70話:書くことがない
アーレン領に戻った。
馬車を降りた時、セバスが門の前に立っていた。いつも通りの佇まい。白い髪。深い一礼。
「おかえりなさいませ、アイリス様」
「ただいま。留守の間は」
「問題ございません。修繕はルッツが進めております。トビアスの加工場も本日から稼働を再開いたしました」
領地は動いている。壊れた門扉は新しい蝶番に替わっていた。前庭の石畳はまだ焦げ跡が残っているが、脇に新しい石が積んである。直す準備ができている。
グレンが馬車の荷を降ろしている。セバスに何か言われて頷いた。荷を持って館に入っていった。
以前なら荷を下ろす時に「先に書類の箱を入れます」と声をかけてきた。私が執務室に行きたがることを知っていたから。今は黙って順番に降ろしている。効率は同じだ。ただ、私がどうしたいかという計算が入っていない。
「セバス、信用組合の申請書類を仕上げるわ。執務室を使う」
「かしこまりました。お茶をお持ちします」
***
仕事に戻った。
信用組合の最終調整。カイルへの正式な申請書。加工場の稼働再開に伴う帳簿の更新。修繕費の計上。捕虜の拘束にかかる費用の算出。
やることはあった。
朝起きて、執務室に行って、帳簿を開いて、数字を書く。セバスが紅茶を持ってくる。少し渋い。グレンが淹れるのとは違う味。毎朝同じ味。
グレンは朝の報告に来る。
「異常ありません」
頷く。グレンが出ていく。巡回。昼に戻ってくる。
「午前の巡回、異常ありません。南側の柵の修繕は完了しています」
それだけ。以前なら「ルッツが蝶番の形を工夫していました」とか、聞かれていない情報がついてきた。あの人は報告が下手だった。下手というか、余計なことを足す癖があった。私はそれを報告だと思って聞いていた。
今の報告には余白がない。聞かれたことだけ。正確で、簡潔で、必要十分。
「ありがとう」
「他に指示はありますか」
「今はないわ」
グレンが一礼して出ていく。足音が均一だった。
夕方、執務室の灯りを点けようとして手が届かなかった。棚の上の燭台。いつもはグレンが先に点けていた。私が帳簿に集中している間に、いつの間にか明るくなっていた。聞いたことがある。「気づいたので」と言った。それだけだった。
今は自分で点ける。椅子を持ってきて、背伸びして、火を移す。誰も何も言わない。
何日もこれが続いた。毎日同じだった。何一つ間違っていない。
***
十日が経った頃、カイルから書簡が届いた。
『宮廷への報告が受理されました。外交筋を通じて周辺国への通達を開始しています。帝国トレヴィーゾとの既存の取引条件について、複数の国が見直しを表明しています。通商院への正式な抗議も近日中に——』
長い書簡だった。丁寧に、一つずつ、進捗が書いてある。カイルらしかった。
最後にこう書いてあった。
『信用組合の設立が正式に承認されました。王国法として半月以内に全域適用されます。アイリス様のお力によるところが大きく、監査院としても深く感謝申し上げます。どうかお体をお大事になさってください。』
書簡を畳んだ。
終わった。
帝国の搾取モデルは王国法で止まった。信用組合は動き始める。証拠は各国に渡った。帝国は孤立する。あの男の作った仕組みはもう機能しない。
帳簿で始まった戦いが、帳簿で終わった。
窓の外を見た。
午後の光の中で、領地が光っていた。ルッツが整備した屋根の列がきれいに揃っている。加工場から煙が上がっている。畑の向こうで住民が荷車を押している。子供の声が聞こえる。襲撃の傷跡は消えかけている。この領地はもう大丈夫だ。
帳簿は合っている。信用組合が動き出す。搾取は止まる。人が正しく報われる世界を作りたかった。作れた。
全部、欲しかったものは手に入った。
机の上を見た。申請書類の控え。信用組合の運用規則。修繕費の帳簿。全部終わっている。清書も済んだ。確認もした。数字は合っている。
新しく書くことがなかった。
帳簿を開いた。頁をめくった。数字が並んでいる。全部知っている数字だ。直すところがない。足すところもない。
閉じた。
襲撃前の夕方にも帳簿を閉じた。あの時はグレンに「明日でいいのでは」と言われて、自分で閉じた。紅茶が美味しかった。
今は書くことがないから閉じた。誰にも言われていない。紅茶は机にある。セバスが淹れた紅茶。温かい。それだけ。
何もすることがない。
追放されてからずっと走っていた。帳簿を読んで、不正を暴いて、産業を作って、人を迎えて、敵を詰ませて。次から次へ、やることがあった。やることがある間は大丈夫だった。
全部終わった。
廊下に足音がした。グレンの足音だ。聞けば分かる。均一で、迷いがなくて。
(——グレン)
名前が喉まで出かけた。飲み込んだ。
呼んでどうする。呼べば来る。「何か指示はありますか」と聞く。指示を出せば動く。指示がなければ戻る。
それは分かっている。分かっていて、呼びたかった。名前を呼んだら、一瞬でも前みたいな顔をしないかと。耳が赤くならないかと。
足音が通り過ぎていく。
呼ばなかった。呼べなかった。
呼んで「かしこまりました」が返ってくるのが怖かった。私がこうしたのに、あの人は絶対に私を責めない。責める機能がもうない。完璧に従うことで、あの人は私が壊したものの大きさを突きつけてくる。
窓の外を見た。屋根の列。加工場の煙。子供の声。何もかも正しく回っている世界の中で、私の隣だけが壊れている。私が壊した。
数字ならどこが狂っているか分かる。帳簿なら赤字の行が教えてくれる。
これは帳簿に載らない。
***
夜。
執務室に座っている。帳簿は閉じたままだ。開く理由がない。
ペンが机の上にある。握らなくていい。今日は何も書かなかった。
前世も、最後はそうだった。全部片付けて、やることがなくなって、机の上に何もなくなった夜があった。あの時は誰もいなかった。
今は違う。セバスがいる。ルッツがいる。トビアスがいる。領民がいる。グレンがいる。全部あるのに。
セバスが夕食の片づけを終えて、最後のお茶を持ってきた。
「アイリス様。明日の予定はいかがいたしましょう」
「……特にないわ」
セバスが少しだけ間を置いた。
「では、焼き菓子でも作りましょうか。在庫が切れておりますので」
この人は踏み込まない。ただ、そばにいる。やることがなければ作る。
「……うん。お願い」
セバスが一礼して出ていった。
一人になった。
窓の外が暗い。月が出ている。静かな夜だ。あの夜とは違う。松明の光はない。角笛も鳴らない。
グレンはどこにいるだろう。巡回を終えて、自室にいるはずだ。明日の朝、またこの部屋に来て、「異常ありません」と言う。私は頷く。それだけだ。
そばにいる。同じ屋根の下にいる。朝になれば顔を見られる。声を聞ける。
それだけでいいと言い聞かせている。毎晩言い聞かせている。
でも毎晩、少しずつ嘘が下手になっている。
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