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【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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67話:お願い

グレンが出ていった。


扉が閉まった。足音が遠ざかる。走っている。あの人が走る音を、初めて聞いた。


窓に寄った。見るなと言われた。でも見なければ分からない。


松明の光が森の際から溢れている。一つや二つではない。列になっている。こちらに向かっている。


角笛がもう一度鳴った。今度は長く、一回。警告から切り替わった。全域通達。


(盗賊——?)


この辺りで盗賊が出たことはない。交易路が整備されてから人の目が増えた。小さな盗賊団なら近づかない。


松明を数えた。数えられなかった。二十以上はある。


悲鳴が聞こえた。


領境の方。見張りの声だった。短く切れた。


***


階段を駆け下りた。


玄関ホールにセバスがいた。寝間着の上に上着を引っかけている。顔色が変わっていた。この人のこんな顔を見たのは初めてだった。


「アイリス様、お戻りください」


「状況は」


「グレンが出ました。住民に館への退避を——」


外から金属音がした。剣の音。近い。館の前庭あたり。


セバスが私の肩を掴んだ。初めてだった。こんな力で触れられたことがない。


「お願いです。二階へ」


二階に上がった。窓から前庭が見えた。


グレンがいた。


三人を相手にしていた。松明の光の中で、黒い影が動いている。グレンの剣が一人の腕を斬り、返す刃で二人目の足を薙いだ。三人目が斬りかかってきた。グレンの体が沈んだ。一拍。剣先が跳ね上がって、三人目の手首を打った。剣が飛んだ。


強い。あの動きは覚えがある。元近衛。一対三で、一人も致命傷を負わせずに武器を落としている。


だがそれは前庭の三人だけの話だった。


館の周囲に、まだいる。松明の光が複数の方向から近づいている。館の裏手から回り込む影も見えた。


鑑定した。倒れた三人。620、580、540。


(高い)


普通の野盗は300から400だ。この三人はそれを超えている。訓練を受けた人間の数字。


周囲から別の集団が入ってきた。五人、六人。松明が複数の方向から近づいている。館の裏手にも影が回り込んでいる。


グレンが迎え撃った。一人を倒した。二人目を弾いた。三人目が斬りかかってきて、四人目が回り込む。一人を倒してもまた来る。グレンは強い。でもこの数は——


鑑定を続けた。押し寄せてくる松明を片端から。


600。520。650。610。570。


全員が500を超えている。盗賊じゃない。兵士だ。


松明を持たない男が一人、前庭の端にいた。動かない。グレンの戦いを眺めている。


鑑定した。


【名称不明】

現在価値:1,050

潜在価値:550

武力:500


息が止まった。潜在が550しかない。現在が潜在を超えている。武力500——外から乗せなければ出ない数字。


その奥に、もう一つ。


松明の列の向こうに、腕を組んで立っている影があった。鎧を着ている。こちらを見ている。


鑑定した。


【名称不明】

現在価値:3,100

潜在価値:1,200

武力:2,000


手が震えた。


3,100。武力2,000。潜在を遥かに超えた、あり得ない数字。さっきの幹部と同じだ。外から注ぎ込まれている。誰かが——この集団を作った。


その男が、動いた。


歩いていた。走りもしない。グレンが四人目を倒した瞬間に、その隙間を縫うように前庭に入ってきた。


グレンが振り向いた。構えた。


男が剣を抜いた。一振り。


音がしなかった。速すぎて音が遅れた。グレンが剣で受けた瞬間、グレンの体が後ろに飛んだ。受けたのではない。弾かれた。


石畳に足が削れる音がした。グレンが滑って止まった。構え直した。


男が歩いてくる。同じ速度で。急がない。


「お前が元近衛か」


声が低かった。響いた。


グレンが斬りかかった。速い。元近衛の全力。初めて見た。あの人が本気で剣を振る姿。


男が片手で受けた。


「——この程度か」


弾いた。グレンが体勢を崩した。男の追撃。グレンが辛うじて受けた。膝が折れかけた。


一合。二合。三合。


全て弾かれた。グレンの太刀筋が読まれているのではない。純粋な力の差だった。技術では補えない圧力。


グレンの腕から血が飛んだ。


浅い。致命傷ではない。だが斬られた。元近衛が、正面から。


「逃げて」


声が出た。自分の声だと気づくのに一瞬かかった。


グレンは振り向かなかった。構えを崩さなかった。男との間に、体を入れたままだった。


「アイリス様。逃げてください」


この人の声だった。血が腕を伝っている。構えは崩していない。でも膝が少し震えていた。


男が首を傾げた。グレンを見て、それから二階の窓——私を見た。


「領主か」


「——逃がすわけがないだろう」


剣を振り上げた。


グレンが叫んだ。


「走れ! 時間は稼ぐ!」


走れない。走ったところでこの数に囲まれた館から出られない。逃げ道がない。そんなことは分かっている。分かっていて、あの人は時間を稼ぐと言っている。自分が死んでも。


男の剣が振り上がっている。グレンが歯を食いしばって立ち向かっている。体で止めようとしている。受けたら——受けられない。さっきの一合で腕を斬られた。次は——


(能力)


頭の中で何かが弾けた。


移転。もう使わないと決めた。ルッツの時も、王子の時も、慎重に使った。もう使わないと。そう決めたはずだった。


でも。


使わなかったら、グレンが死ぬ。


私が。この人に。


剣が振り下ろされた。


グレンが受けた。金属音。剣がひしゃげる音がした。膝が石畳についた。腕が震えている。次の一撃が来たら——


「お願い——!」


叫んだ。声が裂けた。


「この状況を打破できる力を、グレンに——!」


体の奥で何かが引き裂かれた。


自分の中から何かが出ていくのが分かった。引き抜かれるのではない。流れ出ていく。堰が切れたように。止められない。止める間もなかった。


ルッツの時は違った。「企画力を100」と指定した。冷静だった。余裕があった。


今は何も指定していない。ただ「この状況を打破できるように」と——


***


音が止まった。


前庭が静まり返った。


グレンが立ち上がっていた。膝をついていたはずの人が、立っている。姿勢が違った。重心が落ちている。構えが変わっていた。本人が意識して変えたのではない。体が勝手に最適な形を取っている。


男が剣を構え直した。


グレンが動いた。


見えなかった。


一歩目が見えなかった。足が石畳を蹴った音だけが聞こえて、次の瞬間にはグレンの剣が男の剣に当たっていた。


男が弾かれた。


さっきと逆だった。同じ一合で、今度は男の方が後ろに飛んだ。足が石畳を削った。体勢を立て直す前にグレンが詰めた。


二合目。男が受けた。腕が跳ね上がった。三合目。男が後退した。四合目で男の剣が折れた。


折れた。


3,100の男の剣が。


男の目が変わった。初めて余裕が消えた。片手に折れた剣。もう片手が何かを探るように動いた。予備の武器か、後退するための足場か。


グレンが止まらなかった。


折れた剣を持った男に、なお踏み込んだ。剣先が男の肩口に向かっている。殺す軌道だった。


「——止めて!」


叫んだ。


グレンが止まった。剣先が男の喉元で止まっている。


「殺さないで。この数、この強さ——ただの盗賊じゃない。この男は何か知ってる」


グレンが剣を引いた。柄を返して、男の側頭部を打った。重い音がした。男が崩れ落ちた。動かなくなった。


作業だった。私の指示を処理した。それだけの動作だった。迷いがなかった。躊躇もなかった。正確で、冷たかった。


「他も制圧します」


短かった。声に抑揚がなかった。


グレンが前庭から出ていった。松明の方向に向かっている。


悲鳴が聞こえた。兵士の悲鳴だった。金属音が断続的に鳴って、一つずつ消えていく。


窓から見えた。グレンが松明の集団に突入していた。一人、また一人。剣を弾き、腕を打ち、膝を折る。殺していない。私が殺すなと言ったから。でもその動きには——


一人が背後から斬りかかった。グレンが振り向きもせずに肘で顔面を打った。男が吹き飛んで石壁にぶつかった。動かなくなった。


別の一人が逃げ出した。グレンが三歩で追いついた。足を払って倒し、剣の柄で首の後ろを打った。


幹部格の男——1,050の男がグレンに斬りかかった。グレンが半歩ずれた。剣が空を切った。グレンの返しが男の手首を打った。剣が飛んだ。もう片方の手で男の襟を掴み、石畳に叩きつけた。


二十人以上いた集団が、沈黙していく。


松明が一本ずつ地面に落ちていく。持つ人間がいなくなるから。


怖かった。


あれはグレンだ。黒い髪。灰色の瞳。同じ人だ。さっきまで紅茶の礼を言っていた人だ。


でも動きが違う。さっきまでは強くても「人が剣を振っている」だった。今は——何と言えばいいのか分からない。動作に感情がない。効率だけがある。最短距離で、最小の動きで、一人ずつ沈めていく。


最後の一人が膝をついた。グレンの剣の柄が首を打った。静かに倒れた。


前庭が静かになった。


松明の火だけが残っている。倒れた体の間を、グレンが歩いて戻ってきた。足取りが一定だった。息が乱れていない。二十人以上を制圧して、息一つ乱れていない。


館の入口に立った。二階の窓を見上げた。


「制圧しました。負傷者の確認と拘束に移ります」


報告だった。


正確で、簡潔で、淀みがなかった。


駆け下りた。階段を転がるように降りて、玄関から出た。セバスが何か言ったが聞こえなかった。


前庭に出た。グレンがいた。松明の明かりの中で、こちらを向いている。


「怪我は」


「ありません」


さっき腕を斬られたはずだ。見た。血が出ていた。


「腕——」


「浅い傷です。行動に支障はありません」


血は止まっていた。そうじゃない。そういうことじゃない。


グレンの顔を見た。同じ顔だった。同じ灰色の瞳。無事だ。勝った。


なのに。


「グレン」


「はい」


「……ありがとう。助かったわ」


「護衛ですから」


風が止まった気がした。


さっきまで執務室で紅茶を飲んでいた。あの紅茶はまだ温かいだろうか。


グレンが歩き出した。倒れた兵士の方へ。


その背中が、冷たかった。

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