握る。
(……まだ)
息を吐く。歩き出す。




