66話:美味しい
信用組合の帳簿が形になってきた。
あれから五日。執務室にこもり続けている。草案は三度書き直した。一度目は項目が足りず、二度目は項目が多すぎた。三度目で、ようやく使えるものが見えてきた。
机の上に紙が広がっている。信用組合に参加する商会の一覧表、出資額と融資枠の算定基準、返済条件の雛形、月次報告のフォーマット。どれもまだ清書前だが、骨格はできた。
「グレン、これ見てくれる」
隣に立ったグレンが紙を覗き込んだ。
「出資比率で融資枠を決めるなら、小規模商会が不利になりませんか」
「ならない。ここ」
指で項目を示した。最低融資枠の欄。出資額に関わらず、組合員であれば一定額までは借りられる。出資比率だけで枠を決めたら、体力のある商会しか使えない仕組みになる。それでは帝国の融資と構造が同じだ。
「小さい商会こそ急に資金が要る。そこを塞いだら意味がない」
「なるほど。では、ここの審査基準は」
「帳簿の提出。直近一年分。これで返済能力を見る」
「帳簿を出せない商会は」
「出せないなら組合に入れない。帳簿がない商会に貸すのは、どちらにとってもリスクよ」
グレンが頷いた。書き足すべき注釈を、余白に書き込んでいく。この人の字は整っている。近衛時代に叩き込まれたのだろうか。報告書を何枚も書いたのかもしれない。
ペンが止まった。グレンがこちらを見ている。
「……何?」
「いえ。アイリス様が手を止めていたので」
止めていた。グレンの字を見ていた。
「——注釈の文言を確認してた」
嘘だった。グレンは何も言わなかった。
***
午後。最後の項目に取りかかった。
基金の運用報告書。四半期ごとに全組合員に開示する書式。どの商会がいくら借りて、いくら返して、基金の残高がいくらか。全員が見られる。
これが一番大事だった。帝国の融資が搾取になるのは、借り手に全体像が見えないからだ。自分がどれだけ返して、あとどれだけ残っていて、他の人がどういう条件で借りているか。それが見えれば、おかしな条件は自分で気づける。
開示こそが防壁になる。
「総返済額の累計と、元本に対する利息の比率。この二つを並べて載せる」
「利息比率を載せる意図は」
「数字を見慣れていない人でも、元本に対して利息がどれだけ膨らんだか一目で分かるように。帝国の融資でこれをやったら、あの会合で見せた商会と同じ数字が並ぶわ」
グレンが少し考えて、言った。
「見せしめの帳簿と同じ構造を、仕組みとして組み込むということですか」
思わず顔を上げた。
そうだ。あの会合で一社の帳簿を見せたから皆が気づいた。でもあれは一回限りだ。信用組合の報告書にこの項目があれば、毎月、全員が自分の目で確認できる。一人の令嬢が帳簿を持ち込まなくても、仕組みが勝手に開示する。
「……そう。そういうこと」
言葉にされて初めて、自分がやろうとしていることの輪郭がはっきりした。この人はたまにこういうことをする。私が考えていることを、私より正確に言語化する。
帳簿が読めるだけじゃない。帳簿の意味が分かっている。
「これで項目は揃った」
紙を並べた。出資と融資枠の設計。審査基準。返済条件。月次報告。四半期の運用開示。遅延時の対応手順。
あとは清書して、カイルに送る。それで草案は完成だ。
ペンを置いた。背もたれに体を預けた。窓の外が橙色に変わり始めている。いつの間にか夕方だった。
「……終わった」
声に出た。終わっていない。清書がある。カイルへの書簡もある。だが骨格は全部できた。帝国の搾取が通用しない仕組みが、この机の上に揃っている。
グレンが紅茶を淹れ始めた。何も言っていない。頼んでもいない。でもそういうものだった。
カップが置かれた。湯気が立っている。手を伸ばそうとして、やめた。まだ熱い。グレンが淹れた紅茶は飲み頃になるまで少しかかる。それを知っている自分がいる。いつから知っていたのかは分からない。
紙をもう一度見た。手直ししたい箇所が二つ、三つ。直し始めた。
「アイリス様」
「ん」
「明日でいいのでは」
手が止まった。
グレンを見た。窓際に立っている。夕日を背にしているから表情が見えにくい。でも声が穏やかだった。
以前なら「もう少し」と言った。あと一箇所、あと二箇所。数字を詰めるのに終わりはない。帳簿を閉じるのはいつも自分が限界を迎えた時で、誰かに言われて閉じたことはなかった。
ペンを置いた。
紙を揃えて、重ねた。
「……そうね」
立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、窓の外を見た。畑が夕日に染まっている。遠くにルッツが整備した屋根の列が見える。あの向こうに第二加工場がある。
紅茶に手を伸ばした。温度がちょうどよかった。
口をつけた。
いつもと同じ紅茶だった。グレンがいつも淹れる、少し濃いめの。カップも同じ。温度も同じ。何も変わっていない。
「……美味しい」
小さく、言った。
グレンが動いた気配がした。振り向いたのか、こちらを見たのか。少しの間があった。
「……ありがとうございます」
声が低かった。短かった。いつもの事務的な返答ではなかった。
(おかしい。同じ紅茶なのに)
同じ茶葉で、同じ淹れ方で、同じカップで。前に飲んだ時は「温かい」としか思わなかった。温かいから飲んでいた。味なんて分からなかった。
今は分かる。
何が変わったのか。茶葉ではない。淹れ方でもない。
自分だ。
帳簿を閉じた。人に言われて、閉じた。それだけのことなのに、紅茶の味が分かった。数字を手放した瞬間に、舌が戻ってきたみたいだった。
窓の外の橙色が少しずつ暗くなっていく。執務室が夕闇に沈み始めた。グレンが燭台に火を灯しに動いた。
「つけなくていい」
「は——」
「もう少しだけ、このままで」
暗くなっていく部屋の中で、紅茶の湯気だけが見えた。
これでいいのだ。帳簿ができた。仕組みができた。あとは清書して送れば、王国全土で同じものが動き出す。帝国の搾取が通用しなくなる。
そしてここに帰ってきた。この執務室で、この紅茶を飲んでいる。隣にこの人がいる。
名前をつけなくていい。つけなくても、分かっている。
(——ずっと、こうだといい)
窓の外で何かが光った。
一瞬だった。畑の向こう、森の際。松明の光ではなかった。数が多すぎる。十、二十——数えられない。
角笛が鳴った。
領境の見張り台からだ。短く、二回。警告ではない。二回は——
「——敵襲」
グレンの声だった。もう窓際にはいなかった。剣を掴んでいた。立ち位置が変わっていた。私と窓の間に入っている。
外から叫び声が聞こえた。遠い。でも近づいている。
紅茶のカップがまだ温かかった。さっきまでの夕暮れが嘘のように、窓の外が松明の光で赤く染まっている。
グレンが振り向いた。
「アイリス様。ここから動かないでください」
目が違った。さっきまで紅茶の礼を言っていた人の目ではなかった。
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