69話:正しい距離
セバスの紅茶を飲み終えた頃、ペンを握り直した。まだ震えている。でも握れる。
やるべきことがある。指揮官が目を覚ました。あの男が知っていることを、引き出さなければならない。
***
捕虜は喋らなかった。
地下の倉庫を臨時の尋問室にした。あの男——潜在を超えた現在価値を持つ男が椅子に縛られている。顔に殴られた跡がある。グレンが気絶させた時のものだ。
「誰の指示で来た」
答えない。
「目的は何。この領地を狙った理由は」
目を合わせない。口を引き結んでいる。
「あなたたちは普通の盗賊じゃない。全員が訓練された兵士で、装備も統制も揃っている。誰かに送り込まれた」
男の目が一瞬だけ動いた。でも口は開かない。
当然か。この男はただの盗賊じゃない。訓練を受けて、命令系統の中にいる人間だ。領主の尋問程度で口を割るわけがない。
(……どうする)
拷問、という言葉が頭をよぎった。すぐに振り払った。私にはできない。やり方も知らない。それに——
「自分が対応します」
グレンの声だった。背後に立っていた。いつからいたのか分からなかった。
振り向いた。灰色の瞳がこちらを見ている。感情がない。提案ではなかった。状況を判断して、最適な手段を申し出ている。それだけの顔だった。
「……対応って」
「この男は通常の尋問では喋りません。別の手段が要ります」
別の手段。
グレンの目が男を見ている。値踏みではない。作業の手順を組み立てている目だった。どこを、どうすれば、最短で口を開くか。
あの夜、能力が作り変えたもの。戦闘だけじゃない。こういうことも含まれている。
「……お願い」
それだけ言って、振り返った。
壁際に寄った。背を向けた。見ないでいいように。
グレンの足音が男に近づいた。
何か言った。低い声。聞き取れなかった。聞き取りたくなかった。
音がした。
鈍い音。短い悲鳴。何かが軋む音。椅子が石の床を擦った。
目を閉じた。
頭が白くなった。紅茶のことを考えた。昨日の冷めた紅茶。セバスが淹れてくれた紅茶。温かかった。少し渋かった。
音が続いている。遠い。近いのに遠い。
「喋りました」
グレンの声だった。平らだった。
目を開けた。振り向いた。
男がうなだれている。呼吸が荒い。グレンが男の横に立っている。手に血はついていなかった。でも男の顔が歪んでいた。
「概要を報告します。指示者は帝国トレヴィーゾ、通商院のカール・ライヒナー長官。目的はアーレン領の交易機能の破壊と、領主の排除。兵の強化は帝国側の技術で、詳細は末端には知らされていない」
淡々としていた。正確で、簡潔で、必要な情報だけを抽出している。
カール・ライヒナー。名前が出た。帝国トレヴィーゾ。通商院。あの帳簿の向こうにいた影に、名前がついた。
「……ありがとう。もう、いいわ」
「他に聞き出すことはありますか」
「いい。十分よ」
グレンが頷いた。一礼して、男の拘束を確認し、部屋を出ていった。
一人になった。
自白だけでは足りない。人の言葉は裏返る。裏を取る。
捕虜の所持品を調べた。革袋に帝国トレヴィーゾの硬貨。宿の領収書、馬の借り上げ証。そして通商院直轄の両替商の印が押された両替控え。日付は二十日前。帝国金貨二百枚を王国金貨に両替。
支出を足した。宿、馬、食料、装備。二百枚がきれいに分解される。使途不明金なし。この襲撃のためだけに組まれた予算だ。金の出所が、自白と一致する。
言葉は嘘をつく。金は嘘をつかない。
紙を束ねた。これを持って、行かなければならない。
***
「王都に行くわ。カイルに直接渡したい」
セバスに伝えたのは翌朝だった。
「帝国の通商院が関与している以上、手紙では危険よ。途中で握り潰される可能性がある」
「かしこまりました。準備いたします」
「信用組合の草案も持っていく。清書は終わってる」
セバスが少し間を置いた。
「グレンを同行されますか」
当然だ。護衛がいなければ王都までの道中が危ない。襲撃があったばかりだ。
「……ええ」
「かしこまりました」
セバスの目が何か言いたそうだった。でも何も言わなかった。
***
馬車に揺られている。
窓の外に麦畑が流れている。王都に近づくにつれて畑が増える。豊かな土地。追い出された場所。
グレンが向かいの席に座っている。黙って窓の外を見ていた。
前に来た時と同じ配置。同じ馬車。同じ道。
(話しかけなきゃ)
何でもいい。何か。
「馬車の揺れ、この道いつもひどいのよね。前に来た時も酔いそうになって」
「はい」
「あの時はあなたが窓を開けてくれたのよね。風を入れた方がいいって」
「そうでしたか」
覚えていない。覚えていないのか、覚えていても意味を見出していないのか。どちらでも同じだ。
窓の外を見た。麦畑が続いている。風が吹いている。窓は閉まったままだった。
「……王都の空気、今はどう感じてる?」
「特にありません」
会話が終わった。
前に同じ道を通った時は、グレンは自分から少しだけ話した。口数の少ない人なのに、珍しく二言三言続いた。
窓の外を見た。同じ景色が流れている。何も変わっていないはずなのに、全部が違って見える。
***
王都に着いた。
馬車を降りて、監査院に向かう。石畳の通りを歩く。人が多い。活気がある。辺境とは空気が違う。
グレンが前を歩いている。
一歩、二歩先。
前は横だった。半歩だけ横。並んで歩くには少し遠くて、護衛の距離にしては少し近い。ちょうどよかったあの距離。
今は前。護衛の位置。正しい距離。何も間違っていない。
何も間違っていないのに、その背中が遠い。
***
カイルの執務室は相変わらず紙の山だった。
「アイリス様。草案をお持ちいただけたのですね」
「ええ。ただ、それだけではなくて。手紙では済まない件があります」
カイルの表情が変わった。
グレンが部屋の隅に立った。壁際。カイルがちらりとグレンを見て、私に視線を戻した。
紙束を渡した。両替控え、領収書、捕虜の証言の概要。
「先日、アーレン領が襲撃を受けました。二十人以上の武装集団です。盗賊を装っていましたが、全員が訓練された兵士だった。指揮官を捕らえて尋問した結果、帝国トレヴィーゾの通商院、カール・ライヒナー長官の指示だと判明しています。所持品から金の流れも辿れました」
カイルが紙を丁寧に読んでいる。両替控えの通商院の印で手が止まった。
「……確かですか」
「自白と金の流れが一致しています。通商院直轄の両替商を通じた資金が、そのまま襲撃の経費に分解できる」
カイルが椅子に深く座り直した。眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「カール・ライヒナー。帝国の通商院長官……」
「王国法を通したことへの報復だと思います。搾取の仕組みを設計した人間が、仕組みの意味を理解できる人間を消しに来た」
カイルが顔を上げた。一瞬、こちらを見た。その目は前回の会合の後に見せた、手応えの目とは違っていた。
「……おっしゃる通りです。監査院として然るべき手続きを踏みます。まずは宮廷への報告、それから外交筋への通達……」
カイルがペンを取って、手順を書き始めた。速い。この人は動くと決めたら速い。
「それから、信用組合の草案も持ってきました。清書が終わっています」
紙束を渡した。カイルが目を通した。ページをめくる速度が落ちた。読み込んでいる。
「……これは見事ですね。帳簿設計がしっかりしている。運用に耐えうる精度だと思います」
「現地で最終調整してから正式に申請します」
「承知しました。監査院側の受け入れ準備を進めておきます」
カイルが草案を丁寧に束ね直した。それからふと、部屋の隅を見た。
グレンが壁際に立っている。微動だにしない。
「……アイリス様」
「何ですか」
「いえ、その——そちらの護衛の方ですが。以前お会いした時は、もう少し……」
カイルが言葉を探していた。何と言えばいいか分からない、という顔。
「もう少し、何ですか」
「……いえ、失礼しました。気のせいかもしれません」
カイルは引いた。でも目がまだグレンを見ていた。
(気のせいじゃない)
知ってる。分かってる。あなたが見ているものは正しい。あの人は変わった。変えたのは私。
これ以上、誰かにその事実を言葉にされたら、立っていられなくなる気がした。
「カイル」
「はい」
「草案の件、よろしくお願いします」
話を切った。カイルは頷いた。何か察したのかもしれない。追わなかった。
***
監査院を出た。
夕方の王都。石畳が夕日で赤く染まっている。人通りが減り始めている。
グレンが前を歩いている。一歩、二歩先。
「今日は宿を取るわ。明日の朝に出る」
「かしこまりました。宿の手配をします」
「ありがとう」
グレンが先に歩き出した。足取りが正確だった。迷いがない。王都の地理を覚えている。元近衛だから。
その背中を見た。
まっすぐで、揺れがなくて。あの夜と同じだった。冷たい背中。
(今は動かないだけ)
そう思っている。思い続けている。思い続けなければ、次の一歩が出ない。
グレンの背中を追いかけた。正しい距離の、さらに後ろ。
夕日が長い影を作っている。二つの影が石畳の上を歩いている。並んではいない。前と、後ろ。
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