57話:夢を壊すべきではないと
アーレン領に戻ると、市場通りの空気が違った。
当たり前だ。ここは自分の領地だ。帝国系の看板はない。融資のルールは敷いてある。人の声が大きい。荷馬車の車輪が鳴っている。子供が走っている。
港町で見た景色が、まだ頭に残っている。板で塞がれた店。乾いた目。十五が三。
「お帰りなさいませ、アイリス様」
セバスが門の前で待っていた。こちらの顔を見て、一瞬だけ目を細めた。何かを察したのだろう。でも聞かなかった。
「ただいま、セバス。——ロッソ商会の店主が来るわ。近日中に。受け入れの準備をお願い」
「承知いたしました。場所は市場通りの空き区画でよろしいですか」
「トビアスと相談して決めて。軟膏の販売を任せたいから、加工場に近い方がいい」
セバスが頷いた。
「それと、港町の件。詳しくは後で話すけど、先に一つだけ。帝国系の融資で、港町の地元商会がほぼ全滅してる」
セバスの表情が僅かに変わった。
「アーレン領では食い止めた。でも、外では同じことが起きている」
「……王都のヴァルト商会からも、昨日書簡が届いております」
「内容は」
「融資に関する詳細な報告です。アイリス様がお戻りになってからお渡しするつもりでした」
「すぐ見る。執務室に持ってきて」
「かしこまりました」
***
その前に、市場通りを一回りした。
港町の後だと、この通りの賑わいがまぶしい。トビアスの加工場から軟膏の匂いが漂ってくる。ルッツが設計した排水路の脇で、職人が石を積んでいる。
グレンが隣を歩いている。半歩横。いつもの距離。
「……やっぱり、ここはいい」
独り言だった。グレンは何も返さなかった。返す必要がなかったのだろう。
市場通りの先に、小さな広場がある。最近できた休憩所。ルッツが作った。移住者の家族連れが使っている。
広場の隅で、子供たちが遊んでいた。五人。七つか八つくらいの集団。移住者の子供たちだ。追いかけっこをしていたのが、こちらに気づいて止まった。
「あっ、領主様だ!」
一人が叫んだ。全員がこちらに走ってきた。
「領主様、お帰りなさい!」
「旅行してたの?」
「お仕事だったの?」
一斉に囲まれた。距離が近い。大人ならまず取らない距離。
「お仕事よ。ちょっと遠くまで行ってきたの」
「隣のお兄さんも一緒に?」
グレンのことだ。グレンが少し固まった。子供の相手は得意ではないらしい。
「そうよ。護衛してもらったの」
「ずっと一緒にいるよね。お姉さんとお兄さん」
「まあ、護衛だからね」
「ふうん」
一人が首を傾げた。前歯が一本抜けている。
「ねえ、お姉さん。お兄さんのこと好きなの?」
空気が止まった。
「ち、違——」
「皆も、大切にしたい、守りたいと思える相手を見つけられるといいね」
グレンだった。私が否定する前に、先に答えた。
子供たちが一斉にグレンを見た。
「お兄さん、じゃあ好きなの?」
「そういう話ではなく——」
「好きなんだー!」
「顔赤いよ、お兄さん!」
「違います。日差しが——」
曇りだった。言い訳にもなっていない。
子供たちが笑った。きゃあきゃあと高い声で。一人が「結婚するのー?」と叫んで、別の一人が「私も領主様たちみたいになりたい!」と続けた。
「はいはい、遊んでらっしゃい」
追い払った。子供たちが笑いながら広場に戻っていく。
二人だけになった。
「……勘違いされるじゃない」
声が出た。思ったより低かった。怒ったように聞こえただろうか。怒ってはいない。怒ってはいないのだけど。
「子供ですから。夢を壊すべきではないと判断しました」
「判断って」
「それに——」
グレンが止まった。言いかけて、閉じた。
「何よ。言いなさいよ」
グレンの耳が赤い。日差しのせいではない。曇りだと本人が一番分かっている。
「……トビアスに、ロッソ商会の件を伝えなければ。先に行きます」
歩き出した。早い。明らかに早い。逃げている。
「ちょっと、グレン——」
背中が市場通りに消えた。
広場の向こうで、子供たちがまだ笑っている。「お兄さん逃げたー!」という声が聞こえた。
(……何なのよ、もう)
頬が熱い。鼓動がうるさい。でも、嫌じゃなかった。
嫌じゃなかったことが、一番困る。
***
執務室に戻った。セバスがヴァルトの書簡を机の上に置いていた。
封を開けた。
丁寧な字。前回よりも長い。
王都の状況について。帝国系の融資がさらに広がっている。以前は「顔ぶれが入れ替わった」だったが、今は融資つきで参入した商会が既存の王都商会にも声をかけ始めている。
融資条件の詳細が書いてあった。利率、返済期間、遅延時のペナルティ、仕入れ先の条件。
港町と同じだ。
数字の並びが同じ。条件の構造が同じ。ダンピングで売上を奪い、融資で囲い込み、返済不能に追い込む。港町で見た「結果」と、この書簡に書かれた「途中経過」が繋がった。
ヴァルトは最後にこう書いていた。「弊社も融資の打診を受けています。断っていますが、周囲が受け入れる中で孤立しつつあります」。
ロッソと同じだ。取引先があるから持ちこたえている。でも孤立している。
港町では手遅れだった。王都は、まだ途中だ。
帳簿を閉じた。カイルへの連絡は、もう港町を出る時に決めていた。
ペンを取った。
カイル宛の書簡。王都の融資の件について、直接話がしたい。ヴァルトの報告書と、港町で起きたことの記録を持参する。
(一領地のルールでは、外は守れない。なら、一領地じゃない範囲で動くしかない)
封をした。
窓の外で、子供たちの笑い声がまだ聞こえている。あの子たちが暮らすこの領地を守れた。でも、同じことが王都で起きている。
「——セバス。急ぎの書簡をお願い」
「カイル様宛ですか」
聞く前から分かっている。この人は本当に。
「ええ。王都に行くわ」
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