68話:差分
翌朝、目が覚めた。
眠れたのか分からない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。窓の外が白い。いつもの朝の光。
執務室に降りた。机の上に、昨夜の帳簿がそのまま残っている。信用組合の草案。清書前の紙の束。紅茶のカップが一つ、端に置いてある。冷めきっている。あの紅茶だ。
グレンが入ってきた。
壁際に立った。
「異常ありません」
声が平らだった。抑揚がない。朝の報告。それだけ。
「……ありがとう」
グレンは頷いた。壁際から動かない。
紅茶が出てこなかった。
いつもなら、報告の後にグレンが淹れる。何も言わずに。頼んでもいないのに。温度がちょうどよくて、少し濃いめの。
出てこない。
(……まだ朝だから。昨夜のことがあったから。疲れているのかもしれない)
自分に言い聞かせた。机に向かった。草案の紙を広げた。清書を始めようとした。ペンを取った。
「グレン、昨夜の被害の概要をまとめてほしいの。建物の損壊と、住民の負傷者の——」
「かしこまりました」
返事が速かった。私が言い終わる前に返事が来た。言葉を最後まで聞いていない。指示の要旨だけ取って、処理した。
グレンが出ていった。足音が一定だった。
一人になった。
机の上の冷めた紅茶を見た。捨てなければ。でも手が伸びなかった。
***
昼前にグレンが戻ってきた。被害の概要を紙にまとめてある。字が整っている。いつもと同じ字。正確で、読みやすい。
「建物の損壊は軽微です。前庭の石畳と、門扉の蝶番。住民の負傷者は三名。いずれも軽傷で、トビアスが処置済みです」
「捕虜は」
「二十二名を拘束。うち一名が重傷、二名が意識不明。残りは軽傷です。指揮官と思われる男は意識がありません」
「分かった。ありがとう」
「他に指示はありますか」
指示。
以前なら「指示」とは言わなかった。「何かお手伝いできることはありますか」だった。あるいは聞かずに、先にやっていた。紅茶を淹れるように。
「……今はないわ」
「では、巡回に戻ります」
グレンが一礼して出ていった。
正確だった。簡潔だった。何一つ間違っていない。護衛として完璧に機能している。
なのに。
***
午後。一人で草案の清書をしていた。
集中できない。同じ行を三回読んだ。字が頭に入ってこない。
昨夜のことを考えていた。あの瞬間。叫んだ。「この状況を打破できる力を、グレンに」と。
あの後、何が起きた。
体の中から何かが流れ出た。グレンが立ち上がった。姿勢が変わった。剣が男の剣を折った。全員を制圧した。
——そして、「護衛ですから」。
(能力)
私があの時使ったのは、移転。対象の価値を再配分する能力。ルッツには企画力を100振った。王子には頭脳を180。どちらも冷静に、項目を指定して、限定的に使った。
昨夜は何も指定していない。
「この状況を打破できる力を」とだけ。
何をどれだけ振ったのか分かっていない。
ペンを置いた。
鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:9,999
潜在価値:9,999
制圧:9,699
息が止まった。
現在価値は9,999。変わっていない。潜在も同じ。
でも、項目が出ている。制圧。9,699。
「この状況を打破できる力」を能力が解釈した結果。武力ではない。制圧。状況を支配下に置く力。戦闘も、捕虜の管理も、全部ここに入っている。
9,999から9,699。
引いた。勝手に指が動いた。帳簿の癖。数字を見れば、引く。
残り、300。
9,999のうち、9,699が制圧に振られている。残っているのは300。
あの圧倒的な強さの正体。二十人以上を一人で沈めた力。息一つ乱れなかった理由。
——そして、紅茶を淹れなくなった理由。
優しさも、気遣いも、あの穏やかな声も、帳簿の注釈を書いてくれた手も、「明日でいいのでは」と言ってくれた人も。全部、9,699の中に溶けて、制圧に変わった。
(戻せる)
移転は再配分。配分を変えたなら、もう一度変えればいい。
グレンに意識を向けた。制圧の9,699を戻す。元の配分に。
念じた。
何も起きなかった。
もう一度。もっと強く。9,699を解除する。元に戻す。この人を、元の——
鑑定した。制圧:9,699。
変わらない。
もう一度。
同じだった。
もう一度。
ペンを取った。何かを書こうとした。数字を。計算を。何かの手がかりを。移転の仕組みを整理すれば、糸口が見つかるかもしれない。前世でもそうだった。数字を並べれば答えが出る。必ず出る。
紙にペン先を置いた。字が歪んだ。線がまっすぐ引けなかった。
手が震えていた。
(どうして)
もう一度鑑定した。9,699。
もう一度。9,699。
もう一度。
変わらない。何度見ても。変わらない。
ペンが指から落ちた。机の上で転がって、止まった。
(またこれだ)
知っている。この感覚を、知っている。数字が動かなくて、何もできなくて、ただ見ていることしかできない。
あの時と同じだ。
でも違う。あの時は、見なかった。今回は、自分でやった。
椅子に座ったまま、動けなかった。
窓の外に光が差している。昼の光。領地は動いている。住民の声が聞こえる。昨夜の後片付けをしている。壊れた門扉を直している。
世界は回っている。私だけが止まっている。
***
ノックの音がした。
「アイリス様」
セバスの声だった。
「入って」
自分の声が思ったより普通だった。
セバスが入ってきた。いつも通りの佇まい。でも目が少しだけこちらを見ている。見ているだけで、何も聞かない。
「昨夜の被害報告の続きでございます。南側の柵が一部倒壊しており、修繕が必要です。住民の避難は全員完了しておりますが、第二加工場の夜間作業は本日は停止しております。トビアスが住民の手当てを継続中です」
事務的に聞いた。頷いた。
「食料の在庫は問題ございません。ルッツが柵の修繕に取りかかると申しております。これらは私の方で進めておきます」
セバスにできることは、セバスがやる。そう言っている。
「それから」
少し間があった。
「捕虜の中で、指揮官と思しき男が先ほど意識を取り戻したと、グレンから報告がありました。どう扱うか、ご指示をいただきたく」
セバスの目がこちらを見ている。聞かない。踏み込まない。ただ、判断が要ることだけを持ってきた。
捕虜。昨夜、「殺さないで」と叫んで残した男。あの男の鑑定値は異常だった。潜在を超えた現在価値。外から注ぎ込まれた制圧。誰かがこの集団を作った。その「誰か」に繋がる情報を、あの男は持っている。
(やるべきことがある)
頭がそう言った。胸はまだ冷たい。でも頭は動く。
「……セバス」
「はい」
「お茶を、もらえる?」
セバスが少しだけ目を細めた。何も言わなかった。一礼して出ていった。
一人になった。
机の上にペンが転がっている。さっき落としたまま。
拾った。
握った。まだ震えている。でも握れた。
今は動かないだけかもしれない。時間が経てば。何かきっかけがあれば。——そう思わなければ、このペンを握れなかった。
草案の紙を引き寄せた。信用組合の帳簿設計。昨夜の夕方、グレンと一緒に仕上げた設計。あの人が「明日でいいのでは」と言って、私が閉じた紙。
開いた。
まだ書けるか分からない。字がまっすぐ引けるか分からない。でもペンは手にある。紙はここにある。やるべきことがある。
セバスが紅茶を持ってきた。少し渋い。グレンが淹れるのとは違う味。
飲んだ。温かかった。それだけだった。
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