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【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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56話:届かない壁

港町の代官庁は、市場通りから二本裏に入った静かな通りにあった。


石造りの小さな建物。看板は古く、文字が薄れている。門の前に衛兵が一人。こちらを見たが、止めなかった。


受付で名乗ると、すぐに通された。アーレン領主の名前には反応があった。


代官室は狭かった。書類が積まれた机の向こうに、白髪混じりの男が座っていた。六十前後。背筋は伸びているが、顔に疲れが出ている。


【ヴェンツェル代官】

現在価値:600

潜在価値:700


「アーレン領主アイリス・ヴァレンシアです。お時間をいただけますか」


「ヴェンツェルです。どうぞ」


声は落ち着いていた。茶を出す指示を出して、向かいの椅子を勧めた。


「本題に入ります。この港町で、帝国系の商会による融資が問題になっていることはご存じですか」


ヴェンツェルの手が止まった。一瞬だけ。すぐに戻った。


「……存じております」


「地元商会の大半が融資を受けて、返済できずに廃業しています。半年前に十五あった地元商会が、今は三です」


「数字は把握しております」


把握している。その言い方が全てだった。知っていて、止められなかった。


「アーレン領では融資条件の開示義務と利息上限を設けました。同じルールをこの港町にも導入すれば——」


「アイリス様」


ヴェンツェルが遮った。丁寧だが、はっきりとした口調だった。


「私は代官です。この港町の行政を任されておりますが、通商に関する条例の制定権は持っておりません。領主様のご判断が必要です」


「領主は」


「王都にお住まいです。この港町には年に一度、視察にいらっしゃるかどうか」


不在領主。実務は代官に任せきりだが、権限は渡していない。


「では領主に提案を」


「お気持ちは分かります。ですが、領主様は帝国との関係を重視しておいでです。帝国系の商会を規制する条例は——」


ヴェンツェルが言葉を切った。目が泳いだのではない。言い終わる前に、答えが分かっているから止まったのだ。


「通らない、と」


「私の一存では何とも。ただ、過去にも類似のご提案を上申したことがございまして」


「結果は」


「却下されました」


静かな声だった。


この人は無能じゃない。問題を見ている。数字も把握している。上申までしている。それでも動けない。権限がないから。


「……ヴェンツェル殿。率直に伺います。あなた自身は、どうお考えですか」


ヴェンツェルが少し間を置いた。


「代官としての見解を申し上げることは差し控えます。——ただ、この町の商人たちが苦しんでいることは、毎日見ております」


それが答えだった。


立ち上がった。これ以上は押しても出てこない。


「お時間いただきありがとうございました」


「こちらこそ。——アーレン領でのお取り組み、耳にしております。ご立派なことです」


最後の一言が重かった。立派だと思っている。でも自分にはできない。その声だった。


***


代官庁を出た。


グレンが隣を歩いている。何も聞かない。聞かなくても分かっている。


市場通りを横切った。帝国系の看板が並んでいる。この通りの商会を一つずつ回って、融資の実態を突きつけて、代官に数字を積み上げて——。


やったところで、権限がない人間に何を渡しても同じだ。


(——あの人に、能力を使えば)


足が止まった。


ヴェンツェルの数字が頭に浮かんだ。現在600。潜在700。判断力か、交渉力か。150ずつ振れば変わるかもしれない。上申が通る言葉を見つけるか、領主を説得する力が上がるか。


可能性はある。


でも、確証がない。判断力を上げたところで、権限がない事実は変わらない。領主が帝国寄りなら、代官が何を言っても却下される構造は同じだ。数字を弄っても、構造は動かない。


それに——。


(そもそも、私はあの数字が何を測っているのかすら分かっていない)


ルッツには結果的にうまくいった。でもそれは結果論だ。鑑定の仕組みも分からないまま人の中身を弄った。数字だけで人を評価して、数字で人を配置して、合わない人間を切り捨てる——前の人生で散々見てきたことを、自分がやる側に回っただけだ。


基本的にはもう使わない。そう決めた。


足が動いた。市場通りを抜けて、ロッソ商会に向かった。


***


ロッソ商会の事務室。昨日と同じ椅子に座った。


店主が茶を出してくれた。昨日より少しだけ顔色がいい。誰かに話を聞いてもらえたからかもしれない。


「ロッソさん。昨日の続きの前に、一つ聞いていい?」


「何でしょう」


「この港を離れる気はある?」


店主の手が止まった。


「アーレン領に来てほしいの。うちの軟膏事業の要はトビアスだけど、販売網が弱い。あなたの経験と顧客がいれば、すぐに立ち上がる」


「……アーレン領に」


「条件は出す。場所も確保できる。融資のルールも整えてある。少なくとも、ここで起きていることは起こらない」


店主が湯飲みを見つめた。長い沈黙だった。


「……正直に申します。この港でもう少し粘れると思っていました。アイリス様との取引がある限り、うちは回せる。だから周りが崩れても自分は大丈夫だと」


「今は?」


「取引先が三軒しか残っていない港で、卸をやる意味があるのか。そろそろ自分に嘘をつけなくなってきました」


店主が帳簿を見た。昨日見せてくれた、港町の商会の記録。十五が三になった数字。


「あの帳簿、持っていきます。アーレン領で使わせてください」


「……使えますか」


「帝国系がどう動くか、時系列と手口が全部記録されている。次に同じことをされた時の防衛線になるわ」


店主の肩から力が抜けた。安堵ではない。決心がついた顔だった。


「お世話になります」


頭を下げた。深く。昨日と同じだが、昨日とは少し違った。昨日は来てくれたことへの礼。今日は、先へ進むための礼だった。


***


港町を出た。


馬車が動き始めた。窓の外を港の景色が流れていく。帝国系の看板が並ぶ通り。板で塞がれた店。まだ鍵だけかかっている店。茶屋の煙。


ロッソを連れ出せた。それは良かった。


でも、それだけだ。


代官には権限がない。領主は帝国寄り。融資のルールを訴えても通らない。ロッソを一人引き抜いたところで、港町は何も変わらない。残りの二軒はどうなる。茶屋のおかみさんの息子さんの店は、もう戻らない。


アーレン領のルールは、アーレン領でしか効かない。


自分の領地を守ることはできた。帝国系を追い出して、融資のルールを敷いた。でもそれは壁を作っただけだ。壁の外で同じことが起きていても、手が届かない。


港町で起きていることは、きっと港町だけじゃない。ヴァルトの書簡にも同じことが書いてあった。王都でも帝国系の融資が広がっている。


一領地のルールでは、外は守れない。


「……グレン」


「はい」


「帰ったら、カイルに連絡を取るわ」


グレンが頷いた。理由は聞かなかった。


窓の外で、港町が小さくなっていく。潮の匂いがまだ残っている。


ロッソの帳簿が鞄の中にある。十五が三になった記録。時系列と手口。


持ち帰れるものは、持ち帰った。でも、置いてきたものの方が多い。

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