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【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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71話:幕間 ペンを置く

帝国トレヴィーゾ、通商院。


朝の報告の時間にベッカーが来た。一礼して、報告書を机に置いた。いつもと同じ動作だった。だが、報告書を置く手が一瞬止まった。


「ディートリヒの件です」


カールはペンを置いた。


「結果を」


「失敗です。全員が捕縛されました。ディートリヒを含む二十二名。領主は無事です」


沈黙。


「護衛の元近衛に制圧されたと」


「はい。単独で全員を無力化したようです」


3,100に武力2,000を乗せた男だ。訓練された兵を二十人つけた。辺境の小領地を潰すには十分すぎた。それが単独で制圧された。あの護衛は3,100を超えている。この世界でそんな人間をカールは見たことがない。


頭の隅の引っかかりが、少し大きくなった。


「所持品は」


「全て押収されています」


「全て」


「はい」


両替の控え。宿の領収書。馬の借り上げ証。通商院直轄の両替商の印が押された紙。


あの令嬢は帳簿を読める。金の流れを辿れる人間だ。通商院に届くまで、時間はかからない。


「下がれ」


「まだ続きが」


カールの目がベッカーを見た。ベッカーは口を閉じた。一礼して出ていった。


一人になった。


計算した。


令嬢は証拠を監査院に持ち込む。監査院は宮廷に報告する。宮廷から外交筋を通じて各国に通達が出る。帝国の通商院が他国の領主を暗殺しようとした。証拠つきで。


融資ネットワークは七つの国と地域に張ってある。王国は法で塞がれた。だが残り六つは生きている。王国法を骨抜きにしながら、残りの六つで回収を続ける。それが次の計画だった。


まだ六つある。


***


三日後。ベッカーが来た。


「各国の外交筋に通達が出ました。帝国トレヴィーゾの通商院が王国領への武力襲撃を指示した、という内容です」


想定の範囲内だ。通達が出ること自体は計算に入っている。


「影響は」


「サルデーニャ公国が帝国との融資契約の見直しを表明しています」


一つ。


「他には」


「バイエル連邦。取引条件の全面精査を開始したと」


二つ。


「まだあります。リグーリア商業共和国が——」


「分かった」


三つ、四つ。連鎖だ。一国が見直しを表明すれば隣国も追随する。王国法の時と同じ構造。あの令嬢が法を通した時に見た景色が、もう一度起きている。


ベッカーが出ていった。


机の上に報告書を広げた。ペンを取った。


まだ手がある。


迂回融資。帝国を経由せず、第三国の商人を使って資金を回す。前の世界ではよくやった。規制を潜り抜けるには経由地を増やせばいい。コストは上がるが、ネットワーク自体は維持できる。


ペンが止まった。


前の世界にはインフラがあった。ダミー会社、暗号資産、多重口座。この世界にはない。両替商と帳簿と硬貨。全てに印がつく。全てに紙が残る。経由地を増やせば、印が増えるだけだ。あの令嬢のような人間がいる世界で、紙の痕跡を消す方法をカールは持っていない。


次。


内部から崩す。新しい駒を各国に送り込む。だが暗殺未遂が知れた状態で帝国から人が来れば、それだけで警戒される。信用が毀損されている。信用は数字と違って計算で取り戻せない。


次。


証拠を否定する。偽造だと主張する。だが両替商の帳簿は通商院の管轄だ。自分の管轄の帳簿を「偽造だ」と言えば、通商院の管理体制そのものが疑われる。どちらに転んでも傷口が広がる。


次。


次がない。


ペンを握ったまま、数字のない紙を見ていた。


***


さらに四日後。


ベッカーの報告は短くなっていた。


「サルデーニャ、バイエル、リグーリア、ベルモント、ナヴァール。五カ国が融資停止を正式に通告しています。残るフリースラント公国は——」


「通告済みか」


「……昨夜、入りました」


六つ。全部だ。


「信用組合の法案が王国で正式に施行されました。他国にも導入を打診する動きがあるようです」


仕組みを作った人間を消せば、仕組みは広がらない。そう判断して刺客を送った。結果、仕組みを作った人間が証拠を手に入れた。仕組みが広がる速度が上がった。


自分がやったことだ。


ベッカーが一礼して出ていこうとした。


「ベッカー」


「はい」


「明日の報告は」


ベッカーが一瞬だけ間を置いた。


「……お伝えすべきことが入り次第、参ります」


入り次第。毎朝決まった時間に来ていた男が、入り次第と言った。報告する内容がなくなりつつある。


扉が閉まった。


***


翌日、ベッカーは来なかった。


午前の報告の時間が過ぎた。誰も来ない。廊下は静かだった。


昼になっても来ない。


夕方、扉が開いた。ベッカーではなかった。顔を知らない事務官が、封書を一通、机に置いて出ていった。


帝国宰相府からの通達。


開いた。


『通商院長官カール・ライヒナーの職務を即日停止する。各国との通商条件に関する不正な運用について、通商院として関与を否定する。なお、本件は長官個人の判断によるものであり、帝国の方針とは一切関係がない——』


最後まで読んだ。


切り捨てだった。カールが七つの国に対してやったことを、帝国がカールにやっている。問題のある末端を切って本体を守る。カールがノイマン商会にやったこと。カールがヘルマンにやったこと。同じ構造だ。


通達を机に置いた。


執務室を見回した。報告書の棚。地図。各国の帳簿の写し。三年かけて積み上げた紙。


全部、意味がなくなっていた。


机の前に座った。ペンがある。紙がある。


書くことがなかった。


報告は来ない。指示を出す相手がいない。命令系統の上にも下にも、もう繋がる線がない。前の世界でも——


前の世界。


あの時はどうした。あの時は逃げられた。データを消して、口座を移して、名前を変えて。デジタルの世界には逃げ道があった。この世界には帳簿しかない。帳簿は消えない。紙は残る。印は残る。


前の世界なら逃げられた。この世界では——


足音がした。


廊下から。不均一な足音。ベッカーのものではなかった。


扉が開いた。


男が立っていた。背が低い。目が——目が虚ろだった。見覚えがある顔。あった。ヘルマンだ。


ヘルマンは王都に置いていた現場担当だ。融資先を回って管理していた。1,350だった。知力200を足してやっていた。「公正さ」を進言しに来たから、下げた。300にした。「好きにしろ」と言った。


手に何か持っている。鉄。短い刃物。どこから持ち込んだ。


(300のはずだ)


カールの目が数字を見た。


【ヘルマン】

価値:300


300。自分がそう作った。判断力を奪った。合理的な思考を奪った。リスクの計算ができない。結果の予測ができない。脅威にならない数字。


脅威にならないはずだ。


ヘルマンが歩いてきた。足が定まっていない。目が虚ろで、焦点が合っていなくて。300の人間の動き方だ。


「ヘルマン。何をしに来た」


声が出た。平静だった。


ヘルマンは答えなかった。答える知力がもうない。口が動いたが言葉にならなかった。目だけがこちらを見ていた。虚ろなのに、一点だけ定まっている。


カールを見ていた。


(300だ。300しかない。この男には何も——)


数字が動いた。ヘルマンの腕が動いた。遅かった。300の動きだ。避けられる。


——はずだった。


カールの体も動かなかった。前の世界では体を動かす必要がなかった。キーボードとマウスと画面。この世界でも同じだった。駒を動かして、数字を操って、自分の体を動かすことは一度もなかった。


刃が入った。


痛みがあった。机に手をついた。椅子から滑り落ちた。


床の上から、ヘルマンを見上げた。


【ヘルマン】

価値:300


まだ見えている。数字が見えている。最後に見えているものが、数字だった。


300。自分が作った数字。自分が捨てた駒。


(——300の、はず、だ)


数字が揺れた。暗くなった。

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